ヘレンチア研究室へ派遣されて以降、ウォルトの大学内での生活は一変した。

 現在、この研究室で実質的に行われている研究はヘレンチア助教授が手掛ける【赤魔術と青魔術の相関関係についての考察】のみ。
 この研究はタイトルだけを見ると、赤魔術と青魔術の関係の分析という非常にありふれた内容に思えるのだが、そこは流石に助教授自ら手掛ける研究。
 赤、青、黄、緑の四属性全ての相関関係を調査し、その中で赤と青にのみ見られる特徴的な関係のみをピックアップし、深く解析するという一筋縄ではいかないものだ。

 例えば、赤魔術の次に青魔術を編綴した場合、出力される魔術に何か影響が出るのか。
 赤魔術と青魔術が衝突した際にお互いの魔術が消滅反応を示すのは常識だが、その衝突点でどのような魔力の作用が生まれるか――――等。
 ただ、現時点では理論構築と実験すべき項目の吟味が最優先で、魔具の出番はないらしい。

 ヘレンチア以外だと、研究室所属の五人の内、オルフェとリラの研究は初期も初期、序文の段階。
 酒場で遊び呆けている三人に至っては研究室に顔すら見せない。
 こういった状況で魔具技師に何が出来る筈もなく、結局――――

「この一文を良く見ろ。『ただし臨戦魔術士以外の魔術士だけに焦点を向けると、必ずしも同じ結果が出るという訳ではない』と書いている。何事にも例外はある」
「………この論文に例外があるからと言って、例外がある事を一般論とするのは論理の飛躍。貴方のその腐ったパンに群がるカビを好む腐れカビ虫にも劣る頭じゃ無理もない事だけれど」

 ――――オルフェとリラの議論にすらならない言い合いを眺めるのが日課になっていた。

 当初こそアウロスとルインが実際に議論しているような錯覚を抱き、想い出を弄ばれているような心持ちにもなったが、数日が経過した今は単に微笑ましく見守っている。
 そんなウォルトの視線と表情に気付いたオルフェが、恥ずかしそうに後頭部を掻き、引きつった顔で俯いてしまった。

「す、すいません……低レベルですよね。ウォルトさんから見たら今の俺達」

「そんな事はないよ。二人とも特徴を良く掴んでると思う」

「いや……別に物真似のレベルの話じゃ……ないんですけど……」

 慰めたつもりが的外れなフォローをしてしまったと気付き、今度はウォルトの顔が引きつる。
 リラは相変わらずウォルトに対しては積極的に話そうとはしない。
 微妙な空気がヘレンチア研究室に流れ、終日その空気が薄まる事はなかった――――


 


「ふむ。順調に溶け込んどぅるようで何より」

 ヘレンチア研究室への派遣を言い渡され、一週間が経過したその日。
 定期報告の為にクールボームステプギャー教授の元を訪れたウォルトは、慣れない日常で疲弊しきった目をシパシパさせながら、強張った笑みを浮かべていた。

「……そう見えますか?」

「最近の貴様にはなかった表情じゃ。笑えるだけマシになった、と言えるのう」

「そうでしょうか……」

「昔の根暗な貴様に戻っとぅったからのう。ええ傾向じゃ。ヒヨッコ共を相手にしとぅれば余計な事をアレコレと考えずに済むじゃろ?」

 その言葉は、彼がウォルトを敢えてヘレンチア研究室へ派遣した理由そのものだった。
 ウォルトもそれについては薄々気が付いていたし、気遣いに感謝してはいた。
 してはいたが――――

「それより、あのヘレンチア助教授のやる気のなさはどうにかなりませんか? この一週間、一度も研究室に顔を出してません」

「アレも研究の虫じゃからのう……悪い奴じゃないんだが、自分の研究以外にはとんと興味を示さんし、並の知識しかない人間に手伝わせるのも嫌がりおる。研究者にありがちな、清々しいほど自分に正直な人間なんじゃよ」

