――――凍てつくような、或いは刺すような自己主張の激しい寒さはなかったが、
 その日の夜、エルアグアは普段とほぼ変わらない冷感を空気に忍ばせていた。
 一方で、闇雲に空を歪ませる光と轟音が幾つも交錯し、明らかに異質な夜でもあった。
 追跡を行う事そのものを、ルインは決して得意とはしていない。
 "死神を狩る者"の本質は死神を嗅ぎ分ける事と、死神を無力化させる事であって、
 通常、死神は逃げない。
 その場でひっそりと佇むものだ。
 だからという訳ではないが――――ルインは、ルンストロムとその一味を追いかけるのを
 止めていた。
 こういった団体の敵を追跡する上で最もしてはならないのは、足止めを食う事。
 単独の人物を追う場合は見失う事が最悪だが、対象が集団の場合は大抵、それで失敗する。
 当然、彼が一人で逃げるなどという事はない。
 共に離脱中のアクシス・ムンディという護衛団が数人、常に周囲へと目を光らせているだろう。
 彼等の戦闘力は然程ではないが、人数的に足止めを食う可能性が高く、
 仮に街中で発見したとしても、そこで仕掛けるのは得策ではない。
 そう判断した上で、ルインは追うのではなく"待ち伏せる"事を選択した。
 勝負の舞台は――――彼等が逃げ切ったと判断するであろう、彼等が宿泊している宿。
 今日の戦いで負傷したルンストロムは、真っ先に治療を受けるだろう。
 彼ほどの権力者なら、病院へ直行し時間外の治療を受けるなど造作もない。
 その病院でそのまま一泊する可能性は一応あるが、明日に教皇選挙を控えている立場上、
 そしてその選挙で自分が選ばれると信じて疑わない彼の性格上、宿に戻り
 心身共に支度を整えようとするのが妥当な行動だ。
 加えて、護衛を務めるアクシス・ムンディが外国から雇われた護衛団である事から、
 ルンストロムの意向を無視してまで安全性を重視し、病院で夜を過ごすよう
 無理矢理説得するのも考え難い。
 この国の言葉は問題なく使えていたようだが、ルンストロムへの畏敬の念や
 意思の疎通という点では明らかに弱く、逃げ切ったとルンストロムが判断した後にも
 しつこく、片時も目を離さずそのまま警戒態勢を維持するとは思えない。
 なら、宿で待ち伏せしておけば、必ずルンストロムを捕らえる好機はある。
 それが、ルインの即興で立てた計画の一部始終だった。
 ただし、そう簡単に遂行できる計画ではない。
 彼の部屋には一度招かれているが、同じ部屋で、まして敵勢力の人間を招いている
 部屋で何泊もする要人はまずいない。
 かといって、次期教皇候補が泊まれるような高級宿はエルアグアでは限られており、
 少なくともこの近辺には一つしかない。
 ルンストロムの言葉には、格と矜恃を重んじる性格である事がその端々から汲み取れた。
 なら、部屋は変えても宿は変えない。
 ルンストロムが安全性を優先し安い宿に泊まるような人物とは、ルインには思えなかった。
 問題は――――どの部屋に泊まるか。
 全部屋、或いは一フロアを貸し切りにし、恐らく宿の支配人ですら何処に泊まるかは
 聞かされていないだろう。
 ならば、自らの気配察知能力に賭けるしかない。
 殺気も敵意もない人物の気配を感知し、しかも個人を見分けるのは非常に困難。
 嗅ぎ分ける力に長けたルインであっても、半ば賭けに近い。
 それでも彼を捕らえるには、この賭けに勝つしかない。
 そう信じ、ルインは以前ルンストロムから招かれたあの高級宿へと侵入を試みた。
 方法は強引かつイリーガル。
 母親である総大司教の名前を出し、正面から堂々と入る事も出来たが、
 もし宿の人間がルンストロムの協力者、または金を積まれ『自分の不利益になりそうな
 人物が現れたら知らせろ』と予め対策を施していた場合、仇となってしまう。
 宿の人間に知られず、建物内へ入る必要があった。
 だからルインは、人の気配のない一階の部屋の窓を、魔術で音を殆ど立てずに破壊し、
 そこから侵入した。
 当然、後で弁償する心づもりで。
 幸い、その方法は上手くいき、ルインは宿内への侵入に成功。
 後は別の空き部屋で待機し、ルンストロムが帰ってくるのを待つのみ――――
『やっぱり、貴女だったのね』
 その詰めの段階で、ルインに想定外の出来事が訪れた。
 廊下を移動中に声を掛けられ、その端正な顔が思わず引きつる。
 けれど、声の主が誰なのかが発覚した途端、全てが理解出来た。
 彼女もまた、高級宿に泊まるべき人物なのだから、ここへいるのは寧ろ自然。
『私に会いに来た……って訳じゃなだそうだけれど。どうしたの?』
 そう優しく、そしてまだ少しぎこちなく微笑んだのは、ルインにとって
 実の母親であり、長年複雑な心情を抱いていた相手――――
 ミルナ=シュバインタイガーその人だった。

