魔術士――――とはいえ、クレールには実戦経験は全くない。
 あくまでも研究者であり、臨戦魔術士ではないため、研究以外で魔術を活かすことは
 不得手というより未知の領域だった。
 そもそも、子供の頃から実戦はおろか、身体的な危機的状況に陥った事すらない。
 不安や危険はもっぱら、精神面に集中していた。
「ちょ……ちょっと、近寄って来ないでよ。ね、お願いだから」
 なので、今にも襲いかかってこようとしている野生のオオカミに対しクレールが
 震えてしまうのも、無理のない話ではあった。
 ヤリイチゴの群生地を調べる事は、そう難しくはなかった。
 この手の『金になる』素材を集める冒険者は多い。
 なので、冒険者ギルドに行けば直ぐにわかる。
 魔術国家デ・ラ・ペーニャにおいては魔術士ギルドが圧倒的に多く、他の国ほど
 冒険者ギルドは多くない。
 それでも、この国は秘宝、財宝の類に関する逸話は多く、冒険者にとっては
 活動し甲斐のある舞台。
 決して閉じられた分野ではないため、ギルドの場所を探すことも、
 ヤリイチゴの情報を得ることも比較的容易だった。
 順風満帆。
 だからかもしれない。
 クレールは甘く見ていた。
 護衛を依頼する必要もなく、自分一人でヤリイチゴを入手できると楽観視していた。
 ヤリイチゴの群生地は、サンシーロの北西部にある『トレンノ高原』。
 高原という響きも罠だった。
 なんとなく、爽やかな風が吹きつける丈の短い草原を連想させた。
 しかし実際には、恐ろしく高低差のある『密林』。
 草の丈もクレールの顔付近まであり、周囲を見渡すことすらままならない。
 だから、オオカミの接近に気付くことができなかった。
 それに、万が一野生動物に出くわしても、魔術を一発放てば恐れおののき逃げていくだろう
 という極甘な考えがあった。
 実際、動物の殆どは火を怖がるし、オオカミも例外ではない。
 赤魔術を使えば、簡単に撃退できると思っていた。
 しかし、もしそれをすれば、あっという間に周囲は火の海になる。
 そんな誰だってわかるようなことを、クレールは失念していた。
 実戦経験がなく、机上の空論だけで臨戦を語る人間がよく陥るミス。
 クレールは、獰猛な顔つきで喉を鳴らすオオカミに対し、心底怯えていた。
 指が震え、ルーリングもままならない。
 もし、たった一文字だけ綴れば魔術が出てくるという『オートルーリング』の
 技術があれば、この状況でもまだどうにかなったかもしれない。
 赤魔術や黄魔術は使えなくても、青魔術や緑魔術でどうにでも対処できるだろう。
 だが、五文字、六文字を綴るのは難しい。
 もしそれだけの動きをすれば、オオカミは威嚇から本格的な攻撃へと移行するだろう。
 クレールは、自分のルーリング速度に対し全く自信がなかった。
 当然だ。
 実験室で編綴する分には、幾らゆっくりでも、仮に失敗してもやり直せばいいだけなのだから。
 しかしこの場面での失敗は死を意味する。
 あらためて、クレールは自覚した。
 自分はこれまで、こんな場面を全て回避してきたのだと。
『呪い』を理由に、自分から能動的に動くのを止め、周囲の危険を遠ざけるフリをして
 自分自身の危険を遠ざけていたのだと。
 無難な研究に打ち込んでいたのも、単に無難な方へ逃げて、挑戦することを拒んでいた
 だけだったんじゃないか――――と。
 ずっと、そんな逡巡はあった。
 だが、自分を肯定したい自分もいた。
 それに、肯定してくれるのは自分自身だけではなかった。
 オートルーリングを完成させた少年は、無難な研究の必要性を認めてくれた。
 アウロス=エルガーデンという名の、魔術士として最低レベルの魔力量しか持たない
 才能なき研究者。
 しかし彼は、どの研究者よりも前を見据え、誰よりも早く駆けていた。
 そればかりではない。
 自分を退学の危機から守ってくれた。

