少年には名前がなかった。
 だからこそ、他人の名を預かる事への抵抗は薄かった。
 アウロス=エルガーデンの名を借りてからの人生は、平坦とは言い難いものだった。
 だからこそ、敢えて少年は平坦な自分を形成り上げた。
 年齢にそぐわない、無愛想で生意気な人間。
 そういう人物像を足場とする事で、感情という波に呑み込まれず、目的への道を最短距離で
 駆け抜けようと誓っていた。
 けれども、人間は思い描いた未来をそのまま具現化させる能力には、些か欠けている。
 少年もまた、例外ではない。
 結果的にその道は、最短距離ではなかった。
 遠い、遠い回り道。
 迂回の連続。
 特に第一聖地マラカナンでは、真っ直ぐ進む方が稀なほどの紆余曲折が待っていた。
 それでも、少年はじっと待ち続けた。
 青年となったその身体の中でじっと堪え忍んでいた。
 
『ぼくはアウロス。アウロス=エルガーデン。ねえ、ぼくと友達になってよ。いろいろ話そ』

 いつか訪れるその日を。

『――――ぼくと友達になってよ――――』

 胸を張って『うん』と言える、その瞬間を。

 

 

「いつまで寝ている。早く起きろ。頬つねるぞ」
 ぼやけた視界の中、何かが蠢いている。
 アウロスは起き抜けに思わず驚嘆の声をあげそうになったものの、特に敵意は感じられなかった為、
 喉元まで出かかっていた声を引っ込め、徐々に輪郭を帯びてきた眼前の何かを凝視してみた。
 そこには、まだあどけなさの残る少女の顔が――――
「……どうして寝起きに驚かされた立場の俺がそんな顔をされなきゃならないんだ」
 珍しく目を大きく見開き、強張ったまま硬直していた。
 感情表現に乏しい彼女が一目で恐怖心を抱いているとわかる、珍しい顔だ。
「驚いてるお前の顔、初めて見た。あり得ない。夢に出そう。うなされそう。どうしてくれる」
「あのな……」
 他人が驚く様を見ると、何故か自分は白けてしまう。
 人間とは斯くも不可解な生き物だ。
 そう実感させてくれた怯えるフレアを右手で押しのけ、左手で頭を掻き毟りながら、
 アウロスは上体を起こした。
 あと十人は並べそうなベッドの広大さには、未だ慣れない。
 だがアウロスにとってそれは、寝床だけの問題ではなかった。
 ここ教会の総本山、マラカナン大聖堂での日常は概ね違和感のみで形成されている。
 全ての床が広く、天井が高く、そして光沢だらけの建築物。
 明らかに、自分の性には合わない居場所。
 けれどアウロスは暫くの間、この大聖堂で生活する羽目になっていた。
 先日、賢聖という称号を内定とはいえ授与された事で、アウロスには自身の安全確保が義務付けられた。
 もし正式に授与される前に命を落とそうものなら、デ・ラ・ペーニャを真っ二つに割る内戦への
 伏線となりかねない。
 例えそれが旧体制支持派の仕業でなくとも、そう見なされるのは必至な状況だからだ。
 今のこの国でそんな規模の内戦が起これば、国力は再起不能な水準にまで低下するだろう。
 その為、魔術国家で最も安全な、教皇の住処であるこの大聖堂で生活するようロベリアから
 命じられている。
「もしかして、ここでの生活が嫌なのか」 
 アウロスにとっては、食事から睡眠に至るまで全てが不慣れな環境。
 フレアにそう問われた瞬間、縦へ首を振り下ろすのに何ら躊躇はなかった。
「お陰で毎日が疲労困憊だ。まるで寝た気がしないし、食事をしても栄養を補給した実感がない。
 何だ? この食虫植物みたいな建物は。エルアグアの寒さ以上に体力を奪ってくる」
「気持ちはわからないでもないけど、慣れろ。それも賢聖の仕事の内だって父が言ってた」
「無理難題だ……」
 一攫千金論文と揶揄された研究を結実させ、九十四年ぶり、そして史上最年少の賢聖となった青年は、
 贅沢という敵に完全に屈し再びベッドへ倒れ込んだ。
 現在、アウロスには能動的にやる事がない。
 ミストへの"攻撃"を終えた事で、やれる事は全てやり終えた。
 後は、ウェンブリー魔術学院大学からの返答を待つのみ。
 もしミストがまだ抵抗を示すようなら、対抗策を講じなければならないが、寧ろその方が余程楽だった。
「何もやる事がないのも苦痛だ。一日が無駄に過ぎていくこの感覚はこれ以上耐えられない」
「愚痴が多いぞ。それに何か、今までのお前と違う気がする」
「……?」
 フレアの言いがかりのような物言いが気になり、アウロスは心ならずも腹筋を鍛える事となった。
 尤も、たかが数回の上体起こしなど、大した負荷にはならないのだが。
「私と知り合った頃のお前は、もっと何て言うか、老人っぽかった」
「老……」
「でも今のお前は、今までよりちょっとだけ老人っぽくない。父と同い年くらいに感じる」
 それでも、実年齢とは余りにもかけ離れた評だったが、アウロスは妙に納得してしまい、
 大きく溜息を吹き上げた。
「老人や中年呼ばわりは不本意だけど、ま、言いたい事はわかる。この第一聖地に来てからは
 ずっと気を張ってたし、口調も意識して変えてたしな」
 ミストに論文を奪われ、何のツテもなく単身マラカナンへ乗り込んだアウロスは、精神状態を
 安定させる事と孤独との付き合いを考慮し、より『アウロス=エルガーデン』の精神年齢を引き上げた。
 それは『人格年齢』と言い換えても差し支えのないもので、ある意味ずっとアウロスは
 別人格を演じているような状態を続けていた。
 けれど、もうその必要もない。
 実像とそう大きく乖離していた訳でもない為、大した違いはないと自覚していたが、
 フレアにこうもあっさり看破された以上、多少の落差はあると認めざるを得なかった。
「大人ぶる気持ちはわかる。私だってそうだ」
 アウロスの身体の上に、フレアがパタンと倒れ込んでくる。
 第三者が見れば、相当にいかがわしい体勢の二人だが――――フレアにはまだそういう
 男女の意識はないのか、或いは疎いのか、特に気にしている様子はなかった為、
 アウロスも敢えて指摘はしなかった。
「大人の中で生きるのは大変だ。馬鹿みたいに面倒臭い」
「かもな」
「でも、私は恵まれてる方だった。あいつに比べれば」
「あいつ?」
「……」
 その代名詞が、誰を指しているかは直ぐに理解出来た。
「アウロスのお兄さん、もう朝だよ。起きないと……って、何やってんの二人ぃぃィィーーーーーッ!」
