「――――賢聖、だと? それは冗談ではないのか?」
 リジルの口から第一聖地マラカナンの最新情報を聞かされたミストは第一声、
 普段はおろか有事の際にすらまず見せないような狼狽の表情を浮かべ、問い返した。
 確かにリジルは下らない冗談を言う事はある。
 だが――――こういった重要な案件に関して茶化すような真似は決してしないと、
 ミスト自身も十分に理解していたにも拘わらず。
「冗談が冗談になりませんよ。こんな事、貴方をからかう為の空言として
 思い付いたところで、口にする勇気は僕にはないですね。だから、現実なんです」
 そして、情報を口にするリジルもまた、滅多に見せない複雑な表情を浮かべていた。
 それは困惑のようであり、歓喜のようであり、はたまた興奮のようでもあった。
「アウロス=エルガーデンが賢聖になりました。厳密には内定との事ですが、教皇自らの
 任命であるとの事なので、明らかに確定事項。つまり九十四年ぶりの賢聖誕生です。
 ついでに史上最年少のおまけ付きだそうですね」
「……」
 絶句。
 そのミストの様子を半眼で追いつつ、リジルは言葉を続ける。
「そしてその初仕事が、このウェンブリー魔術学院大学の不正調査なんだそうです。
 つまり今回の教皇からの勧告は、賢聖の調査結果に基づいてのものなんです」
「な……」
 現実が理解出来ない。
 そのような混乱とは縁遠い筈のミストだが、この時の彼の頭は、一時的に極めて活動力が低下していた。
 賢聖とは存在こそすれ、既に形骸化した概念に近く、言ってみれば御伽噺の中の人物。
 かつてミストはアウロスとの会話の中で『現実的ではない』と断じたが、
 それがまさに本心だった。
「……新教皇の話題作りか? いや、仮にそうだとしても、奴が選ばれる道理はない。
 一体あの男は、マラカナンで何をしたと言うんだ?」
「恐らくですけど、大それた事はしてないんだと思いますよ。確かに突出したものを
 持ってる面白い人ですけど、かといってこの短期間で賢聖になるだけの功績を
 残せる訳がない。戦時中ならまだしも、今は国を救う機会さえないですからね」
「だったら……その機会を自ら作ったというのか」
 半ば呆然とした様子でそう呟いたミストに、リジルは自然と口元が緩んだ。
「やっぱり貴方は、アウロスさんを相当怖がっていたんですね」
「……怖がっていた、だと? この私が?」
「ええ。でなければそこで『機会を作った』という発想は出て来ません。
 貴方は僕以上に、他の誰よりもアウロスと名乗るあの青年を評価し、
 誰よりも恐れていた。だからこそ、この大学から彼を追い出した。違いますか?」
 リジルの指摘は、彼自身がミスト研究室の一員として観察してきた下地がある。
 決して憶測ではなかった。
「……ま、昔のよしみで答えは聞かないでおきましょう」
 リジルが肩を竦め逃げ道を作る直前、ミストは既に彼へ背を向けていた。
 痛いところを突かれ顔を背けたのか、一刻も早く対処すべく協議に向かおうとしているのか――――
 ミストの性格と精神力ならば、辛うじて後者に分があるとリジルは踏んでいた。
 だがそれでも、動揺は明らか。
 そしてそれ以上に、ミストの背中には怒りに起因する特徴的な強張りが見られた。
 自制出来ていない為、本来意識的に力を入れる事のない首回りにまで
 筋肉の硬化が見て取れる。
 アウロスが賢聖となった事実は、そこまでミストを追い詰めていた。
「実際、貴方にとっては厄介な事になりましたね。今回の件、仮に教皇自らが論文の
 不正に対して強制的に修正を要求してきたのなら、実は対処のしようがありました。
 教会は大学に対し原則、不可侵であると法律が定めていますからね。
 研究論文のオーサーシップにケチを付けるのは、教皇と言えど越権行為です。調査すら許されません。
 また、賢聖にも修正を要求する権限はない。でも――――周辺調査に関しては可能です。
 賢聖は称号であって、教会直属の役職ではありませんから」
 そして同時に、賢聖は教会内よりも寧ろ、教会に属さない魔術士や一般人への影響力が大きい。
『賢聖を騙して論文のファーストオーサーを強引に我が物とした教授』
 そのような風評が流れれば、ミストの立場は途端に危うくなる。
 ウェンブリー魔術学院大学は市民公開講座を主催するほど一般市民との交流を
 重視している大学だし、ミスト自身もまた幾度となく講師として参加しているのだから。
 賢聖が調査し、不正の疑いを教皇に報告し、教会が勧告を行う。
 アウロスが仕掛けたこのミストへの"攻撃"は、それをも踏まえた上で非常に有効なものだった。
 強制ではなく勧告なのだから、無視してしまえばいい――――とはいかない。
 これが『誤りの修正』なら問題はないが、『不正の疑い』である以上、
 勧告に従わない場合は相応の理由を用意しなければ、大学という公的機関の説明責任を果たせない。 
 そして賢聖からの指摘である以上、教会側も相応の理由を大学から提示されない限り、
 簡単に取り下げる事は出来ない。
 不正ではないという確固たる証拠が要る。
 しかしミストには、それを用意出来ない。
 何故なら、不正は事実だから。
 そしてその証人こそが、賢聖であるアウロス本人だからだ。
 最終的に『不当だ』『正当だ』という水掛け論になった時、果たして世間はどちらの言い分を信じるか。
 これまでは当然、大学教授であり飛ぶ鳥を落とす勢いのミストの方だった。
 けれど、状況は変わった。
 "何を言うか"より"誰が言うか"が時に重要な事もある。
 この件がまさにそうだ。