『貴方とは仲良くしたくないの』

 出会って間もなく、そんな酷いことを言った自分を。
 クレールにとって、アウロスの生き様はひたすらに眩しかった。
 眩しさは同時に不快感でもある。
 自分の影がくっきりと浮かび上がってしまうから。
 しかしアウロスはその影すらも飄々と『大したことじゃない』と言ってのける、
 そんな不貞不貞しさと優しさを持っていた。
 羨ましかった。
 その生き様が。
 そんな生き方をする人間の隣に、いつの間にか立っていた女性が。
 羨ましくもあり、眩しくもあり――――嬉しくもあった。
 だからこそ、寂しくもあった。
 一人、また一人と自分の周りからいなくなっていった彼ら。
 でもまたいつか再会できる。
 その時には、何のわだかまりも後ろめたさも劣等感もなく、自然に微笑んで
 迎え入れる自分でありたい――――
「……そっか」
 かつてないほどの危機的状況でありながら、クレールは思わず緊張感のない
 言葉を発した。
 今、ようやく自覚した。
 旅に出た理由は、目的はあった。
 今の自分には、迎え入れることができない。
 もし今、アウロスやルインが帰ってきても、心からは笑えない。
 だから逃げた。
 自分の家から、大学から――――そして、未来から。
 クレールはそう自覚した。
 同時に、全く自覚しないまま涙が溢れてきた。
 恐怖ではなく、余りにも弱い自分への絶望感で。
「私……こんなに弱かったんだ」
 なら、オオカミに殺されても不思議じゃない。
 ここで野垂れ死んでも仕方ない。
 美味しいパンに感動して、そのパンを提供してくれた人たちに感謝して、
 そのお礼のために足を踏み入れた高原で、オオカミに食い殺される。
 きっと、誰かが悲しんでくれる。
 なら、悪くない死に方だ。
 クレールはそうやって、いつも自分を納得させてきた。
 アウロスによって、呪いは完全否定された。
 それはとても感謝すべきことだし、本当に嬉しい出来事だったけれど、
 同時にこれまで『仕方がない』『呪いがあるから仕方がない』と
 自分を納得させてきた材料が失われたことも意味していた。
 免罪符を失い、剥き出しになった自分の余りの貧弱さに、クレールは
 涙を止めることができなかった。
「グルルルルルル……」
 オオカミの喉が鳴る。
 その瞬間、クレールの胸は呼吸ができないほど締め付けられた。
 恐怖によって身が竦むのは、生きたい証拠。
 この後に及んで、死に方を延々と考えたこの後に及んで生き長らえたいと
 願っている自分が出現したことに、更なる絶望が生まれる。
 いや――――出現も何も、最初からそんな自分しかいない。
 弱い人間が死を覚悟できるはずもないのだから。
「……フフ」
 思わず笑みが零れる。
 クレール=レドワンスは、自分の底を見た。
 研究者としての自分がそこにはいた。
 弱い、本当に弱い自分。
『呪い』のせいにして、他人を遠ざけ楽に生きていた自分。
 魔術の研究をしていれば、それが正当化される。
 研究者は、人間関係を重要視する必要はない。
 研究室に籠もって、自分の研究に没頭していればいい。
 それが――――魔術士としての自分。
 クレールの目の前には、いつの間にかオオカミではなく自分自身がいた。
 サバサバしていて、何処か斜に構えているようで、その実怯えている自分。
 本当にどうしようもない、情けない自分――――
「……でも、私なのよね。これが」
 ポツリと呟く。
 ほぼ同時に、クレールの右手は宙にルーンを描いていた。
 人差し指の指輪型魔具が光を帯び、そして――――その指の上に炎の球体を生み出す。
 放てば大惨事。
 だがクレールはその炎の球体をずっと指先に留めたまま、眼前を睨み続けた。
 どれくらい、そのままでいただろうか――――
「グルルルル……グゥ……」
 根負けしたのは、オオカミの方だった。
 結局、一度もクレールに向かって飛びかかることなく、遠くへと逃げ去っていった。
 獰猛に見えたあの姿は、単に見慣れない人間に怯えていただけだったのだろう――――
 クレールはもう一人の自分をそんなふうに総括し、魔術を消して見送った。

 