 ご本人登場が最たるその理由だった。
「朝からそれ何ぃぃィィーーーーーッ!? っていうかうわっ! うわっ! 僕どうすりゃいいのさ!
 こんな現実朝イチで見せられて僕どうすりゃ――――」
「落ち着けマルテ。何でそんなに死にそうな顔でのたうち回る。毒蛇に目でも食い破られたのか」
「違うよ! フレアのお姉さんが……って、あ、あれ?」
 特に着衣の乱れもなく、よくよく見ればフレアの顔はアウロスと正反対を向き、身体も微妙に
 重なっていないと気付き、マルテは強張った顔のまま薄ら笑いを浮かべたかと思うと、今度は
 顔を右手で覆い全力で床を転がり始めた。
「うわーっ恥ずかしい! 僕どうすりゃいいんだ! 腕一本だから顔完全に覆えないし!
 穴があったら頭から入りたい!」
「朝からけたたましい……」
 勝手に入ってきた上に勝手に興奮するマルテに、アウロスは割と本気で魔術で黙らせようか
 検討してみたが、一応の自制心でその衝動は抑える事に成功した。
「それで、今日はどうした? こんな時間に」
「あ、うん。今日って確か、ティアさん達の就任パーティーの日だよね。お兄さんも出席するのか
 確認したくて」
 四方教会の三人は、デウスの依頼もあり正式に教会で雇用される事になった。
 勿論、教皇直属の部下という訳ではない。
 クリオネ=ミラーが息絶え、ゲオルギウス=ミラーが再起不能となり、中枢を担う魔術士が
 不在となったエルアグア教会に助っ人的立場で務める事が決定している。
 幾らデウス直属の部下とはいえ、教会は実力主義の組織ではない為、暫くは見習いとして
 働く事になるだろう。
 それでも、デウスの入院するミラーグロ研究病院が近くにあるエルアグア教会は、彼等にとって
 望ましい職場と言える。
「……ああ。そういえば今日だったな」
 アウロスは返事の代わりに、身体を持ち上げ緩慢な動作で外出の為の身支度を始めた。
「結構律儀なトコあるよね。アウロスのお兄さん」
「あいつ等には世話になったしな。あの教会で雑用をこなした先輩として、助言の一つくらいくれてやろう」
「そういえば、そんな事もあったよね。なんかすっかり昔の出来事みたいだよ」
 遠い目をしながら、暫く回想に耽っていたマルテだったが、意を決したように顔を引き締め、
 真剣な眼差しでアウロスと向き合い、深々と頭を垂れた。
「ありがとうございました」
「突然何だ?」
「今、ここでこうして平和に生きていられるのはお兄さんのおかげだなーって、あらためて思って」
 ――――マルテは結局、自らの意思でロベリアの申し出に甘えると決め、
 この大聖堂で暮らす事となった。
 ただしそれは、楽で贅沢な生活を所望してのものではない。
 彼の身体の中にある、グランド=ノヴァ人格が主な理由だ。
 今のところ、フレア共々活性化する兆しは見られないが、まだ完全に沈黙したと判断するのは早計。
 本来、教皇の住処である大聖堂にそのような危険因子を置くのは論外なのだが、フレアとの別居は
 ロベリアが断固拒否している為、それなら両者を近くに置き観察する事で、グランド=ノヴァ人格が
 出てこない確実な方法を模索する方が建設的――――との判断が下った。
 マルテ自身、その事情とは別に思うところがあったようで、最終的には今と同じく自ら頭を下げ
 懇願した事で、現在の生活に至る。
「でも、本当に良いのか? 私がいるここで暮らすのは、お前にとって苦痛じゃないのか」
 そんなマルテに、アウロスのベッドに座りながらフレアが暗い表情で問う。
「私はお前の父親を……」
「それは言いっこなしって言ったじゃん。僕だって、アウロスのお兄さんを殺しかけてるんだし――――」
「お前に殺されかける程ヤワじゃないんだ、こっちは。不意打ち食らって少し手こずっただけだから
 自慢げに語るな」
 身支度を終えたアウロスが、膝でマルテの後頭部を軽く小突く。
「あたた……別に自慢した訳じゃないよ」
「何にしてもフレア、その件に関しちゃマルテの言う通りだ。デウスを刺したのは、ルンストロム達から
 故意にグランド=ノヴァ人格を引き出されたお前であって、それをお前が気に病むのは『私こそが
 グランド=ノヴァ本人だ!』っつってるようなものだぞ」
「あはは、それじゃただの痛い霊媒師だよね」
 だから気にするな、というニュアンスも込め、マルテが敢えて乗る。
 その優しい空気に触れ、フレアは戸惑いを見せつつも、やがてコクリと頷いた。
「俺も暫くはここにいるし、その間に何か有効な封印方法を考えよう。融解魔術の無効化、
 若しくは減衰を念頭に――――」
「そ、その事なんだけど!」
 突然、マルテが右腕を勢いよく上げ、首をキュッとキレ良く回転させ、フレアの方を向く。
「僕、思うんだ。僕とフレアお姉さんが毎日観察し合えば、手がかりが掴めるんじゃないかって」
「……私と、お前が?」
「ど、どうかな。例えばだけど、一緒に勉強するとか。運動もその、苦手だけど教えて貰えればやるし。
 一緒にいる時間を増やせば、自然と解決への道も近付くよ、きっと」
「うーん」
 傍から二人のやり取りを見ていたアウロスは、マルテなりに攻めたその姿勢と、
 その本当の意図にまるで気付いていないフレアの様子に、思わず苦笑いを浮かべた。
「…………え?」
 その数秒後。
 室内の時間が停止し、空間にヒビが入ったような音がした。
「ん? 何だ急に二人して顔面蒼白になって」
「そっちこそ今のは何だ。お前まさか、笑ったのか」
「さあ。もしかしたら、そうかもしれないけど……仮に笑ったから何だってんだ」
「……」
 訝しがるアウロスを尻目に、フレアがガクガクと震え出す。
 その隣でマルテも一歩、二歩と後退り、やがて尻餅をついてへたり込んだ。
「アウロスのお兄さんと出会ってから、いろんな目に遭ったけど……今日が一番眠れそうにないよ。
 何? この違和感。たかが違和感なのに全身が引き裂かれそうだ」
「こわい。見てはいけないものを見た。夢に出る。私の夢がたった一人の笑顔に殺される」
「……お前ら、俺を何だと思ってるんだ? 彫像や絵の中の人物が笑ったみたいな反応しやがって……」
 まだまだ難題は残っている。
 子供達の平穏は、当分訪れそうにない。
 それでも、マラカナン大聖堂は取り敢えず平和だった。