 


「……君があの宿に泊まっていたのは知らなかったよ。尤も、それ以前に
 まさか君の娘が器物損壊と不法侵入を覚悟の上で宿に侵入し、待ち伏せするとは
 夢にも思わなかったがね。流石に君の血を引いているだけあって、常人のしない発想をする」
「褒め言葉と受け取っておきましょうかしら。こうして悪人を捕まえたのだし」
 拘束されたままの状態が長らく続くルンストロムは、明らかに話をしたがっていた。
 どうにか口車に乗せ、この拘束を解こうとしているのはラディですら簡単に
 見透かせたが、彼の話が興味深い事もあり、ミルナもラディも自然と聞き入っていた。
「確かに私は悪人なのだろう。この国でも指折りの犯罪者である君にそう言われるのだからな。
 だが、私にも意地があったのだよ。ウェンブリーの魔術士としての意地がね。
 タナトス様は、私がエルアグア教会に向かう事を知っていた。そこでデウス=レオンレイと
 決着を付けると目していた事も。その上であの方は、私がデウスに屈する事を予想していた。
 だから私に『伝言』を命じていたのだ。『もし私が窮地に追いやられるようなら、
 追いやった相手にそれをそのまま伝えよ』とな」
 口惜しそうに、けれど全景は諦観の念に染まった声で、ルンストロムは力なく訴える。
 それは何処か悲鳴のようでもあった。
「或いは……デウスこそがタナトス様の本命だったのやもしれんな。あの外国人共の
 護衛団は、タナトス様が私に付けた。戦力的には明らかに不足している集団だった。
 恐らく、それを補う為に私がどう立ち回るかを観察していたのだろう。
 教皇選挙はあの方の独断で行われる。選挙までにどう動き、どのような成果を得るのか……
 ずっと観察していた筈なのだ。だから私に絶対的な戦力を与えなかった。
 窮地に陥った際にどう乗り切るかを見極める為にな」
「随分と悪趣味だこと」
 率直な感想を口にしたラディに対し、ルンストロムは自虐的に笑う。
「それが人を選ぶという事だ。とはいえ、私もこの年齢で試されるのは本意ではない。
 見返してやろうという気持ちも、何処かにあった。必死になって抗ったよ」
「貴方らしいわね。けれども……」
「そう。私はデウスには勝利した。だが……君の娘とその仲間に屈した。だから私は、
 君の娘に『伝言』を伝えたのだよ。何しろその伝言は、デウスであっても、
 君の娘であっても、或いはロベリアであっても成立する"悪魔の言葉"だったのだから。
 恐ろしい事だよ。あの方は、私を追い詰める相手が誰であろうと問題ないような準備をしていた。
 その上で、どちらにとっても致命傷となり得る文言を私に仕込んだ。
 私という獲物をより早く仕留めた方が、より優れた人材であるという試験の回答としてね。
 誰もあの方には勝てんよ。まさにこのデ・ラ・ペーニャの生死を司る死神だ」
 その伝言に関しては、ミルナも既に聞かされている。
 内容は、実に単純だった。
 そして同時に――――タナトスの恐ろしさを凝縮した言葉だった。

 


「肉親を失いたくなくば、この内容を誰にも知らせず一人で儂の所へ来るが良い。手土産を持ってな」
 自らの"伝言"を読み上げるように告げたタナトスの顔を見ながら、
 ルインは小さく自身の下唇を噛んだ。








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