「……まさか、本当に採ってくるとはねえ」
 絶品の赤いパンをクレールが食べて、ちょうど二週間。
 驚いた様子のフリューが目を丸くする中、クレールは大量のヤリイチゴを抱え
【ラヴィの小枝】を再訪した。
「ヤリイチゴパンを作るのに、これで足りますか?」
「そりゃ足りるもなにも、十分だけどさ……いいのかい? この量なら
 然るべきところで売ればちょっとした一財産になるんだよ?」
「お金は大事だと思います。でも、それより大事なものを貴女には教えて貰ったから」
「え? そんな覚えないんだけどねえ……」
 正直なところ、路銀はかなり減ってきている。
 それでもクレールに躊躇はなかった。
 恩に報いるのは、何も正義感や責任感が原動力ばかりではない。
 そう自覚できたのは、最大の収穫だった。
 そして、収穫はもう一つ。
「その代わり、フリューさんに一つ聞きたいことがあるんですけど」
「なんだい?」
「魔術を使って、美味しいパンを焼くことってできると思いますか?」
 それはつまり――――魔術の調理への応用。
 かつてクレールは、これを完全否定していた。
 実際、珈琲を温めるだけでも相当面倒な力加減を要する。
 調理に魔術を使用するとなれば、その繊細さ、緻密さは通常の調理の比ではない。
 不可能に近い作業だ。
「そりゃ無理だよ。そもそも、魔術を使う意味がないんじゃないの?」
「いえ、意味はあります。きっと」
 パンを焼くには、絶妙な火加減が必須だ。
 焼き過ぎれば小麦の風味が飛んでしまう。
 焼き足りなければ、香ばしさが半減する。
 美味しいパンを作るのは火加減の調整だと言っても、決して過言ではない。
「もし、魔術で火加減を完璧に調整できるようになれば、今よりもっと
 美味しいパンが作れるようになると思いませんか?」
「……」
 そんなクレールの提案に対し――――
「あはははははははははは!」
 フリューはこれまで以上に大声で笑った。
 周囲の客が驚くほど。
 普段から陽気な彼女であっても、その笑い声は異質だったようだ。
「あー、おっかし。驚いたねえ。魔術士なんてみんな戦争だなんだって戦いの
 ことばっかり考えてる連中だと思ってたよ。まさか料理に魔術って……ねえ?」
「おかしいですよね」
 幾らここが魔術国家であっても、魔術を料理に使用するという発想はまずない。
 料理人になりたいのなら、魔術より料理の技術を磨く方が圧倒的に効率がいいのだから。
 でも――――
「でも、だからこそ試してみる価値があるかなって思って。誰もやらないのなら
 私がやってみたいって、そう思ったんです」
「……なんでだい?」
「弱い自分を消し去るのが無理だって自覚したからかもしれません」
 なら、受け入れるしかない。
 研究者としての自分の正体も。
 そして歴史も。
 恩人を犠牲にしてまで入ったアカデミー。
 恩人に振り向いて貰えず、逃げ去った大学。
 恩人と共に住み、切り盛りしてきた料理店。
 沢山の人に支えられ、見捨てられて来た過去の全てを受け入れ、そして未来へと
 活かす方法がある。
 魔術を使い、理論と筋道を構築し、そして生活の一部たる『食』を成す。
 魔術を使ったパン作り。
 子供にも受け入れられるような、魔術士の営むパン屋さん。
 クレールの未来図に、その可能性が一つ刻まれた。
「よくわからないけど……いいんじゃない? 今のアンタ、いい顔してるもん。
 最初にここに来た時、こりゃヤバイ客きたなーって思ったけど、今は大違い」
「……え? 私、そんなにヤバかったですか?」
「ま、ね。その辺の積もる話もあるけど、まずはそれ、ワインにしてもらいに行こっか」
 フリューに指摘され、クレールはようやく気付いた。
 ずっとヤリイチゴを抱えたまま、店のど真ん中に突っ立っていた自分に。
 つまり――――自分の夢を、客の前で堂々と語っていたことに。
「あ……」
 クレールの顔が、イチゴのようにみるみる赤くなっていく。
「いいぞお嬢ちゃん! 若いっていいねえ!」
「魔術士のパン屋、面白そうじゃねーか! もし完成したら買ってやるからな!」
 そんな冷やかし半分、応援半分の声が店内に響きわたる。

 ――――斯くして。
 賑やかな喧噪に包まれ、世界初となる『魔術士のパン屋』がその小さな産声をあげた。



 クレールの輝きに満ちた人生は、これから――――







 

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