「そんな身勝手な考えで研究室を持ってもいいものなんですか……?」

「ウェンブリー魔術学院大学とは、そういう所じゃよ。各々の野心に対し寛容だからこそ現在の地位を築いたと言ってもよい」

 この大学の生き字引とも言える最古参のクールボームステプギャー教授の発言は決して軽くはない。
 彼がそう言っている以上、本来ならそういうものだと納得するしかない。

 けれど、生真面目なウォルトは納得しなかった。

「でも今のままじゃ、所属してる研究員全員が潰れてしまいますよ。オルフェとリラは新人でまだ右も左もわからないだろうし、他の三人に至っては完全に腐ってしまっている。適切な指導者が必要です。むざむざと人材を埋没させてしまうのが、あの方にとって有益なんでしょうか? このままじゃ、助教授の適正なしと見なされて降格という可能性も――――」

 そこまで口にした時点で、ウォルトは気が付いた。
 彼女が一切研究室に顔を出さず、サボり続ける三人に何も言わない理由に。

「……もしかして、降格したがってるんですか?」

「じゃろな。助教授となると、教育も請け負わねばならん。じゃが、アレは研究一筋。本当ならば助教授になんぞなりたくなかったんじゃろう。元々ミストの小僧が予想以上に早く昇進した穴埋めで無理矢理抜擢された筈じゃ。大学出身の精鋭じゃから、教育適正なしの降格程度ならクビにされる心配もない」

 魔術大学は学生と研究員が混在する施設で、アカデミー卒業者が大学へ入る場合、進学して大学生となるか、就職して研究員となるか、望む方の道を選べる。
 大学生を卒業したのちにあらためて研究員になる事も出来る為、必ずしもアカデミー卒業後に即研究員になる必要はない。
 寧ろ、大学を卒業してから研究員になった方が、遥かに出世しやすい。

 だが、大学に学生として通うには相当な学費がかかる。
 卒業試験もかなり難しく、挫折する者も多い。
 その為、取り敢えず食い扶持は稼げる研究員への就職を選択する者は多い。
 オルフェやリラも、アカデミーから直接就職した口だった。

「そんなの……理不尽だ。配属された研究員の事を何も考えてないじゃないですか」

「儂もそう思う。じゃが、大学は奴の方針、野心を尊重しておる。大学に所属する以上、儂も、貴様も、ヘレンチア研究室の全員も、これを覆す事は出来ん」

 クールボームステプギャー教授の表情は、相変わらず毛に覆われ外からはわからない。
 怒っているのか。
 諦めているのか。

 ウォルトには、前者のように見えた。
 だがそれは、実際の表情とは無関係で、ウォルト自身の感情がその目に映るクールボームステプギャー教授に投影されているだけ。
 そうも思い、衝動的に視線を逸らし、そのままの勢いで踵を返す。

「……どこへ行くんじゃ? 直談判なら無駄じゃぞ」

「教授室じゃありません。研究室の方です」

 ウォルトは振り向きもせずに返答した。

「彼女が何もしないのなら、それでいい。僕は僕で好きにやらせて貰います」


 


 大学の魔術研究は基本、その大学に所属する各科の教授・助教授に一任されている。
 大学には理念があり、その理念を尊重するのは勤務する全ての者の責務ではあるが、理念なんてものは曖昧な内容に終始するのが常で、それはウェンブリー魔術学院大学でも例外ではなく、『魔術の可能性を無限大に広げる研究者であれ』という、壮大過ぎて何も言っていないのと同じようなもの。
 故にこれという制約がない分、自由に幅広く研究が出来る大学でもある。

 ただ、幾ら魔術という特殊な分野でも、各々の研究者が抱く目的はそれぞれ。
 幼い頃の憧憬を満たす為に魔術を学ぶ者もいれば、出世の為に学長の好みで研究対象を決める者もいる。
 またある者は金の為、またある者は直感で。
 それぞれが、それぞれの夢を研究の終点へと置く。

 一方、大学の研究員になりたての新人は、自らが研究テーマを考案するのは許されない。
 まだ研究の初歩すら体験していないのだから当然だ。

 最初は教授・助教授の研究を手伝うことから始める。
 問題は、誰の手伝いをするか――――つまり誰の研究室に所属するかだが、教授側がスカウトする事もあれば、部下となる側が上司を希望する事もある。