 


 それから、少しだけ時は流れ――――
 選挙に関わり劇的に人生を変える事になった面々も、それまでと何ら変わりなく生活を営む
 殆どのマラカナンの人々も、皆等しくそれぞれの日常を送るようになった頃。
「来た来た来た来た来ったーーーーーーーーーーーーーっ! ついに来たぜよロス君!」 
 教皇選挙終了から三週間が経過したその日、マラカナン大聖堂にラディのけたたましい声が響き渡った。
 ロベリアの好意もあって、アウロスだけでなく彼女とルインもその間ずっと大聖堂で暮らしている。
 理由は勿論、アウロスと同じだ。
「……一体何が来たって?」
 その待機期間中、ずっと大聖堂の図書室に籠もり文献と睨めっこし続けていたアウロスは、
 蹴破る勢いで扉を開け速度を全く落とさず途中コケ倒れながらも身をねじり回転しながら
 起き上がり接近してきたラディに、眠い目を擦りながら問う。 
「まーた寝ぼけちゃって! 来たっつったらアレに決まってんでしょーが! アレよ! 例のアレ!
 アレが来たの!」
「ボケ老人かお前は」
「んーん、どっちかってーと女子特有のボケなんだけど、そんなのもういい! 来たのはウェンブリーの
 大学からの返答! ホラこの封書、大学からだから間違いないって。アンタ、この為に必死こいて
 マラカナンで頑張って来たんでしょ?」
 確かにそれは、アウロス、そしてルインとラディもまた、この場所でずっと待ち続けていたもの。
 大聖堂に留まっている理由そのものだ。
 だが――――
「大聖堂宛ての郵送物は厳重な検閲を受けて、係立ち会いの下に開封するようになってたんだが……」
「フフン、そこは六合の情報屋ラディアンス=ルマーニュならではの気遣いが炸裂したって訳よ。
 そんな事務的な場で歓喜の瞬間を迎えるなんて野暮ってなもんでしょ? こういうのはさ、
 みんなで『やったー!』ってならなきゃ! その為にかすめ取って来たんだから」
 余程自分なりに手応えがある気の利かせようだったのか、ラディはアウロスとの付き合いの歴史で
 一番のしたり顔を決め込んだ。
「そういうのは別に気にしないんだけどな」
「アンタはそうでしょうけど、協力者の私達は気にするの! ルイルイやマルテ君も呼んで、
 みんなで一斉に見るんだからね!」
「……ルイルイ?」
「アンタの嫁の事でしょうが。それよりも、開封する場所は何処に――――」