『教会に論文のオーサーシップを修正させる強制力はないから、最終的には自分が勝つ。
 それを教会側もわかっているから、適当な理由を用意してやれば、牽制用に振り上げた拳を下ろすに違いない』
 ミストのそんな思惑は、完全に瓦解した。
「論文の原文も向こうが所持しているそうですよ。僕は貴方の仲間ですから、
 この際ハッキリ言ってあげましょう。ミスト教授、貴方に勝ち目はありません」
「……わかっている!」
 ミストの荒げた声を、リジルは久々に耳にする事となった。
 紛れもない、敗北宣言を。
「少なくともこれで、オートルーリングという技術を売り込み新教皇と懇意にするという
 貴方の目論見は完全に潰えましたね。そればかりか、新教皇の貴方への心証は最悪でしょう。
 でも、この件を速やかに処理し、傷を最小限に抑えれば、この大学で一旗揚げるくらいは
 出来るかもしれない」
 リジルの指摘は、ミストにとって厳しい未来が待っているという指摘。
 今の今まで順調に野望へと近付いていた男への言葉としては――――
「夢の格下げ。貴方に出来ますか?」
 ――――余りにも酷な内容。
 背を向けたままのミストの表情はリジルからは見えなかったが、
 他人の負の感情を覗き見するのが趣味とさえ言えるリジルですら、その体勢を歓迎した。
「……せざるを得まい。それは、決して恥ではない」
 声に覇気はなかったが、捨て鉢という訳でもない。
 それは、ミストの育んできた強さ。
「恐れを抱く事もだ。例え相手が何者であろうとも」
 そして、先程のリジルの質問に対する回答でもあった。
 その言葉を最後に、ミストは扉を開け、教授室を後にする。
 直後、廊下で壁を叩く大きな打撃音が響き渡った。
「同感ですよ。恐れは恥ではない。例え一回り以上年下が相手でも。とはいえ……心中お察しします」
 その音の大きさは、もしかしたら打撲程度では済まないかもしれない。
 リジルの耳はそう判断した。
 恥は掻かずとも、怒り、無念さ、後悔、そしてもう一つ抱いているであろう感情を
 己の中だけで消化する事が出来なかったその代償は、かなり高く付きそうだ。
 そう分析する一方で、リジルもまた感情を波立たせ、その頬に冷や汗を浮かべていた。
 自分自身、滅多にない事と自覚しつつ。
「既に発表会で公式に発表された論文のオーサーシップをひっくり返すには、恐らく……
 これ以外はなかったでしょうね。教会の幹部になろうと、大富豪になろうと、
 例えこの国最強の魔術士になろうと、不可能だった筈。それを……
 やり遂げてしまったんですか。アウロスさん」
 今この場に、この第二聖地ウェンブリーにさえいない人物に対し、リジルは敢えて声を出し、話しかける。
 どうしても、そうしなければならない衝動が、トゥールト族としての彼の心の中から湧き出ていた。
「デウス=レオンレイを教皇にする事だけは、絶対に阻止しなければなりませんでした。
 彼の魔術士としての力は、混沌を生みますから。ルンストロム=ハリステウスならば
 タナトス=ネクロニアの好戦的野心が厄介ですが、十分抑えられる範疇だったでしょう。
 でもそれ以上に……ロベリア=カーディナリスは僕達バランサーにとって安全の筈でした。
 彼は保守派であり、安定を望む。魔術士の弱体化を図る上で、何の苦労もない教皇……
 そうなる筈だったのに、状況は一変してしまいましたよ」
 攻撃魔術至上主義からの脱却。
 それによる、魔術の可能性の拡張。
 今やデ・ラ・ペーニャの未来は、予測が極めて困難な情勢となってしまった。
 想定外だった。
 アウロスがミストからオートルーリングを奪い返した事も。
 そして、今その胸に抱く感情の種類も。
 賢聖となった彼がこれから、一体何を成し遂げてしまうのか――――
「ミスト教授は決して言わないでしょうから、僕が代わりに言っておきますよ」
 ここ最近、ずっと不安の種となっているその感情を持て余していたリジルだったが、
 先程ミストの様子を視界に収めた事で、ようやくその正体に行き当たった。
 抱いていたものは同じ。
「完敗です。アウロス=エルガーデン」
 それは――――敗北感だった。
 魔術国家の大敵である生物兵器を生み出したスタッフの一人としての、紛れもない敗北だ。
「生物兵器さえも研究に利用し、呑み込んでしまった貴方に、僕はずっと説明が出来ない
 感情のざわめきを感じていた。感心して、高揚して、恐れて……気付けば貴方の歩みから
 目を離せなくなった自分がいた。知らない内に貴方の生き様に引き込まれていた。
 いや……もっと前かな。そう。貴方が"あのドラゴンゾンビを相手に堂々と渡り合った"あの日から」
 魔術士の天敵でなければならないリジルのアイデンティティは、アウロスによって粉砕された。
 なら、敗北を認めなければならない。
 例えそれが、トゥールト族の末裔として、あってはならない事だとしても。
「アウロス=エルガーデンは偉大な魔術士の名として、歴史に刻まれるでしょう。
 事実とは異なると誰も知りようのない、未来の果てまで」
 最大の厄介事であり難題は、その事実に不快さが伴わない事。
 ただ、期待に似た疑問だけが在る。
「……ならば貴方は何処へ行くんでしょうね? アウロス=エルガーデンの名を借りた貴方は」
 虚空へと投げられたリジルの問いは、誰に聞かれる事なく霧散し、風を従え放たれる。
 第二聖地ウェンブリーの澄み渡る大空へと――――








  前へ                                                             次へ