「起きろ、キュウリ野郎」
 目が覚めた瞬間、俺は視界に広がる眩いばかりの青空よりも、そんなフザけた
 中傷が気になり、上体を起こした。
 空から一転、新たに広がる光景は、何となく見覚えのある街並だった。
 そして、目の前には女の姿。
 それは――――さっきまで俺のナビゲート役をしていた、あの多重人格の女だった。 
 ただ、今の第一声は、これまでとは明らかに質が異なっていた。
 声色も。
 口調も。
「誰がキュウリだって?」
「君の事を言ったつもりだ。水分96%の青臭い子供」
「……」
 絶句。
 だが、その要因は目の前の女の口の悪さに唖然としたから――――じゃない。
 寧ろ、それは仲の悪かった姉貴の中傷で慣れてる。
 問題なのは、俺自身の声。
 高い。
 まるで声変わりする前の子供みたいだ。
 ……まさか。
「だからそう言っただろ。やはりキュウリ並に水分しかないのか君は」
「俺、今、子供なのか?」
 慌てて、両手を眺めてみる。
 だが――――それほど小さいようには見えない。
 寧ろ、普通に見えるくらいだ。
「それは、君の脳……実際には脳のイメージだが、この場合便宜上『脳』と言おう。
 脳が、そうあるべきと言う記憶を元に視覚を作り変えている現象だ。
 実際には、今の君の姿は小学6年生の頃のもの。実に矮小な存在だ」
「……子供に向かって矮小言うな」
「真実だ。今の君は私にすら対抗出来まい」
 流石にふつふつと怒りが湧く中、それでも、それ以上に自分自身の確認を
 優先させるべく、足の方に視線を向ける。
 そこには――――小学生の頃愛用していたスニーカーが二つあった。
 当然、履いている。
 この靴は、中学に入ると同時に捨てた物。
 確かに――――俺は今小学生になってるようだ。
 ここまで来ると、一周回って『もう夢じゃねえの?』って言う気になってくる。
 とは言え、あの夢の中特有の、全てが朧げな世界観は一切感じない。
 風の感触が頬を撫で続けている。
 俺が、その世界を夢か現実かを判断する手段として、風と太陽熱を良く用いる。
 寒さは、夢の中でも意外と感じる。
 でも、暑さや風の感触は、一切ない。
 理由はわからないし、俺特有のコトなのかもしれないけど。
「夢と言う発想が直ぐに出てくる輩は、普段から現実逃避ばかりしている
 ヘタレ野郎と言う事だ。君をこれからはヘタレキュウリ野郎と呼ぼう」
「ヘタのとれたキュウリみたいな呼び方される筋合いはないわっ!
 つーか、何で小学生時代に戻るんだよ。逆走ってフツー、近い時代から
 遡っていくんじゃねーのか? そもそもアンタ何番だよ」
 取り敢えず、今思っている疑問を早口で吐く。
 結果――――嘲笑が飛んで来た。
「良いだろう、早漏野郎。今度から君をヘタレキュウリ早漏と呼んでやろう」
「なんか昔の言葉の語尾みたいになってんじゃねえか。逆に収まり良いぞ」
「チッ」
 何故か舌打ちされた。
 何でこんな人格がこの重要局面を任されてるんだ……仕事しろよちゃんと。
「余り意味はないが、名乗っておく。あたしは、パーソナリティナンバー93。
 クミ様、若しくはクミ尊と呼べ」
 これまでで一番、面倒臭い人格だった。
 それでも、手を出してこないだけミオやナナよりはマシか。
「で、クミ尊。なんで俺、小学生になってんの」
「そっちを選ぶあたり、生粋のドMではないのか。折角ヘタレキュウリ早漏Mと
 呼んでやろうと思ったのに」
「早漏Mって、なんかヤだな……」
 取り敢えず、最低の呼称は回避できた。
 今の時点で最低な気もするが。
「先程の回答だが、通常は徐々に時系列を遡っていくものなんだが、お前の場合、
 ハンマーで殴ったせいで少々記憶が飛んでしまってるみたいだな」
 そっちの不手際かよ!
「つーか、何でそんな前時代的な方法で気絶させたんだよ……悪意だろ絶対」
「あたしは知らん。トミさんに聞け」
 自分の人格を『さん』付けで呼びやがった。
 ヘンなヤツ。
「と言う訳で、この時代のナビゲーターはあたしが勤める。口答えは許さんぞ。
 それと、敬語使え。ヘタレキュウリ早漏M野郎の分際で、さっきからタメ口聞きやがって」
 このクミという女は、酷い悪口の持ち主らしい。
 つーか、Mは使わないんじゃなかったのかよ。
 ま……とは言え、姉貴の陰湿さに比べれば、この程度はどうと言う事はない。
 適当に流そう。
「それじゃ、ここに来た目的を教えて貰っていいかです」
「なんだ、そのやる気の欠片もない適当敬語は! せめて『〜ッス』くらい使え!」
 えらく妥協して来た。
 意外と気弱なのかもしれない。
「でも、死人が『です』なんて、洒落が効いててよくないか? です」
「チッ、キュウリの癖にナマイキな。良いだろう、これからお前は
 ヘタレキュウリ早漏デスメタルと呼んでやる」
 Mがマゾじゃなくてメタルになっちゃったよ。
 もう訳わからんけど、敢えて反論もすまい。
 口の悪い女への対応、その1。
 ムキにならない。
 これでストレスの4割はなくせる。
「よし。それじゃヘタレキュウリ早漏デスメタル。お前はこれから、学校へ行け。
 この日は卒業式。今ちょうど登校時間だ。そこで、お前はある女に告白される。
 覚えてるか? 自分が人生で唯一、告白された相手を」
「告……白ぅ?」
 ゼンゼン記憶にない。
 つーか、そんなビッグイベント、俺の細い人生にあったっけ?
 あったら排水パイプの臭いぐらいしつこく脳ミソにまとわり付いてそうなもんだが。
「告発の間違いじゃないぞ。無念だが告白だ」
「何でお前が無念に思うんだよ!」
 思うのは俺だ。
 無念だが、覚えてない。
 つーか、ホントかどうかも怪しいぞ。
 自慢じゃないが、この声もあって、俺は基本異性にモテた事がない。
 この低い声もあって、余り女子と仲良くなれなかった。
 こんな低い声じゃ、仕方ない。
 この低い声の所為で、女子とは無縁の生活をずっと過ごして来た。
 低い声の為、止むを得なかった。
「どーーーーーしても自分のモテない人生を声だけの所為にしたいようだが、
 ヘタレキュウリ早漏デスメタルがそもそも女にモテる筈はないと思うぞ」
「そんな属性小学生時代も今もねーよ! つーかさっきから何で俺の思考が
 ダダ漏れなんだよ!」
「雑な生き方をしていると、顔に思考が溜まるんだろうな。安易に読める」
 ンな歯槽膿漏みたいな言い方をされてもな……
「取り敢えず、その告白イベントを消化して来い。話はそれからだ」
「ミオの言ってた、『一度だけ現実と違う選択の出来る分岐点』ってヤツか」
「告白自体は分岐ではないんだが……まあ、実際に体験すればわかる。
 行って来い。そして自分のチンピラな人生を見直して来い」
 チンピラを修飾語に使うヤツ初めて見たぞ。
 言葉乱れてんなー。
 それはまあ、良いとして。
 ここは、小学生の頃に毎日通っていた通学路みたいだ。
 道理で見覚えがある筈だ。
 ただ、俺ら以外に人はいない。
 卒業式なら、小学生が連なってそうなもんだが。
「行け。そうすれば、お前の脳が卒業式の日の記憶を投影する」
「そう言う事か」
 まだ記憶の投影が不完全、ってコトらしい。
 卒業式……ね。
 全然、記憶にはないんだけど。
 でも、取り敢えず学校へ行ってみよう。
 小学校なんて、7年ぶりだな。
「……ん?」
 そんな回想をした所為か、次の瞬間、周りの景色が大きく変わっていた。
 いつの間にか、登校中の小学生や、通行人が出現している。
 ランドセルは、背負ってる子供と背負ってない子供と、両方。
 確か、俺は背負っていかなかったような記憶がある。
 って言うか、卒業式だけじゃなく、終業式や修了式の日は、教科書要らないから
 ランドセルも必要ない筈。 
 それでも背負う子供がいるのは、思い出作りなのか、別に理由があるのか、
 ま、どっちでもいい。
 いつのまにか、あの女もいなくなってるし。
 兎に角、小学校へ行こう。
 