 ――――それから一時間後。

「き、緊張してきたね。これでアウロスのお兄さんが今までやって来た事が報われるかどうか
 決まるんでしょ?」
「お前が緊張してどうする。いいか、戦場で冷静さを欠いたら高確率で死ぬんだぞ。まずは落ち着いて
 深呼吸を……」
「お、お姉さんこそ落ち着きなよ。でも僕も深呼吸……」
 緊張の面持ちで全身ガチガチのマルテとフレア。
「ボクもこういう場面は慣れてないから、ちょっと緊張が移ってきたよ。んー、いいよねこのゾクゾク感。
 クセになりそう」
 恍惚の表情を浮かべているチャーチ。
「……何でこの娘までここにいるの?」
「やー、一応協力者だし。呼ばないのも何か陰険かなって。ルイルイ、怒ってる?」
「貴女のその不愉快な呼び方に比べれば些事だけれども」
 チャーチを睨むやや不機嫌なルインと、普段通りのラディ。
 そんな面々が大聖堂内のアウロスの部屋に集まり、アウロスの周囲を取り囲んでいた。
 妙に浮き足立つ空気とは裏腹に、当の本人の顔色は冴えない。
「幾らなんでも大げさだ……良い返事とは限らないってのに」
「まーまー。だったらだったで、みんなで励ましてあげるから。ね、ルインさん」
 結局、妙な呼称は本人の要請に従い止めたようだが――――ラディはやたら馴れ馴れしく
 ルインの肩に手を置いている。
 それに対するルインの表情は意外にも、特に不快感を示すものではなかった。
「励ますかどうかは兎も角、何時までもこうしていたところで無意味なのは確かね。早く開けたらどう?」
「ああ。そうだな」
 ルインに急かされる形で、アウロスは書簡の入った封筒をラディから受け取る。
 心の準備をさせて欲しいという気持ちは、実のところ少しあった。
 何しろ、念願が叶うか否かの大きな分かれ道。
 この書簡に、オートルーリングの論文――――すなわち【魔術編綴時におけるルーリング作業の高速化】
 のファーストオーサーを修正するという文面があれば、長年目指し続けた目的をついに達成出来る。
 念願が叶う。
 けれども、もし修正を拒む内容だったとしたら?
 ここに至るまで、全てをやり切った。
 この魔術国家デ・ラ・ペーニャの長を決める教皇選挙にまで首を突っ込み、道を貫いて来た。
 自分の持ち得る全てを出し尽くした。
 それでも尚、賢聖という国内最大級の影響力を誇る称号と、教皇という国内最高の権力者の後ろ盾を
 得ても尚、まだ届かないのだとしたら――――それはもう"不可能"と結論付けるべきではないのか?
 そう思うと、どうしても結果を見る怖さは払拭出来ない。
 アウロスはそれでも、怖さと同等以上の自信が心を浸している感覚を持っていた。
 自信といっても、オーサーシップの修正報告が書簡に記されている事への自信ではない。
 仮に拒否する旨の記載があったとしても、また気力が湧き上がって来て、
 次の一手を打てるという自信だ。
 その力の正体は、一体何なのか。
 実のところ、アウロスにはわかっていた。
 それは――――欲。
 そして希望。
 子供の頃に抱き、今も尚、ずっと抱き続けているたった一つの小さな望み。
 それがある限り、歩みを止める理由は何もない。
 だからアウロスは、特に勿体振る事もせず、ウェンブリー魔術学院大学の刻印が施された封蝋を割り、
 封筒の中の書簡を取り出し、床に広げた。
「……」
 一同が固唾を呑み、達筆にて記された書面をそれぞれが読む。
 そこには――――こう記されていた。

 


【魔術編綴時におけるルーリング作業の高速化】論文に関する調査結果通知書

 

 アランテス教会より要請を受け、実施した内部調査の結果を下記に通知致します。
 


 調査結果

 調査対象論文【魔術編綴時におけるルーリング作業の高速化】における
 オーサーシップ表記に不適切な箇所あり
 修正箇所および内容は以下の通り


 修正内容

 ウェンブリー魔術学院大学特別研究員 アウロス=エルガーデン を
 ファーストオーサーとして記載に追加
 それ以外のオーサーシップは全て繰り下げるものとする


 以上

 

 ウェンブリー魔術学院大学 学長 フォーゲル=モウリーノ

  ウェンブリー魔術学院大学 第二前衛術科教授 ミスト=シュロスベル

 