 前者はほぼ通るが、後者が必ずしも希望通りになるとは限らず、大学の人事部が適正や研究室の人数などを吟味した上で決定する。
 この人の元で学びたい、この人の研究を手伝いたい、この人の志を継ぎたい――――
 そういう願いが成就するかどうかは、運次第だ。

「聞いて良いかどうかずっと迷ってたんだけど、この際思い切って聞いてみようかなと。君達はこのヘレンチア研究室を希望してたの? あ……ううん。今のはやっぱり聞かなかった事にして。僕が悪かった」

 ウォルトが好きにやってみた結果、オルフェとリラの顔が劇的に能面と化す結果となった。

「いえ、大丈夫です。お察しの通り、別の研究室希望でした」

「………私もオルフェも、ミスト研究室に入りたかった、です」

「あ、やっぱり」

 アウロスとルインに憧れているのだから、彼らが所属していた研究室を希望するのは自然な事。
 けれど、当時のミスト研究室は既に五人いたし、それ以上の人数をミストが必要とはしていなかった為、彼らに勝機はなかった。

 そこまで容易に想像出来たにも拘わらずウォルトが敢えて聞いたのは、彼らの意欲を掻き立てる研究を探す上ではどうしても避けて通れない質問だったから。
 そして、もう一つ――――

「もののついでに聞くけど、二人はいつアウロス君やルインさんを知ったんだい? 大学に所属する前から憧れてたみたいだけど」

「見学会です。偶々、実験棟で実験中のお二人を見かけて」

「………その時、他の人達が割り込んで来て、明らかに年上で偉そうで柄悪くて腐ったパンに群がるカビを好む腐れカビ虫のような連中だったのに、堂々と追い返してた姿に感動した、です」

「あ、オルフェ君以外にも使うんだ、腐れカビ虫のくだり」

「っていうか、その時が誕生の瞬間です」

 彼女の決め科白を生み出したのは、この大学の研究員らしい。
 そんな一生涯で一度も活用する機会のなさそうな知識を得たところで、ウォルトは腕を組んで熟考を始めた。

 このまま彼らに、死に論文を引き継がせたくはない。
 仮に直接引き継がなくても、参考にすれば似た死に論文が生まれるだけ。

 或いはそれでも、研究の練習にはなるのかもしれない。
 けれど、後々の事を考えれば、優れた研究を参考にすべきなのは明らか。
 例えば音楽でも、芸術性の微塵もない薄っぺらな演奏を参考にするよりは、聴き手の琴線に触れ、心を激しく揺さぶるような演奏を耳に入れて学んだ方がずっといい。

 特に今は『研究とはこういうものだ』という価値観や定義が自然にすり込まれる時期。
 底の浅い論文を参考にはさせられないし、興味のない研究に関わらせても良い結果は生まないだろう。

 どうすれば――――

「………ウォルトさんにお願いがある、です」

 そんな迷いの最中、これまでオルフェと話す時には勢いよく捲し立てていながら、ウォルト相手には露骨に人見知りらしき対応でまともに会話すらしていなかったリラが、目をグルグルさせながらも自ら話しかけてきた。

「あ、うん。何かな。僕に出来る事なら協力させて貰うよ」

「………私と、ついでにオルフェに、魔術研究の要領というか、コツを教えて、です」

 それは――――魔術大学において、余りにも異質な懇願だった。

 魔具技師、そして彼らが所属する魔具科は、魔術研究を行う大学や研究施設においてやや特殊な存在で、必ずしも魔術士である必要はない。
 武器防具を扱う鍛冶師が元戦士である必要がないのと同じだ。

 そもそも魔具技師自体、実のところ歴史は割と浅い。

 かつての魔具は、杖の形が大半を占めていた。
 ルーリングの際に空中にルーンを綴る為の上澄光を発生させるにはセパレート繊維という繊維が必須で、このセパレート繊維はシマトネリコという木に含有されていた為、木を加工し魔具を作る際、最も簡単かつ使いやすい形状として杖型が普及するのは自然だった。
 この加工はそれほど専門的な技術を必要としなかった為、魔具に特化した技術は必要性が薄く、魔術士自らが行ったり、木工や鍛冶師が兼任したりしていた。