 と言う訳で、なつかしの憩丘小学校に到着。
 丘って名前が付いてるだけあって、門から学校までが結構急な坂になっている。
 その点以外は特に目立った点もない、極めて平凡な小学校だ。
 俺は、そんな小学校の中でも、一際平凡な小学生だったように思う。
 当時は声変わりもしてないから、唯一の特徴である低い声もなし。
 それこそ、判を押したようなと形容される、何処にでも転がってる子供だった。
 取り敢えず、学校の玄関まで到着。
 結構な坂だけど、息切れ一つしないのは、6年間通い続けた事による順応の所為なんだろう。
 もし、大学生の俺が同じ道を歩けば、少々乳酸が溜まったかもしれない。
 小学生時代と比較しても衰えを実感してしまうってのは、悲しいもんだ……
 と、そんな回想をしている間に、俺は下駄箱を抜け、教室へと入っていた。
 自分が6年の頃何組だったかなんて、全く覚えてないと思ったんだけどな。
 実際に当時の学校が目の前にあると、その当時の記憶が嘘みたいに鮮明に
 蘇ってくる。
 6年4組。
 今は多分、こんなに組数はないだろう。
 少々のもの悲しさを覚えつつ、俺は自分の席に――――って、流石に席の位置までは
 覚えてないな。
 記憶にも蘇ってこない。
 この、少し小さい筈の教室が、やけに自分の目と身体に馴染んでいる感覚さえも、
 席が何処かを教えてくれるには到らなかった。
 となると、友達にそれとなく聞くしかない
 ボケた感じで聞けば、向こうもノッてくれる筈。
 んが――――参ったなあ。
 この頃の俺は、確か友達がいなかったんだよな。
 思わず泣きそうになる。
 苛められたワケでもないんだ。
 仲間外れにされている感じでもないんだ。
 なのに友達がいないって、どう言う小学生だよ、ホント……
 当時の俺、暗かったからなあ……今でこそ、初対面の女子に対しても
 荒々しくツッコめるんだけど。
 どうしよう。
 ここで、当時の俺が取りそうにない行動を今の亡霊のような俺がとってもいいものなのか。
 まあ、大丈夫か?
 これが例えば、タイムマシンで過去に来たってんなら、そう言う矛盾した行為は
 タイムパワーポリティックスを引き起こすかもしれない。
 ん、タイムハンドアックスだったっけ?
 まあ、そんな感じだ。
 でも、これは俺の脳内記憶by変な多重人格女。
 あいつは、『一度だけ現実と違う選択の出来る』っつってたけど、
 それは多分、人生が変わるくらいの大きな分岐点の事。
 例えばここで、俺が誰か適当なヤツの椅子に座って、そいつから『君の席はここじゃなくて
 あっちじゃないか』とラーメン屋の倅のような声で言われても、大勢に影響はあるまい。
 ってワケで、実行。
 一番前に座った事がある記憶は存在しない。
 どっちかってと、後ろが多かった。
 だから、一番後ろの一番窓際に腰掛けてみよう。
 まだ荷物が置いてないから、登校して来てない筈。
 隣にも誰もいない。
 いれば、ツッコミ係がそいつになってたんだろうけど。
「ふーぁ」
 小学生っぽくない溜息を吐きながら、着席。
 さあ、早く来い、この席の本来の住民。
 そして俺にツッコむが良いさ!
「あの……」
 意外と早く来た!
 流石にちょっと心の準備が出来てません!
 すいません、ちょっと見栄張ってたって言うか、軽くビビッてたのは事実です!
 ああっ、こんな大胆な方法、やっぱ止めときゃ良かったかも……
「放課後、話、あるから、残ってて」
 ……ん?
 俺に声を掛けてきた人物は、この席の生徒じゃなかったのか、そんな事を言い残して
 パタパタと俺から離れて行った。
 女子だった。
 顔は確認出来なかった。
 声を頼りに記憶の糸を手繰るものの、出てこない。
 つーか……もしかして、俺に告白したのって、今の女子!?
 嘘だろ、全然覚えてねーぞ。
 こんな甘酸っぱいイベント、忘れるワケないじゃんか!
 10代後半で友人に、20代で上司に、30代でワイフに、40代で我が子に、50代で部下に、
 60代でもう一回奥さんに、70代で孫に、80代で看護師に自慢出来るくらい
 超ロングランが期待出来るビッグイベントだぞ!?
 おかしい……俺の記憶が意図的に封印されたとしか思えない。
「起立! 気を付け! 礼!」
 そんな青春真っ盛りな物思いに耽る俺を置いていくかのように、委員長による
 号令がテキパキと告げられる。
 ……いつの間に全員揃ってんだよ。
 あと担任も。
 くそう、卒業式だと言うのに、俺はあの告白相手(候補)以外からは一声すら
 掛けられないのか……
 つーか、ここが俺の席だったんかよ!
 多少絞ってたとは言え、見事な偶然だ。
 もしかしたら、身体が記憶してたのかもしれない。
 つっても、この身体は脳ミソが投影したモンだから、結局は脳が記憶してたってコトだけど。
 ああもう、紛らわしいな。
 ウンザリしつつ、気が付けば体育館。
 展開速いなー。
 もう『僕たち、私たちは』の時間だ。
 当然、俺に割り当てられた箇所は全員での復唱のみ。
 覚えてなくても滞りなく卒業式は進む。
 そして、歌。
 コレは何故か歌詞をハッキリ覚えていた。
 卒業の歌も、校歌も。
 意識して覚えてた訳でもないのにな。
 俺なりに、この卒業式に対しては、特別な意識があったのかもしれない。
 例え――――友達のいない、たった一人の孤独で物静かな卒業だったとしても。