「……!」
 全員がアウロスの方に息を呑みながら視線を送る。
 長い長い旅の、終着点。
 それを知ったアウロスは、一瞬険しい顔で目を瞑り――――
「……ふう」
 全てから解放されたように、全てを開放したように、息を吐く。
「目的、達成」
 そして、皆に向かって普段決して見せない笑顔を、控えめながら見せた。
「……………………なーにが『目的、達成』だカッコつけちゃってバッキャローーーーーー!」
 その笑顔の数秒後、堰を切ったようラディが全力でアウロスの背中を叩く。
 同時に、部屋の中に歓喜と安堵が雪崩れのように押し寄せてきた。
「ったく、こんな時くらい性格崩壊させてでもハシャギやがれってのよ! でも、やったね!
 やったよロス君!」
「何度も叩くな……呼吸が……出来ない……」
「こんな時に遠慮なんかするかってのよ! あーもう、ホント長かったよね! いよっしゃーーーっ!」
 満面の笑顔で容赦なく背中を連打してくるラディから逃れるように、アウロスはフラフラと
 自分のベッドに倒れ込む。
「ぃ……やったーーーーーっ!」
 けれどもその背中に、今度はマルテが覆い被さって来る。
「お兄さん……おめでとう! 僕、凄く嬉しいよ! なんか自分の事より嬉しいよ!」
「そこまで喜ばなくても……ま、ありが――――痛っ」
 涙声のマルテにどう反応して良いかわからず戸惑うアウロスに、今度はフレアがのし掛かってきた。
「良かったな。私も嬉しい」
「あんまりそうは見えないんだが……」
「というか、お前より笑顔が苦手なのは地味にショックだ。後で笑い方を教えろ」
 そうおどけるフレアも決して、無表情という訳ではない。
 口元をプルプル震わせながら、彼女なりに感情を強く表に出している。
 そんな対照的な二人から逃れ立ち上がるアウロスに――――
「おめでとう! これでアウロスさんは名実共に完璧な賢聖だね!」
 今度はチャーチが勢いよく飛びついてくる。
 手荒い祝福の波に抗う事ができず、アウロスはまたベッドの上に押し込まれてしまった。
「別にボクは夫がヒモでも構わないけど、やっぱりお互い尊敬できる立場でいるのが夫婦円満の秘訣だよ。
 うんうん、よかったよかった」
「いや、だから……」
「実はボクね、聖下から大事なお仕事任されたんだ。きっとアウロスさんも同行する事になるよ」
「……仕事? 教皇の勅命か?」
 さっさと振り解こうとしたアウロスだったが、自分も関与すると示唆された仕事とやらは無視出来ず、
 思わず問う。
「聖下は"聖地格差"を気にしてるんだ。他にも課題は山積みだけど、国家として新しい方針を
 生み出す以上、第一聖地に権力が集中して風通しが悪い現状は直ぐにでも変えないとって。
 だから、その象徴的な組織を作るんだって」
 教皇自ら作る組織。
 それがただの一組織には留まらない事など、誰でも予想出来る。
 そして、その目的が聖地間の格差をなくすこと。
 なら、その組織とは――――
「第一聖地から第六聖地までの代表的な魔術士を集めて、何かさせるつもりか?」
 一応の根拠はありつつ、半ば当てずっぽうで言ってみたところ、間近にあるチャーチの顔が
 みるみる紅潮していった。
「さっすがボクの夫! 一発で大正解だよ! で、そのスカウトがボクの役目。
 神杖ケリュケイオンを使えば、聖地間の有力者と同時に会話も出来るし、適材適所だよね!」
「なら俺は必要なさそうだな」
「ダメだよ! 新婚旅行のついでに聖地巡りするんだから! アウロスさんはボクの――――」
 興奮するチャーチの顔が、次の瞬間、一瞬で赤から灰色へと変わる。
 その直ぐ背後に、魔女がいた。
「ボクの、何かしら?」
 振り向くとそこには、フレア以上に笑わない魔女。
 ただし、その瞳の奥は嗤っている。
 煩わしい、けれどもここで仕留めておきたい、そんな敵と対峙する時の顔で。
「共に喜ぶ権利はあるのでしょうけれど、そのはしゃぎようだと幼子みたいよ。おままごとがしたいのなら
 精神年齢が同じくらいの相手とどうぞ」
 そんな――――ルインを相手に、チャーチは冷や汗で湿りきった顔で歯を食いしばり、圧力に耐えた。
「う……うう……! 幾ら総大司教の娘でも、ボクだって家柄は負けてないし、ここで屈する訳には……!」
「はーい。そこまで。おめでたい席なんだからケンカは止めてね」
「うげふっ」
 仲裁に入ろうとしていたアウロスより一足先に、ラディがチャーチの襟首を掴み、床にコロンと転がす。
 期せずして、アウロスとルインが見つめ合う形になった。
 そのまま数秒、やたら緊張感のある時間が空間を埋め――――
「……おめでとう」
 そんな切り詰めた言葉が、ルインの口から紡がれる。
 短い、本当に短い祝福。
 でもその言葉の密度も、彼女の心も、アウロスは知っている。
「ありがとう」
 だからアウロスも、それだけを返した。
