「――――君の進言には一理ある」
 長い沈黙の末、タナトスはこれまでより幾分か穏やかな声で肯定を口にした。
 それは単に、アウロスの意見そのものへの理解に留まらない。
 自分の野心を見抜き、更にはその背景にある愛国心に敬意を表したアウロス本人に、
 少なからず心を動かされていた。
「前教皇……ゼロス=ホーリーは凡庸なる教皇であった。息子に対する接し方にも、
 それは現れておった。あれほどの才能を持った魔術士はそうそう出てこぬと言うのに……
 愚かにも野に放ってしまった。奴が儂の手元にいれば、エチェベリアの侵攻如き、
 どうにでも出来たものを」
 その為か、これまでの表層を擽るような会話とは性質がやや異なる話をし始めた。
「しかしある意味、不幸でもあった。偶々、身内から最強の魔術士が生まれてしまった。
 私情が挟まれば、判断力が鈍るのは必然。あの方の失敗は、儂にデウスを預けなかった事。
 それに尽きる。同じ事があったとして、ロベリアは他者に必要な事を一任出来るのかね?」
「出来ない、とは答えられないだろ。俺の立場上」
「ふむ。愚問であったな」
 微かだが、タナトスは口元を緩め、視線をアウロスから外し上へと向けた。
 まるで昔を懐かしむような表情――――アウロスからはそう見えた。
「儂は、魔術というものを大事にしておる。この年になってこう言うのも奇妙なのだが……
 魔術が好きなのだ」
 或いは、研究に邁進した日々を思い出しているのかもしれない。
 そう邪推してしまう程、タナトスの遠くを見る目は憧憬に満ちていた。
「魔術が軽んじられるのも、魔術士が敗北主義を受け入れるのも、到底納得出来ないのだよ。
 魔術を発展させる為、あらゆる手段を尽くして来た。人事権を握らなければ強い国は作れぬと、
 研究の道を捨て政治に身を投じてきた。そうやって儂が長年積み上げてきたものが、
 先人が積み重ねてきたものが、『敗戦した以上は無意味』だと嘲笑われるのだと思うと、
 死んでも死にきれぬ」
 その目が一瞬だけ閉じられ、再び静かに開かれる。
 そこには、子供のような純粋な光はない。
「ならば、利用出来るものは全て利用せねばなるまい。若い君には、黒幕としてルンストロムに
 全てを押しつけていた儂が醜く見えるであろう」
 だが、濁りつつも鈍く輝く、光に似たものは映っていた。
「……条件がある」
 それはつまり――――ロベリアを教皇にするという選択を認めるという事。
「君が儂の跡を継げ。教皇を闇から支えるのだ」
 タナトスの決断は、鋭い眼光をもってアウロスへと向けられた。
「薄汚い事、外道と呼ばれる手段、時に人である事すら止める決意。
 君ならば、やり遂げられるかもしれぬ。短いこのやり取りの中で、君はその可能性を儂に感じさせた」
「……幾らなんでも飛躍し過ぎだ」
「そう自重した結果、デウスは我が元を離れた。失敗から学ばねばならぬのだよ。この国は」
 表情こそ緩んでいるが、冗談を言うような目ではない。
 真っ直ぐにアウロスの目を見続けるタナトスに、迷いは微塵もない様子だった。
「無論、今の君を準元老院に入れるなどとは言わんよ。重要な役職を与える事も考えてはおらん。
 そのデウスの若い頃に似た不遜さは、敵を作りやすくもあるだろう。若過ぎる君を重要職に
 就かせれば、新体制は内紛によって崩れかねぬ」
「……なら、どうしろと?」
「権限を与えぬ代わりに、威光を授けよう。元々誰の役職でもなければ、それ以前に職ですらない。
 やっかみの対象とはなるまい。反対意見は山ほど出るであろうが……」
 タナトス口元を手で抑え、僅かに間を置き、そして――――命じた。
「アウロス=エルガーデン。君はこれから賢聖を名乗れ。九十四年振り、間違いなく史上最年少のな」
 賢聖。
 めざましい功績を残した魔術士に与えられる最高の栄誉であり、
 百年近く誰の手にも渡らなかった幻の称号。
 ウェンブリーでミストから聞かされ、このマラカナンではデウスを通して
 ミストを牽制する為に使った言葉。
 確かにその称号を得れば、歴史に名を刻むという目的を最高の形で達成出来る――――
 が、最早絵空事に等しい存在。
 目指すのがどれほど非現実的かは、十分理解していたつもりだった。
「任命権は教皇にある。教皇にそれを認めさせるまでが条件だ」
 だが、教皇不在の今、この国で最大の権力を誇るタナトスが条件として突きつけた以上、
 それは決して幻でも絵空事でもない。
 途方もなく長い旅の終わりが、突然目の前に突きつけられたアウロスは――――
「わかった。やってみよう」
 余りに素っ気なく、そう答えた。
 その反応に、タナトスは暫く沈黙し、やがて徐に両肩を下げる。
「最近の若い者は皆そうなのかね……?」
「どうだろうな。十把一絡げにはされたくない、とは言うべきなんだろうが」
 歴史に名を刻む――――そんな夢を持つアウロス=エルガーデン。
 それが凡庸を好むというのは、明らかな矛盾だ。
 目的を果たせる所まで来たからといって、そこは有耶無耶には出来ない。
「……交渉は成立だ。先にロベリアを指名するか、決定を延期してロベリアが
 俺を賢聖に指名するのを待つか、それは好きにしてくれ」
「延期は出来ぬよ。今からロベリアの屋敷へ出向いて返事を貰って来たまえ。
 まだ教皇選挙当日は当分続くのだからな」
 かつて教皇選挙においては、どうしても次期教皇が決まらず会議が長期に亘った事があった。
 最大で一年と四十四日。
 だが教皇選挙は一日と定められている為、デ・ラ・ペーニャにおいてその時の教皇選挙当日は
『通常の一日の四〇〇分の一の速度で時間が流れた緩やかな日』と記録されている。
 結局のところ、人間が作り出す歴史とは、そのようなものなのかもしれない。
 そして研究もまた、同様。
「暫くは儂もここにいる。夜が更ければ宿に戻る事になろう。儂の部屋はルンストロムが知っておる。
 慌てずとも良い、ゆっくりと確実に……運命を噛みしめるのだな」
「ああ」
 ここですべき事は全て終わった。
 アウロスは一礼もせずに踵を返し、そのまま最高位室を出ようと扉へ向かう。
 その背中へ、タナトスが砕けた声を向けた。
「それにしても、最後まで口の悪い男だな。儂をお前呼ばわりする魔術士など、君くらいだぞ?」
「色々あってね。疲れてるんだ」
「昨夜の事かね。ふむ……ルンストロムは臆病な性格故、常に護衛を伴っておるからな。
 奴を捕らえるのは大変だったのではないかね?」
「……捕らえたのは、俺じゃない」
 一瞬立ち止まったものの、アウロスは振り向きもせずそう答え、部屋を後にした。
 その刹那――――
「疲労は身体以上に頭に毒だ。睡眠を推奨しよう。尤も……」

 ――――フォン・デルマ最上階に、小さな爆発音が鳴り響いた。

「永遠の眠り、だがね」







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