 感傷に浸る中、卒業式は終わる。
 あっけないものだ。
 卒業、なんてイベント、これから先まだ何度もある。
 でも、小学生の卒業式は、この一回きりだった筈なのに。
 もし、友達が何人かいれば、この後みんなで遊びに行ったり、
 卒業パーティーなんて開いたりしたんだろうけど。
 自分の人生の薄っぺらさが浮き彫りになったようで、酷く胸が痛む。
 いや――――違うな、これは。
 今更、そんな虚無感すら漂う過去を思ったところで、心が病むコトはない。
 これは、ただ空しいだけの思い出。
 胸が痛いのは、これから起こるイベントに対しての緊張だ。
 なにせ、俺は女の方々からちっとも相手にされない人種。
 小学生とは言え、告白なんてされるんであれば、そりゃ緊張するってなもんだ。
 ってワケで、担任との挨拶もロクにせず、俺は一人、机に突っ伏していた。
 胸の痛みは、シクシク系。
 完全に不安と緊張だ。
 つーか、こんな平凡で暗い小学生男子を好きになるって、どんな女子なんだろう。
 都合よく、まるで芸能人にでもいそうなくらいカワイイ……ってのは、期待しない方が良いよな。
 ってか、本当に告白なのかも怪しいし。
 からかわれているだけかもしれない。
 女子って、四人くらい集まると、そう言う悪趣味な悪ふざけに興じるケースが結構ある。
 人畜無害な俺をエサに、小学校最後の日を盛り上げようって言う腹なのかも。
 そうか!
 だから覚えてないんだ。
 忌まわしい記憶だから、自ら封印したんだ。
 謎はアッサリ解けた。
 フッ、さすが今の俺。
 小学生ごときに振り回されるなんて、大学生たる俺がそうそう――――
「あの、待っててくれて、ありがと」
 WOW!
 思わず一昔前のアメコミみてーなリアクションしちまった。
 それくらいビックリ。
 まだ教室に他の生徒が残ってるとばかり思ってたけど、気付けば俺とその女子しか
 いないみたいだ。
 だからこそ、話し掛けて来たんだろう。
 つーか、こうなってくるとだな、もう騙されても良いや、なんて思ってる自分がいるぞ。
 まあ、落ち着け、30秒前の俺。
 お前の話は尤もだ。
 でもな、別に騙されても、それはそれで別に良くねえか?
 女子に弄ばれるの、結構いいかもしれないし。
 この発想をあのクミ公とか言う人格に聞かれたら、やっぱりドマゾだったな、とか
 言われそうだけれども。
 女子とカラむ機会が皆無だった俺は、仮にドッキリだったとしても全然OKという
 パシフィックオーシャン並に広く広大で雄大な心で、顔を上げた。
「……」
 モジモジと、目の前にいる女子が俯きながら顔を赤く染めている。
 か、かわいい……!
 思わず教育テレビの特定の番組を毎週HDDレコーダーに永久保存しそうな性癖が
 身に付きそうなくらい、眼前の女子は可愛かった。
 これなら、悔いなし!
 さあ、ドッキリだろうが何だろうが、ドンと来いや!
「えと、えっとね。私、私……」
 くうっ、焦らし魔!
 これじゃ、折角保険を掛けたのに、やっぱりマジ告白でしたENDを期待しちゃうじゃないか!
 ああっ、俺、もうダメ……色んな意味でダメになりそう……
「その、私……ゴメンなさい」
 ……あ?
 なんか、謝られたんだけど。
「ほんとに、ゴメンなさい。ゴメンなさい……」
「……?」
 理解が出来ない。
 状況が飲み込めない。
 何故、面識すらないクラスメートに、いきなり卒業式の日に謝られる?
「私……ゴメンなさい!」
 そして、クラスメートのカワイイ女子は、理由すら言わずに謝り倒した挙句、
 教室から走り去ってしまった。
 ……何、コレ。
 つーか、告白イベントこれで終了!?
 これなら、ちょっとやさぐれた感じの女子が出てきて『はいドッキリでした、バーカマジウケる〜!」
 とか言われた方がよっぽどマシだ……
「実に愉快痛快だ。そのマヌケ面はドリフターズの完成度の高い喜劇に匹敵する面白さだぞ」
 代わりに、性根の腐った多重人格女が現れた。
 音も脈絡もなく。
 なんだろう、ファーストステージ終了みたいなノリなのか。
「おい、今のはどう言うコトだ?」
「だから、言っただろう。告白だ」
「今の何処に告白要素があったんだよ!? 俺、四回謝られて目の前で走り去られただけじゃん!」
「だから、告白されただろ? 罪の」
 ……罪の。
 ってーと、何か。
 懺悔の方の『告白』ってか。
「あの女子は、友達もいない根暗な君を見て、なんとなく『ネクライ』って呟いた。
 それが、君の小学生時代の渾名だ。君自身は一度も耳にしなかったようだが、
 裏ではずっとそう呼ばれてたようだ」
「知らなきゃ良かった!」
 うわ、最悪だ。 
 そんな呼ばれ方してたのかよ……道理でいたたまれないって顔してる訳だ。
 つーか、俺のいないところで俺が話題になってる時点で、なんかスゲー嫌だ。
 鬱病の人間が、よく自分の近くで話してる数人の集団を見て、自分の悪口を
 言ってるんじゃないかと言う猜疑心に苛まれるっていうけど、俺の場合は
 マジでそう言う状態だったってコトか……
「ここでどう言う事だと問い詰めていれば、君の人生は変わっていたんだろうが……
 現状維持と言う事で、次へ行け」
 落ち込む俺の頭上に、ハンマーが振り下ろされる。
「……はい?」
「未来永劫苦しみのた打ち回るくらいの怨念を込めて……てやっ!」
 クミ公の躊躇ない一撃に、俺の意識はあっさりと刈り取られた。