「……い、良い雰囲気だね。あれが大人の関係って奴なのかな」
「多分、違うと思う」
「ぶー。ボクならもっと熱烈な愛情表現してあげられるのに」
 子供三人のそんなやり取りを背に、ラディがパシンと自分の太股を勢いよく叩く。
「よーっしゃ! お祝いだお祝い! 今日はこの大聖堂を会場に祝勝パーティーだかんね!
 フレアちゃん、早速お父様に報告! そんで肉、それも国中の最高級肉を集めて肉祭りじゃーーーっ!」
「よくわからないけど、伝えてくる」
 全力で荒ぶるラディに乗せられ、フレアも妙に躍動感溢れる所作で部屋から出て行った。
 それにマルテとチャーチもついていく。
 結果、アウロスの部屋には、ウェンブリーの三人が残った。
「……さて、と」
 先程までの高揚はどこへやら。
 ラディは落ち着いた笑顔をアウロスへ向け、その手を無理矢理握り、目を細めた。
「ホント、長かった。これでやっと私もお役御免ってなモンだね。再雇用までして貰った甲斐があったよ。
 最後に良いものが見れたし」
「最後……?」
 急にしおらしくなったラディに、アウロスも、ルインも困惑を隠せない。
 その大人しさは、喋り疲れでもなければ、何かを企む顔とも違う。
 やり切った充実感と――――、一抹の寂しさ。
「そりゃそーよ。だってもう、ロス君に一介の情報屋なんて必要なくなったでしょ? それよりずっと
 信頼性が高くて範囲も広い情報、幾らでも手に入るだろうし。なんつったって、賢聖だもんね。
 ホント、いい迷惑だってーの。折角の金ヅルが一人減っちまったい」
 別れの時に人が見せる顔だった。
「長い間、雇ってくれてありがと。お金もしっかり払って貰ったし、良い商売相手だったよ。
 口は悪いけどねー」
 別れの言葉、別れの握手。
 ラディにとって、アウロスが目的を果たすとは、そういう事だった。
「……これからどうするんだ? ウェンブリーに帰るのか?」
「ま、一応そうするつもり。でもわからないけどね。何か気になる話があったら、そっちに行くだろうし。
 風の流れるまま、情報屋なんてそんな仕事よ」
 ラディは何一つ間違っていない。
 情報屋とはそういう仕事だ。
 目的の為の情報収集と伝達。
 その連続の中で、様々な需要を探し求め、あちこちを彷徨う。
 だからアウロスは、視線をルインへと向けるラディに何も反論しなかった。
「ルインさん。ロス君の事よろしくね。どんだけスゴい立場になっても、人間としてはまだまだ
 しょっぱいトコいっぱいあるから。貴女が支えてやって」
 いつものラディなら、こんな事を言っても次の瞬間にはおどけていた。
 いつものルインなら、こんな事を言われても冷えた目で睨むだけだった。
 今の二人は――――
「……大丈夫。わかってる。知ってるから」
 お互い、言葉通り受け止め、そして投げ返していた。
「私は貴女より少しだけ先に、彼と出会ってるから」
 常に言葉に毒を含ませていた辺境の魔女。
 そして今、その毒は今まで以上に強く、切実に強く、声を伝う。
 けれどもその毒は決して、ラディを苦しめる為のものではなかった。
「少しだけ、か。それじゃ仕方ないね。うん、わかった」
 ラディも、そんなルインの想いを迷いなく感じ取った。
 だから『仕方ない』と、そう答えた。
「んじゃ、私もそろそろ準備しよっかな。あ、こんな話しちゃったけど、今すぐウェンブリーに帰るとかは
 ないからね。ちゃーんと御馳走は頂いてからにしますのよ。オホホホホ」
 湿っぽい空気にしたのを気に病んでいるのか、或いはいつものラディだからこれが普通なのか――――
 そんな高笑いで話を切り替えようとする。 
「ラディ」
 けれどアウロスは、その気遣いを拒否した。
「お前はこれから、身体を治す方法を探すんだな?」
 代わりに、努めて穏やかにそう問い質す。
 ラディは一瞬、驚いたような、困ったような表情を浮かべつつも、直ぐに眉尻を下げ、
 苦笑いに塗り替えた。
「ま、こんな身体じゃお嫁にゃ行けねーからね。もうちょっとだけ足掻いてみるよん」
 情報を扱う彼女にとっては、それが難題である事は誰よりも承知している。
 彼女がこの第一聖地マラカナンへ訪れたのは、雇用者であるアウロスの一助となる為。
 でもそれ以外の時間をどう使うかは、当然本人の自由。
 そこでラディが何をしていたかは、アウロスは一切問わなかった。
 問うまでもなく、わかっていたから。
 そして結果は――――芳しくなかったのだろう。
「わかった」
 ラディのそんな事情を察し、アウロスは浅く頷いた。
「……なんか、いつものロス君らしいっちゃらしいけどさ。随分素っ気なさ過ぎじゃない?
 このやり取りってさ、割と今生の別れっぽいと思うんだけど」
 その反応が不満だったのか、ラディは口を尖らせ不満を訴える。
 少しだけ、気が楽になったようでもあった。
「今くらいのやり取りで十分だろ」
 いいや、所詮は一時の別れ。