 しかしセパレート繊維と同様の性質を持つ繊維が発見され、また加工技術も発達した結果、魔具の小型化、携帯性が急速に進み、魔具技師の存在価値が生まれ、現在に至る。
 こういった歴史もあり、魔具技師は意外と魔術に疎い者も多い。

 魔術士出身の魔具技師や、その弟子ならば当然魔術には詳しいが、木工や鍛冶師などを師事した者はそうとは限らない。
 これは魔術大学の魔具技師も例外ではなく、魔術に疎い技師は少なからずいる。
 そしてこの件が原因で、魔具科は大学内でやや浮いた存在となっている。

 だからウォルトは、まさか自分に魔術研究のコツを聞いてくる研究者がいるとは夢にも思わなかった。

「うーん……僕もそんなに詳しい方じゃないんだけどな。そもそも僕は魔術士出身じゃないし」

「いや、俺からもお願いします! アウロス先輩と偉業を成し遂げたウォルト先輩に教えて貰えば、きっと頭に入ると思うんです!」

 リラの提案に、オルフェも全力で食いついてくる。
 その目は真剣そのもの。
 真面目さとは違う意味で、真っ直ぐだった。

「俺達、出来が悪いっていうか、落ちこぼれなんです。だからヘレンチア助教授は俺達を相手にしてないんだと最初は思ってました」

「それは……」

「はい、今は違うってわかります。あの人、基本部下に物教える気、ないですよね」

 意外にも、というのは失礼かと心中で反省しつつも、ウォルトはオルフェの正しい見解に驚いていた。

「………それ、私の意見なのだけれど。勝手に持論にしないで貰える?」

「いいだろ別に。最初に言ったのはお前でも、俺もその意見に賛同してるんだから、俺の意見でもあるんだ。独占したいなら特許でも取っとけ」

 今度は不意にアウロスのような物言いでリラを一蹴。
 オルフェは今、絶好調らしい。

「あんなやる気のない助教授の研究室に配属されたのは、アカデミーでの成績が原因だと思います。でも、末端とはいえ研究員になった以上、このまま給料だけ貰って意味のない研究を続けるのはダメだと思うんです! だからお願いします!」

 前向きなのか自虐的なのか微妙な発言だったが、オルフェはやる気だ。
 魔術を教える適任者は他にいるだろうし、アウロスなら合理性の観点から即断るだろう――――そんな事を考え、ウォルトは自らに苦笑を禁じ得なかった。

「その要求に応じる前に確認しておきたいんだけど、君達はアウロス君やルインさんのどんな所に憧れたんだい?」

 上司のミストが注目株だったし、両者とも特別研究員という特殊な官職だったのもあるが、何よりその自己主張の強さ、生意気さでその名を轟かせていた二人。
 特にルインの不遜さは、彼女の美しい容姿も手伝って魔具科でも連日話題になっていた程だ。
 悪目立ちしていた為、憧れる対象かというと微妙なところ。

「誰にも媚びない気高さです!」

「………孤高の魔女、カッコいい、です」

 けれども二人は何の迷いもなく即答した。
 明らかに表面しか見ていないし、知り合いでもないであろう二人にとっては他に判断材料もないのだろうが、それが却って本質を拾ってもいた。

「了解。僕に教えられる範囲は限られるけど、アウロス君やルインさんから学んだ事もある。出来る限り協力するよ」

 そう返答したウォルトは次の瞬間、耳を痛める事になる。

「よっしゃあああああああああああああああああああああああ!」

「………勇気出して言ってみてよかった、です」

 存外、二人にとってウォルトは本当に伝説級の存在だったらしく、涙を目に溜めて喜びを露わにしていた。
 オルフェの絶叫が聴覚を刺激し過ぎた為、暫く耳鳴りが止まなかったが――――ウォルトに後悔はなかった。








 

  前へ                                                    次へ