 目覚めたその場所は、教室だった。
 誰もいない教室。
 ただ――――さっきまでいた、小学校の教室じゃない。
 さっきまでは、学級文庫や掃除当番用のルーレット、世界地図、テレビなどが
 設置されていたが、今はそれらがなく、教室掲示もカラフルさがなくなり、かなり
 シンプルになっている。
 ここは、中学校。
 俺が通っていた、砂丘中学だ。
 ちなみに、高校にも丘が付いているから、俺の人生の3分の2、12年は丘のつく場所で
 過ごした事になる。
 ま、それはどうでも良いとして。
 この砂丘中学校は、かつて砂丘があった場所を埋め立てて建てられた学校らしい。
 んで、俺はと言うと。
 その中学の教室の一つにて、ボーっと突っ立っていた。
「……」
 中学時代と言う事は、今から――――と言うのもおかしいんだろうけど、取り敢えず
 それは置いておくとして、今から4〜6年前って事になる。
 当然、記憶には残っていた。
 それも、かなり。
 俺にとって、中学生時代は、ある意味黄金時代だった。
 友達のいない小学生時代をリセットしたくて、中学デビューとやらを決意し、髪の毛を
 濃い目の茶色に染め、カジュアル系のファッションを目指すべく、これっぽっちも
 縁がなかったセレクトショップでユナイテッドアローズのシャツやパーカーとか買ってみた。
 結果は――――特に効果なし。
 生活の大半は制服だし。
 加えて、砂丘中学は規制が甘くて、茶髪は一応禁止事項なんだけど、ほぼ容認してる
 状態だったんで、珍しくもなかった。
 ただ、その効果はなかったけど、何処か自分の中で、壁を破れたような気がした事は確かで、
 それが例え錯覚だったとしても、俺の中にあった人見知りや劣等感は、この中学デビュー失敗を
 境に、大分消えていた。
 人間、誰しも順応性は持ってる、って事なんだろう。
 もしこの時、何も変えようとしなかったら、俺は今も家の中に閉じこもったままの人間だったかもしれない。
 ……それなら死ななかったかもな。
 とまあ、そんなネガティブ思考は取り敢えず置いておくとして、自分なりに殻を破ったことで、
 席の近い男子がノリで話しかけて来た時の対応も、ドキマギしつつもフランクに
 出来るようになって、結果的に雑談くらいはこなせるようになっていた。
 友達、とは言えなかったかもしれない。
 ただ、昼休みに駄弁るくらいの仲にはなった。
 声変わりが始まって、俺の声がやけに低くなってくると、結構その事でイジられるようになった。
 なんて事のない、ありふれた特徴。
 でも、それが俺のすべてだったのかも知れない。
 UMAって渾名をつけられた時は、口では嫌がりつつ、内心嬉しかった。
 渾名なのに、生まれて初めて、他人から名前で呼ばれたような、そんな気がした。
 ちなみに、茶髪は一月でやめたんだよな。
 ヘアダイやブリーチは高けーし、脱色はしたくなかったし。
 それも含めて、懐かしい思い出。
 俺の中では、今尚輝かしい歴史として、この教室も――――
「……?」
 不意に、人の気配が背中の方から漂ってくる。
 まあ、この状況で俺の近距離にいるのは、アイツしかいないんだけど。
 振り向くと、そこには案の定、多重人格女がいた。
 またあのクミ公じゃねーだろな……
「……」
 沈黙。
 ただ、懸念が消えた事は直ぐに理解できた。
 クミ公でもなければ、これまで登場した人格でもない。
 表情が、これまでにないくらい暗い。
 つーか、殆ど無だ。
「……」
 まだ喋らん。
 俺が振り向いて一分くらい経過したのに、一向に口を開く気配がない。
 何だ……?
 新たな嫌がらせか?
 こちとら、今の記憶逆行イベントに関しては完全に受身状態なんだ。
 ナビゲーターが指示してくれないと、何もわからないぞ?
「なあ。早く案内してくれよ。俺が次に何すんの」
「……」
 沈黙!?
 こっちが喋りかけたのに!
 まさかとは思うが…… 
「無口キャラ、って事じゃないよな……?」
 恐る恐る訊ねた俺に、女は6秒停止した後、コクリと小さく頷いた。
 大阪人じゃないけど、何やねん!
 ナビゲーターが無口キャラって、どう言う手違いだよ!
 完全に人選間違ってるじゃねーか!
「…………33」
 頭を掻き毟りたい衝動に駆られる中、現人格は初めて言語を発した。
 番号は辛うじてわかったけど……小さい。
 聞き取り辛い。
「…………ミサ」
 そう呼べ、と言う事なんだろう。
「んじゃ、ミサさん。説明……出来るのか?」
 コクリ、と小首を傾げるように頷く。
 不安と言うよりダメだろうって言う確信すらある中で、俺はミサと名乗る
 無口キャラの説明に耳を傾けた。
 と言うか、澄ました。
 そうしないと聞き漏らしそうだ。
「…………ここ、来る」
「誰が」
「…………人」
 そらそうだろよ……仮に動物が入ってきたとして、俺にそれをどうしろってんだ。
「そういう事を聞いてるんじゃなくてな」
「…………待ってて」
 そんな俺の嘆きを無視して、ミサは表情こそ崩さないが、何故か胸を撫で下ろしていた。
「いやいやいやいや、なんか一仕事無事に終えたみたいになってるけど!
 俺への説明責任は全く果たしてないぞ! お前は汚職疑惑浮上中の政治家か!」
「…………違う」
 真面目に否定して来た。
 冗談は通じそうにない。
 ったく……仕方ないな。
 これじゃもう、これ以上の予備知識は得られそうにない。
 俺自身で、これが何時の頃なのかを正確に思い出して、対策を練る必要がありそうだ。
 予め何が起こるかをわかってないと、分岐点とやらにいきなり遭遇しても、
 適切な判断が出来ない。
 何となく、俺はこの奇妙な記憶逆行のカラクリと言うか、自分がすべき事を
 わかってきつつあった。
 多分だけど――――これは、心残りを消す作業なんだ。
 まず、自分が死んだということを自覚すること。
 これは、フミもそう言っていたから間違いない。
 そしてもう一つはきっと、これまでの人生の中で、後悔してる事を
 一つだけやり直す事で、心残りをなくして、成仏出来るようにする為。
 要は、幽霊とか地縛霊とか、そういうモノにならないための予防接種みたいな
 ものなんだろう。
 まあ、幾ら意識が現世に留まるとは言え、そういう存在になるのは俺とて御免だ。
 最終的には退治される訳だし。
 悪霊なんかになった日にゃ、末代までの恥だ。
 まして、そうなって身内に恥をかかせるとか、迷惑をかけるとか、
 被害を与えてしまうとか、そんなコトになってしまったら、目も当てられない。
 それなら、潔く死んだほうがよっぽどいい。
 外れてたら恥ずかしいけれど、多分合ってる……と思う。
 そして、それを無事こなす為には、情報が必要だ。
 俺はどの時代に、どんな心残りや後悔を置いてきぼりにしたのか。
 取り敢えず、教室を出てプレートを見てみよう。
 学年がそれでわかる。
「なあ、ちょっと廊下に……いねえし」
 ミサ、出番アレだけかよ!
 それなら出てこなくてもよかったじゃねーか……なんだったんだ、アイツは。
 しゃーない、取り敢えずクラスを確認――――
「おう、待たせて済まなかったな」
 しようとした刹那、乱暴に扉が開き、ジャージ姿の男が現れた。
 ああ、覚えてる。
 この人は、3年の時の担任だ。
 名前は、御子柴。