 そんなアウロスの強い反論を示す返答が何を意味するのか――――隣のルインは、
 真剣な面持ちを崩さずに二人のやり取りを黙って聞いていた。
「ウェンブリーでまた会おう。支払いはその時に」
「へ? マラカナンでのお仕事の分はもう受け取ったけど?」
「『これ』を俺に届けた代金だ。情報は鮮度が命。なら、より早く知らせて貰った分の代金は払わなきゃな」
 そう捲し立て、アウロスはラディが強引に届けてくれた、ウェンブリー魔術学院大学からの封筒を
 ヒラヒラさせながら掲げる。
 中身の書状はフレアがロベリアへ渡す為に持っていったが、もしあれがここに運ばれて
 いなければ――――例えばロベリアから渡され一人で確認したのなら、先程アウロスの抱いた
 達成感は違ったものになっていたかもしれない。
 それもまた、立派な仕事ぶりだった。
「今は持ち合わせがないから、貸しにしておいてくれ」
「ったく、しゃーねーなー。私とアンタの仲だし、ツケにしといてやるぜ」
 情報屋と研究者による、ほんの少しだけ白々しい再会の約束。
 それを交わしたラディは、祝勝パーティーの準備をすると伝え、部屋を後にした。
「ホントに……しょーがないな」
 若干、鼻声になったその呟きを残して。
 室内は随分と閑散とし、残った二人は顔も合わせず、その場に立ち続ける。
 会話が必要なのは、お互いにわかっていた。
 口火を切るのはどっちかも。
 ただ少しだけ、時間は必要だった。
「ラディの身体を治す方法、探すつもりなのね」
 気持ちの準備が整ったのだろう。
 ルインが溜息混じりにそう切り出した事へ、アウロスは感謝した。
 ここで消化しなければ、中々に厄介な事情だ。
「……というより、もう心当たりがある。融解魔術を研究すれば、きっとそれが可能になる」
「あの邪術を?」
 アウロスにとって、またルインにとっても、酷い目に遭わされた忌避すべき魔術。
 国内でも、国外に流出しても傍迷惑な厄介極まりない存在。
 けれどアウロスは、そんな融解魔術を全く違う観点から捉えていた。
「元々、マルテやフレア絡みで深く調べるつもりだったけど、応用まで出来ればラディへの恩恵にも
 なると思ってな。例えば、肉体の一部、皮膚のみを融かして再生させる。それがもし出来れば、
 生物兵器が根付いた皮膚でも綺麗さっぱり治せるかもしれない」
 融解魔術の医療への応用そのものは、既に先人が検討した数ある内容の一つに過ぎない。
 けれど、そこに『生物兵器への対応』が加わると、全く異なる意味合いが生まれる。
 生物兵器を憎んでいる魔術士、研究者からの協力が期待出来るからだ。
 研究は協力者、特に出資者なくして成立しない。
 関連付けは非常に重要な作業であり、その点において、生物兵器の治療方法として融解魔術は
 十分な可能性を秘めている。
「……といっても、まだまだ構想の初期だ。本人に話せる段階には程遠い」
「本当に、そんな途方もない研究をするつもりなの? ラディの為に」
 そんなアウロスの見解に対するルインの反応は、全く違う種類のものだった。
 嫌でも気付かざるを得ない。
 そして、はぐらかす事も当然、許されない。
「……こういう話をするつもりはなかったのだけれど。只でさえ苦手分野だから。けれど、
 言わない訳にはいかないみたい」
 ルインはアウロスの目をじっと見て、微かに緊張した面持ちで、ほんの少しだけ息を吸い込み――――
「貴方が私を選ぶのなら、そこまでするのは彼女に酷よ」
 言った。
「意味がわからない、とは言わせない。貴方には理解する義務があるでしょう?」
 言わせてしまった――――という思いも、アウロスにはない訳ではなかったが、表面化させる上で
 他に道はなかった。
 だから謝りはしない。
 アウロスがすべきは、一つだけ。
「一応、考えがある」
「そう。聞かせて貰おうかしら」
 その考えを、曲げる事なくルインに伝える事だ
「俺が研究する事自体を伏せておく。そして、成果が出たら何人かを経由して、ラディの耳に
 入るようにする。融解魔術で生物兵器による肉体の変質を治せる方法が確立された、ってな」
 長い長い、回り道。
 漂流した論文も、その論文を取り戻す作業も、迂回の連続だった。
 その経験を経て、アウロスはこの方法に行き着いた。
「それなら、ラディが傷付かなくて済む」
 そう答えながら、自分がどれほど無粋で自惚れた事を言っているかを噛みしめ、心が挫けそうになる。
 アウロスもまた、或いはルイン以上に苦手な分野。
 心境的には、ミストやタナトスを相手に舌戦を繰り広げている方が余程楽だった。
「……そこまでして、あの子を治したいのね」
「相棒だからな。あいつがいなきゃ、俺は目的を果たせなかった。だから俺はあいつを助けたい。
 賢聖の称号を悪用してでも、ラディの目的を叶える手助けをしたい」
 会話しながら、キリキリと内蔵に痛みを感じる。