 面倒見のいい教師だった。
 ってコトは、今俺は中学三年生なんだな。
 改めて、中3の頃を思い返してみる。
 黄金時代の中にあって中3って時期は、受験もあったから、ちょっと忙しなかった。
 比較的あんまり思い出がない。
 その中で印象に残ってるのは――――文化祭。
 最後の文化祭って事で、クラスが団結して思い出作りに励んでた。
 んで、俺はと言うと、流石に率先して努力しようとか、みんなを纏め上げようとか、
 そういうポジションじゃなかったんで、中心とは程遠い位置にいたけれど、
 自分なりになけなしの協調性を搾り出して、調和に協力した記憶がある。
 夜も、塾組がとっとと帰る中、数人だけ残って黙々と作業して。
 出し物は、プラネタリウム。
 アレ、手作りで作れるって知らなかった。
 ただ、兎に角大変。
 大規模なプラネタリウムを作るには、まずデカいドームを作る必要がある。
 ここに投影機で星を映すんだけど、このドームは紙じゃ無理だし布だと
 客が出入りする際の衝撃でヨレヨレになったりするからって事で、
 ダンボールを使用する事になって、ダンボールで半球を作る事になった。
 まず計算から始めて、立体的にするにはどう言うパーツをどう組み立てるか
 って事を事前に考える必要があるんだが、まあ、上手く行かない。
 何度も何度も失敗して、残り2日でようやく完成した。
 投影機も買える訳がないんで、手作り。
 流石に4等星5等星まで再現するとなるとシャレにならないんで、3等星までに抑えて
 残りは適当に穴開ける感じで作ったんだけど、それでもまあ、かなり苦労してた。
 んで、結果的に完成したんだけど、光が弱くてなんとも微妙なプラネタリウムに
 なったんだよな。
 それでも、皆で作った思い出は強く強く残る訳で。
 あんま大した仕事はしてないんだけど、今でもその時の事は覚えてる。
「ん、どうした? ウチの爺さんが昔話してる時と同じ顔してるぞ」
 ……まあ、人生の終末期に自分の黄金時代を回想してるって意味では同じだろうけどさ。
「それより、決まったか? 文化祭の出し物をどれにするか」
「え?」
「え? じゃないだろ。お前が俺に伝えるって話だったろ?」
 暫し記憶のチューニングを行い――――理解する。
 ああ、そうだった。
 この日は、クラスで文化祭の出し物を決める話し合いを放課後にしてたんだ。
 で、まとまったら、俺がそれを担任に伝えに行くって段取りだった。
 けれど、担任は所用で暫く学校を離れるってんで、暫く教室で待ってたんだ。
 この時――――俺は当然、クラスで決まったプラネタリウム案をそのまま伝えた。
 ただ、それはかなり難色を示されたんだ。
 難易度が高いし、用意するものが多いから金も掛かる。
 中学の文化祭としては、ちょっとレベルが高すぎるって事だった……ハズ。
 でも結局、俺はプラネタリウム案を懇願して、了承を得た。
 自分なりに、クラスに貢献したいって言う思いもあったからな。
「……プラネタリウム? そりゃちょっと無理だろ。大学の同好会でも難しいぞ」
 案の定、担任は渋った顔を見せた。
 そして、確か次にこう言う。
 それなら、少し妥協して――――
「伝説の占い師、コールスロー向坂を招いて占いの館にしてみたらどうだ?
 俺が呼べば彼は来るぞ」
「はぁ」
「コールスロー向坂は確かな実力と運用が売りの占い師だ。喜んで占いにやってくる
 女子生徒が多いと思うんだがなあ」
 運用って何さ。
 ……って、当時の俺も思ったもんだ。
『つーか、誰だよコールスロー向坂って。知らねーし聞いた事もないヤツ呼んで誰が喜ぶんだ』
 ってのが、当時俺が出した結論だった。
 ただ、後に発覚した事なんだけど、このコールスロー向坂はマジで有名な占い師らしい。
 コールスローを作りながら占う『キャベツ占い』で世界的な名声を得ているとか。
 もし、この時――――俺がプラネタリウムを止めて、占いの館案を受け入れたとしたら。
 その占い師はきっと、この学校に来た筈。
 多分、大人気。
 プラネタリウムやるより、盛り上がったかもしれない。
 何より――――俺の死を予見してくれたかもしれない。
 もしかして、ここか?
 一度だけ変更できる分岐。
 ここで、史実と違う行動を取れば、俺はもしかしたら死なずに済むんじゃないか?
 いや、わかってる。
 これはあくまでも、俺の記憶内、イメージ内の出来事。
 ミもフタもない言い方をすれば、妄想だ。
 妄想内で、『if劇場』をやってるだけの事。
 ここで歴史を変えたところで、俺が死なずに済むワケじゃない。
 わかってる。
 わかってるんだけれど――――心のどこかに、御伽噺や童話を信じる純真さとは
 真逆の、都合の良いハッピーエンドを期待する自分がいる事も事実。
 この俺が今行っている作業が、神様とかそういう存在の課した
 何らかの試練で、上手く『当たり』を引けば、助かる――――なんて事も
 あるかもしれない。
 そんなご都合主義展開が待っているかもしれない。
 寧ろ、そうであって欲しい。
 そんな願望が渦巻く。
 同時に、ここで一枚しかないカードを使うべきか、と言う逡巡も生まれる。
 どうする?
 正直、占い師なんて曖昧なものに自分の運命を委ねるのは心許ない。
「どうだ?」
 担任は、返事を急かす。
 決めなきゃいけない。
 俺は――――
「……プラネタリウム、やらせて下さい」
 気付けば、そう答えていた。
 打算はあった。
 保身で必死だった。
 生きたい。
 叶うなら、生きていたい。
 まだ19歳。
 何にもなれていない。
 俺を惜しむ人間なんていやしない。
 身内もきっと。
 でも、俺にとって、それでもプラネタリウムの想い出は、捨てられなかった。
 これをなくしたら、俺は多分、何も残らないから。
「そうか。そこまでいうのなら、頑張ってみろ」
 何度か聞き直した担任も、最終的には折れた。
 史実通り。
 そして担任は、最後にこんな言葉を残す。
 一語一句違わずに覚えている。
 お前、結構――――
「強情だったんだな。見直したぞ。もっと大人しいと思ってたが、しっかり男やってるじゃないか」
 今の時代、強情さなら断然男より女だと思うんだけれど。
 そう言われて、悪い気はしなかった。
 いや、違う。
 スゴく嬉しかった。
 これもまた、俺にとってはかけがえのない思い出。
 かけがえのない、一時だった。
「…………終わり、です」
 気が付けば、目の前の担任は消えていた。
 代わりに、背後から聞こえる声に、何処か心地よさを感じる。
 自分の過去を傍観しただけだった。
 けれど、一種の達成感を覚えていた。
「…………良かったんですか?」
 そんな俺の表情を理解出来ないのか、或いはわかってて敢えて聞いているのか。
 ミサと名乗った女は、無表情で問い掛けてくる。
 そこからは、感情も思惑も読み取れない。
「ああ。後悔はない」
「…………私は」
 断言した俺に、数拍の間の後、ミサは小さい声を紡いでいく。
「…………それで良いと、思います」
「そう、かな」
「…………はい」
 少ない言葉で、呟くように答えたその声が、俺にはやけに心強く聞こえた。
 同時に、力が抜ける。
 急速に訪れる眠気。
 不自然なくらい。
 俺は、最寄の机に寄りかかり――――


 俺にとって、高校時代は小学校時代ほど暗黒に染まってはいなかったんだけど、
 違う理由で余り思い出したくない時期だった。
 家庭環境の悪化。
 理由はそれに尽きる。
 まず、親父とオフクロの離婚。
 これには、言いようのない恐怖を覚えた。
 正直に告白すると、親の事なんて、どうでも良かった。
 自分の将来への不安。
 経済的な心配。
 ちゃんと大学に行けるのか、と言う焦燥。
 この頃に考えていたのは、そればかりだった気がする。
 実際に離婚したのは、高3の夏。
 それまでは、ずっと親同士の険悪な空気を感じながら生活していた。
 口の悪い姉貴は、次第に言葉を失った。
 最後の悪態を聞いたのは、いつだったか。
 家では一切、口を開く事がなくなってしまった。
 実は――――それが、一番ショックだった。
 本当に、ムカつく事ばかり言うヤツで、大嫌いだったんだけれど。
 向こうも向こうで、同じように思ってたかもしれないけれど。
 そう言うヤツが、目に見えて病んでいくのを見るのは、罵詈雑言を浴びる事の
 比じゃなかった。
 実は、高校時代の思い出は、殆どない。
 学校で何をやったのかって言うと、勉強くらい。
 中学高校と、部活に入る事もなく過ごして俺にとって、高校って言う舞台は
 ただベンキョウをするだけの場所だった。
 中学時代に割と話した同級生は、一人も同じクラスにならなかった。
 周りには、知らない人間ばかり。
 そこから、また一から交友関係を築き上げていくと言う気にはなれなかった。
 家の事もあったし、疲れてたんだと思う。
 勇気もなかった。
 ただ漫然と、机に向かっていた。
 教科書とノートに逃げていた。
 この頃には、もう俺の事をユーマと呼ぶ人はいなくなった。
 多分、この渾名を覚えてる人も、もういないだろう。
 多重人格女には、まるで今も色んなヤツに呼ばれてるような言い方をしたけれど。
 俺のその、黄金のような輝きを放っていた『名前』は、この高校生活の前に
 既に錆び切っていた。
 そんな、高校時代が――――今、俺の目の前にある。
 俺は、自分の部屋にいた。
 一人、机に向かっていた。
 見慣れた部屋。
 カレンダーは6月を示していた。
 そして、机の上には、ノートや参考書の他に、高3になって買った水筒が置かれていた。
 この時期は、台所や居間に行くのも嫌だった。
「思い出したくなかったかな?」
 そんな俺の後ろには、例の如く多重人格女がいる。
 そして、今回のその声には、聞き覚えがあった。
 少し大人びていて、落ち着きのある声。
「フミ……さん?」
「そうだよ。良くわかったね」
 108あるらしい人格の中に、彼女と似た雰囲気の人格はきっといる。
 でも、俺はその声が彼女のものだと、何となく確信していた。
「でも、何で? これまでずっと『はじめまして』の人格ばっかだったのに」
「私が一番ユーマくんに合うみたい、って言われたんだよ。みんなに」
 みんな――――それはすなわち、残りの人格の事なんだろう。
「私は、っていうか私達は、君みたいな立場の人間と接する時には、最初に
 何人かの人当たりの良い人格を一通り試して、それから一番相性のいい人格を
 決めるようにしてるんだよ」
「とてもそうは思えなかったんだけど……」
 半分くらいはマトモなコミュニケーションすら取れてなかった気がするぞ。
 そんな俺の言葉に、フミさんはクスリと笑っていた。
「でも、何でそんな事を?」
「みんな、死んだばかりで不安だからね。少しでも、自分の波長と合う人がいいみたいだから」
 死者の案内人と言う役割がどれ程大変か――――それは想像に難くない。
 手前味噌になるけれど、俺は多分、かなり落ち着いている方だと思う。
 自分が死んだと信じないヤツ。
 自分が死んだ事を本気で理解できていないヤツ。
 恨みを持って死んだヤツ。
 情緒不安定なまま、自殺したヤツ。
 きっと、そんな連中がごまんといる。
 それでも、彼女は案内しなきゃならないんだろう。
 或いは、その為に身に付いた能力――――と一瞬思ったけれど、そんな訳がないと
 苦笑しながら思い直す。
 多重人格なんて、意図して作れるものでもない。
「私の多重人格は、ちゃんと別の原因があるんだよ」
 また思考読みやがった。
 死人の考えてる事は、外に漏れるんだろうか?
「って言っても、ありふれたものだけどね」
「やっぱり、虐待……?」
 恐る恐る聞いてみる。
 つっても、初対面の相手に話す事じゃないだろうから、答えは期待出来ないけれど。
「違うよ。逆。周囲の溺愛が原因なんだよ」
 溺愛……? 
 それがどうして多重人格を引き起こす?
「私はこれでも、周囲にとても期待されてたんだよ。天才だ、神童だ、って言われてね。
 2歳の時に作った曲が、フランツ・リストの『ピアノソナタロ短調』の一節と全く同じ
 フレーズだった事が、ピアノの先生から音大の教授に伝わったんだ。それからだったかな、
 私が私だけじゃなくなったのは」
 音楽家――――ピアノ演奏者だったのか。
 しかも、2歳で作曲?
 鼻歌、なんだろうけど……
「最初は、偶々聞いた『ピアノソナタ』をそのまま真似たんだろう、って言われてたみたい 
 だけどね。で、2歳児がそれをするだけでも凄い事だって褒める人とか、お前の親は
 詐欺師だっていう人とか、色々出てきてね。私の周囲は兎に角、うるさかったんだよ。
 私はその度に、音を奏でて雑音をかき消したんだ。そして、作った曲の数だけ、
 人格が生まれて行ったんだよ」
 曲が人格を作る。
 いや、逆なんだろう。
 極度の期待、非難、そして圧力。
 それらが、幼少期にどれ程のストレスとなったのか、俺には想像すら出来ない。
 確かな事は――――彼女は107回も耳を塞いだと言う事。
 そこまで分裂させないと、ストレスから身を守れなかった、と言う事だ。
「……一番最初の人格は、やっぱり1番なのか?」
「そうだよ。パーソナリティナンバー、1。彼女だけは、正式な名前があるんだ。