 そんな苦痛に内心で身悶えしながらも、アウロスはどうにかそこまで辿り着いた。
「お前に嫌われない範囲で」
 どうしても、ルインに伝えなければならない所まで。
「……」
 ルインは声も表情もそのままに、アウロスの話に耳を傾けていた。
「ラディは俺の大事な相棒だ。良い奴だし、知り合えて本当に良かったと思ってる」
 不思議と、緊張はなかった。
 苦手にも拘わらず。
「でも、好きなのはルイン。お前だ」
 その理由が、アウロスには全くわからなかった。
 わからないまま、只の本音を伝え続けた。
「男として、女として好きなのは、ずっとお前だった」
 本音だから、恥ずかしくもないし照れもしない――――そんな訳がない。
 本当に、不思議だった。
「……どうして、私?」
 一方のルインは、明らかに戸惑っていた。
 こういう話を振ったのは自分自身であるにも拘らず。
 まさかアウロスが、ここまでハッキリと口にするとは思っていなかった――――そういう表情が
 ありありと見て取れる。
「気になるから」
 しかし緩める事なく、アウロスは本音を畳みかける。
「初めて会った時から気になって、大学で再会した後も気になって、今もずっと気になってる。
 多分、これからも」
 ついに――――ルインの顔が、紅く染まっていった。
 そのままゆっくりと俯き、前傾し、やがてアウロスの胸に額が当たる。
 そのルインの頭を、アウロスは両手で愛おしげに包込んだ。
「これから俺は、まだ暫くアウロス=エルガーデンの名前を借りて生きるつもりだ。オートルーリングが
 悪用されずに、この国である程度常用されるまで」
 オートルーリングを奪還したものの、アウロスという偉大な魔術士がいたという歴史を作るには、
 それが必須。
 マラカナンに来たからこそ、それに気付けた。
 回り道は、きっと必要だった。
「名前を返す日まで、俺は他人の人生を歩き続ける人間のままだ。それでも、付き合ってくれるか?」
 二人以外誰もいない空間で、アウロスの声は透明に色付く。
 見えはしない。
 正しいか正しくないか、これから綴られていく答えは透明で、誰にもわからない。
「難儀な人生を送る事になったものね。お互い」
 だからルインはそうぼやく。
 嘆きではない。
 こんなにも、心が踊るのだから。
「付き合ってあげる。ただし、一つだけ見解の相違があるから訂正しておきましょう」
 誰も知らない不確定の未来を、愛する人と共に彩っていく。
「私が貴方を嫌いになるとしたら、それは貴方がラディや他の女に目を向けた時じゃない」
 それはきっと、最高の日々だ。 
「貴方が、私に嫌われる事でしか幸せになれないような生き方を選んだ時。覚えておきなさい。
 地の果て、土の中までね」
 その幸せを口に含み、ルインは顔を上げ、呆然と佇むアウロスの口へ移した。
 透明な声に色を添えるような、触れ合うだけの――――口づけ。
「……」
 顔を離したルインは何も言わず、パタパタと足音を立て、部屋から出て行く。
 その背中を、アウロスは自分の唇に手を添えながら見送った。
「どうしたところで、忘れられそうにないな……」
 刻印のように、唇を通じ、心の中に刻まれた彼女との記録。
 その驚きが、嬉しさが、ようやくアウロスに実感させた。
 ついに――――成し遂げたと。
 膨れ上がる安堵感が、心の中を駆け巡る。
 アウロスはベッドに腰を下ろし、部屋の壁をじっと眺めた。
 そう。
 壁を隔てた向こうに――――彼はいつもいた。

(終わったよ、どうにか)

 とても雄弁で、とても快活な少年だった。
 魔術士志望のその少年は、優れた発想力を持っていた。
 その発想が、魔術国家デ・ラ・ペーニャの歴史を変える。
 その日はきっと来る。
 彼は確かに、この国のあの場所にいたのだから。

(これでやっと言えるよ。ずっと伝えたかった事)

 報告――――ではなかった。
 その必要はない。
 成し遂げた当の本人に、自らの功績をわざわざ教える必要なんてない。
 伝えたかったのは、そういう事じゃなかった。

(俺にとってはね。アウロス君)

 アウロス=エルガーデンがこの世にいた証。
 それは魔術士として偉大な足跡を残し、魔術国家の歴史に名を刻んだ事。
 けれども。
 けれども、本当はもう一つだけ、証があった。
 あったんだと、教えたかった。
 伝えたかった。
 "アウロス=エルガーデンが"ではなく"アウロス=エルガーデンに"。
 そうなれたから、堂々と、胸を張って伝えられる。
 まだ預かり物は返していないが、目処は立った。
 やっと、伝えられる時が来た。
 やっと――――


(君が、初めて出来た友達だったんだ)


 ――――少年は、夢を叶えた。









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