 でも、もう意味はないみたい。二度と、表には出てこないつもりだから」
「……」
 どんな思いで、彼女は人格を分裂させ続けたのか。
 きっと、その数だけ殻を作っていたんだろう。
 107もの殻に包んで、外敵から身を守った。
 心を殺さない為に。
「ちなみに、人格は108あるけど、この中でまともに話が出来るのはね、
 10人くらいしかいないんだよ。言語を操れるのも、20人いないくらいかな」
 それはつまり――――他の人格は、言葉を覚える前に、別の人格に
 移行せざるを得なかった、って事なのか。
 さっきの『何人かの人当たりの良い人格を――――』ってのは、冗談でも何でもなかった。
 アレでも、随分とマシな方だったんだ。
 あの口の悪いクミってヤツも。
 性格の破綻してるナナってヤツも。
 まだ、話せるだけマシだったんだ。
「苦労してんだな」
 俺は思わず、そんな事を口走っていた。
「そうでもないよ。死人よりは、少しくらいはマシだからね」
 その通りだというのに。
 この期に及んで、まだ俺には死んだ実感がないのかもしれない。
 あれだけはっきりと、最期の瞬間を覚えてるってのに。
「私の事はどうでもいいよ。それより、君はこれからまた、一つの分岐点に 
 差し掛かる事になるから、心の準備はしておいてね」
「……これって、最後の分岐じゃないのか? 大分最近だよな、これ」
「それは言えないよ。言えば、そこで別の行動をする事が確定するからね」
 確かに。
 まあ、それでも尚スルーするって言う選択もあるんだけど。
 ただ、それを行うかどうかを決める為にも、聞いておきたい事が一つあった。
「なあ。もしかしての話なんだけどさ。もしかして、今俺がしてる事って、生き返るとか、
 死なずに済むとか、そう言う可能性に繋がってたりするのか?」
 聞きつつ、少し緊張する。
 もし、ここで『違うよ』なんて淡々とした口調で言われたら、心が折れそうだ。
 でも、受け入れなきゃならない。
 その可能性だって十分あるんだ。
 俺は最初、この一連の行動を『心残りを消す作業』と思っていた。
 それは今尚、一番高い可能性として残っている。
 一つ一つの思い出を噛み締めて、自分自身の行動に納得して、そして
 思い残しなく、この世を去る。
 それが一番理に叶ってるしな。
 でも、死なない自分、未来のある自分を棄てる事も出来ない。
 出来る筈もなかった。
 何故なら――――俺は、まだ生きていたいから。
「……」
 フミさんは、答えなかった。
 ただ、少しだけ微笑んだ。
 それが、哀れみを帯びていたのか。
 或いは、気付いた事への賛美なのか。
 その答えが、多分これから露見する。
 これから訪れる分岐で。
 まだ2年と経っていない出来事。
 当然、ハッキリ覚えてる。
 日付だって当てられる。
 2009年6月21日。
 日曜日。
 この日、俺は朝から勉強机に向かっていた。
 別に勉強熱心ってワケじゃない。
 そこにしか居場所がなかっただけ。
 気付けば――――フミさんはいなくなっていた。
 もうここは、あの日の俺の部屋。
 そう。
 この日、一つの事件が起こった。
 多分、もう直ぐ。
 あの出来事が――――
「何だその目は! それが親を見る目かっ!?」
 遠くから、予兆が聞こえてくる。
 これが誰の声なのか、そして誰が怒鳴られているのか。
 当然、俺はそれを瞬時に理解していた。
 そして、俺のとった行動はと言うと――――沈黙。
 姉貴が、親父を蔑んだ目で見たんだろう。
 別に珍しくもない事だった。
 だから、無視。
 当然だろう、取るに足らない出来事だ――――と、この時は思ってたんだから。
 でも、直ぐにそれは変わる。
 この家は平屋で、オフクロは居間に寝ていて、親父と俺と姉貴の3人はそれぞれに
 個室を持っている。
 俺の部屋は、玄関の直ぐ傍。
 居間までは少し遠い。
 扉を閉めた状態では、普通の会話くらいの声の大きさでは聞こえない。
 今みたいな叫び声なら、ハッキリ聞こえる。
 そして――――無理矢理押さえ込んだような悲鳴は、微かに聞こえる程度だった。
「ちょっと何してるの!? バカじゃないの!?」
 その直後、オフクロの常軌を逸した叫びが聞こえてくる。
 ここで俺はようやく、異常を察知して部屋を出たんだ。
 記憶を辿りながら、過去の自分と同じように扉を開き、居間へ向かう。
 そこには、激昂した親父と、蒼褪めた顔のオフクロと――――頭を抑えて蹲る姉貴がいた。
 その手からは、見た事もない量の血が溢れている。
 親父の手には、ガラス性の灰皿が握られていた。
 そう。
 この事件が――――決定的だった。
 親父がどうして、姉貴を殴ったのか。
 どうして、この日に限ってそんな事態になったのか。
 俺は後日、それを知る事になる。
 6月21日、日曜日。
 この日、仕事のない親父は朝から飲んでいた。
 俺が中学を卒業した頃から、毎週の恒例となっていた。
 居間には一日中、アルコールの臭いが充満していた。
 そんな親父を、俺も姉貴も忌避していた。
 兎に角、疎ましくて仕方なかった。
 でも、俺はそれを表面に出す事はしなかった。
 姉貴は、言葉を発しない代わりに、侮蔑の視線を向けていた。
 多分、俺より姉貴の方が、父親に対しての愛情が深かったんだろう。
 その目は、子として精一杯の愛情だったんだ。
 ダメだよ、って。
 そんなコトしてちゃ、ダメだよ、って。
 ずっとそう、訴えてたんだろう。
 気付くべきだった。
 少なくとも、親父は気付いてやるべきだったんだ。
 でも、そんな余裕もなかったらしい。
 オフクロと親父の仲違いは、親父が家で酒を飲むようになってから、かなり顕著になった。
 仕事のストレス。
 家事のストレス。
 一人は酒に逃げ、一人は逃げ場なく足掻き。
 上手く行く筈もない。
 だから、同時に期待していたのかもしれない。
 そんな不協和音をかき消すような出来事を。

 その日は――――父の日だった。

 居間には、まだ一月以上前に購入されたカーネーションのプリザーブドフラワーが、
 テーブルの上を彩っていた。
 それが、原因だった。
 この一月だけじゃない。
 それは、何年も積もっていた悲痛。
 父の日が軽視される事なんて、どの家庭でもある事だけれど。
 心の何処かに、悲しさはあったんだろう。
 そして、深酒し過ぎていたんだ。
 それが――――親父が姉貴を灰皿で殴った原因だった。
「救急車お願いします! 場所は……」
 オフクロが震える声で電話の向こうに訴えている。
 そして、その電話が終わると、剥き出しの感情をそのままに、こう言う。
 もう――――
「終わりよ! 離婚だからね! 終わり終わり!」
 それは、知っていても尚、俺の胸から上を全部抉り取るような、家族の終了宣告だった。
 そして、これが分岐点。
 間違いない。
 俺はこの時、何もしなかった。
 何一つ言葉を発しなかった。
 結果――――双方納得の下、離婚が成立した。
 親父にしても、これは決定的な出来事だったんだろう。
 息子だからわかる。
 親父は小心者だ。
 この後、姉貴は頭を12針縫い、暫くの検査入院を余儀なくされた。
 そして、この怪我を境に、頻繁に倒れるようになった。
 怪我が直接的な原因じゃない。
 心的外傷。
 この二ヶ月後と半年後、姉貴は学校と家で一回ずつ倒れ、救急車の世話になったりしている。
 過度のストレスが原因らしい。
 そして、娘にそんな傷を負わせた事は、怪我をさせた張本人にとっても、一生残る大きな
 大きな、本当に大きな傷となった筈だ。
 もう、顔を見る事も出来ないくらい。
 そして、離婚を期に、親父は俺達の前から姿を消した。
 今、何処で何をしているかは知らない。
 そして、この分岐は――――両親の離婚を思い止まらせるか、そのまま傍観するか。
 つまりはそう言う事なんだろう。
 ……待てよ。
 救急車。
 まさか――――いや、考え過ぎか?
 地獄のような沈黙が続く中、俺はと言うと、一人考えていた。
 自分の事ばかり、考えていた。
 もしここで、俺が泣いて訴えて離婚を止めたとして、果たしてそれが
 俺にとってプラスとなるのか。
 俺が死なない未来を作れるのか。
 ここをスルーすれば、他の分岐点へ移動する事になるのか。
 他に自分の人生で、分岐点となるような出来事はあったか。
 そんな事を考えていた。

 そして。

 それは――――かつて同じ場面に初めて遭遇したあの日、俺が思っていた
 将来に対する不安、大学進学への懸念などと同じ種類のものだと、気付いた。
「……待ってよ」
 気付いたら、自然と言葉が出ていた。
「離婚なんて、しないでよ」
 恥ずかしいくらいに、震えてしまっている声で。
「しないでよ。離婚なんて、しないでよ」
 ただ、繰り返した。
 本来ならば、去年のこの日に言うべきだった事を。
 未来、将来、安定、安楽。
 当時の俺のそれらを保持する為だった筈の言葉が、今の俺のそれらを崩そうとしている。
 きっとこの分岐点に、俺の死を回避する要素はない。
 親が離婚しても、俺は大学へ行く事が出来たんだから。
 だから、一人暮らしを始めて、あのアパートに帰る『その日』は、何も変わりはしない。
 救急車に轢かれるあの日は、またやってくる。
 それなのに、俺は、この分岐点を史実と変更する事を選んだ。
 当然、俺のこんな力ない言葉なんかで、直ぐにオフクロが前言を撤回するワケじゃないだろう。
「何言ってるの……もう耐えられないでしょ? アンタも。見なさい! お姉ちゃん、
 血だらけなのよ!? お父さんといると、もっと酷い事になるかもしれないのよ!?」
 案の定、オフクロは怒りの矛先を俺に向けるだけ。
 当然だ。
 そして、正論だ。
 酒に酔った勢いとは言え――――いや、だからこそ。
 同じ事、或いはそれ以上の事が起こり得る。
 オフクロの言葉は、これ以上ない正論だ。
 でも、引けない。
 理由がある。
 あの時の俺は、考えもしなかった事。
 今の俺なら、わかる。
 ここで両親が離婚すれば――――してしまえば――――

 姉貴がもっと傷付く。
 そして、もしかしたら、この後更に……
 
「大事なのはわかるよ。でも、もう少し待ってよ。今はみんな、動転してる。
 もう少し、時間を置いてから考えよう。俺も、ちゃんと自分の思ってる事言うし、
 悪い所は治すから。だから今は、その話は止めようよ」
 俺の低い声は、果たしてどれくらい、力を持っていたんだろうか。
 取り敢えず、少しの間沈黙を作る事が出来たんだから、門前払いはされなかった。
 そう信じたい。
「……別に」
 不意に、声がする。
 姉貴の声だった。
「これくらい、どって事ない」
「美樹……! 何言ってるの! コラ、動いちゃダメ! もう直ぐ救急車が来るから……
 待ちなさい!」
 精一杯の強がり。
 そう見えた。
 俺の意思が通じたのかもしれない。
 昔から、俺と姉貴は仲が悪かった。
 姉貴の悪口は辛辣だった。
 でも、俺の事を誰よりも理解しているのは、その姉貴だった。
 多分、その逆も。
 そう言うもんだ。
「……親父、外に出て救急車を誘導しろ」
 少しだけ心が軽くなった気がした俺は、場違いな笑みが零れそうなのをガマンしながら、
 親父に手を差し出した。
 姉貴を殴った灰皿を受け取る為に。
「早く」
「……あ、ああ」
 気が動転していた親父は、それでも多少冷静さを取り戻したのか、灰皿を寄越して
 玄関へと向かって行った。
 その背中から目を離し、俺は風呂場で血を洗っている姉貴に視線を向ける。
 俺は、ようやく自覚した。
 俺の『心残り』は、これだったのだと。
 頭で考えた事じゃない。
 考えられる余裕なんて、ある筈もなかったんだから。
 でも、辿り着いた。
 その可能性に辿り着いて、後悔した。
 そして、その後悔は、きっと――――消えたんだ。

「よかったね」

 そんな声が、遠くから聞こえて来た気がした。
 俺は、薄れていく景色を自覚しながら、それでも笑った。
 心から満足だった。


 でも。
 出来る事ならば。


 もう一度だけ、家族みんなで。


 みんなで、いっしょに――――







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