水没都市エルアグア。
 その原因が邪術の融解魔術である以上、この都市は魔術士の業そのものといえる場所だ。
 ならばこの場所――――教皇選挙が行われるこの【フォン・デルマ】は、ある意味では
 魔術士の負の象徴と言える建造物だった。
 万が一、水位が一時的ではなく常時、それも街の大半を呑み込むような高さまで上昇した場合、
 この塔は避難所となる。
 ただしその場合、一般人はおろか、大半の魔術士が入る事を禁じられる。
 会議室や展望室などの様々な部屋を設け、平日休日を問わず開放されている、
 庶民の日常に寄り添った鐘塔フォン・デルマ。
 しかしその実、この建物は地位の高い魔術士のみが使用出来る有事の"聖域"として、
 エルアグア内にそびえ立っている。
 教皇選挙が行われるのも、こういった役割が背景にある為だ。
「……どうやら、今回の選挙の候補者は揃いも揃って愚物ばかりだったのだな」
 タナトスのその声は、苛立ちという感情を極限まで濃縮したような、呪詛に等しいものだった。
 しかしその声に怯える者は、この場にはいない。
 アウロスは不遜な態度を一切変えてないし、その他――――この部屋には誰もいない。
 教皇選挙が行われるというデウスがもたらした情報は、紛れもなく真実。
 だからこそ選挙管理委員会最高議長のタナトスがここにいる。
 フォン・デルマ最上階、【最高位室】と銘打たれたこの狭き部屋に。
 用途すら含まれていない名称は、この部屋が目的ではなく特定の人物の為に作られた事を意味し、
 それは同時にフォン・デルマ建築の真の理由でもあった。
「おぞましい事が起こったものだ。負傷者の侵入を許すとは」
「傷口は塞がってる。血で汚す無粋な真似はしないから、安心しろ」
 タナトスが何を言いたいのかを承知した上で、アウロスは淡々と皮肉を述べる。
 その頭部には痛々しい包帯が荒々しく巻かれているが、流血の痕跡はなく、
 今日の戦いにおいて支障は何もない。
「この部屋にマラカナン以外の魔術士が入ったのは初めてだ。皇位後継候補であろうと、
 準元老院の人間であろうと、それは例外ではない。三人の内、誰がここを教えたのかは知らぬが……
 不埒なものよ」
 独特の表現を用いて非難するこのタナトス=ネクロニアという人物について、アウロスは昨日まで
 その名前と肩書きくらいしか知識になかった。
 元枢機卿、現準元老院の実質的な長。
 こと政治に関しては、教皇以上の権力を有するとさえ言われる、魔術国家デ・ラ・ペーニャの闇の首領だ。
 この国が戦争で歴史的大敗を喫したのは、この人物が積極的に関与しなかったから――――
 とさえ、真しやかに囁かれている。
 アウロスはこれまで、身分上格上の相手とは何度もやり合ってきた。
 ウェンブリーでは大学の教授や教会の司祭。
 マラカナンに来てからは首座大司教であるルンストロムとも全面的に戦った。
 だが――――この相手は、そのルンストロムすらも霞む立場の人間だ。
 形式上の権力で言えば、現枢機卿のロベリアの方が上なのだろうが、その事に然したる意味はない。
 何より、教皇選挙の当日に彼がここに一人しかいない事実が、それを物語っている。
「教皇選挙ってのは、投票せずに一番偉い人間が独断で決めるんだな。初めて知ったよ」
 他に解釈の余地はない。
 まさかこのルンストロムよりも年上の人物が、偶々一番乗りで塔の最上階に上ってきた、
 等という可能性は考慮する必要もないだろう。
「ウェンブリーの魔術士は、与太話が好きなのだな。ルンストロムも儂と話す時には、
 回りくどい導入をクドクドと語っていたものだよ。尤も、君のような怖い者知らずとは違い、
 畏敬の念を態度で示していたがね」
「その畏れられていたルンストロムに、選挙管理委員会は随分といいようにされていたらしいな」
「本人からの伝聞か、自らの浅薄な推察かは知らぬが……そのような事実はない。
 儂がここに一人でいるのも、君の思うような理由ではない」
「なら説明を聞こう。選挙の参加者の一人として。時間は十分あるだろう?」
 参加者の一人――――先程もアウロスは同じ主旨の事を言っていた。
 その言葉が、タナトスの表情を濁らせる。
「俺をウェンブリーの魔術士だと知っていたんだ。まさかここで、何も語らず、
 何も聞かずに追いだそうとはしないよな?」
「……随分と頭に乗っているな、ウェンブリーの魔術士風情が」
 タナトスは遥か年下のアウロスに対し、怒りを隠しはしなかった。
 しかし、その露見程度で底が見えるような人物ではない事を、アウロスは感じ取っていた。
 大学時代から化かし合いを繰り返してきた手前、そういう水にすっかり馴染んでしまった。
「が、確かにこのまま帰す訳にはいくまい。そして君がこの場所へ、どういった理由や目的で来たか
 という疑問よりも、"この部屋へ入れた事そのもの"への疑問は最優先で問わねばなるまい。
 今後の要人警護に深く関わる問題故にな」
「交渉する気になった、って事でいいんだな」
「君が選挙に参加するというのは、そういう事なのだろう。"誰を教皇にしたい?" ますはそれから
 聞こうではないか」
 アウロスの侵入は、タナトスにとって想定外というだけでなく、様々な意味で耐えがたい屈辱だったのは
 間違いない。
 だが、怒気こそ隠してはいないものの、その口惜しさは微塵も表面に出していない。
 しかも、アウロスと二人しかいないこの場で、命の心配をする気配も感じられない。
 幾ら魔術が筋力や肉体的な反応を然程必要としないからといって、老人が若者と同じように
 戦える訳でもない。
 そのタナトスが、アウロスに対し一切襲撃される心配をしていないその事実が、
 最高位室の中の空気を張り詰めさせた。
「俺の背後にいる人物から、ここへ俺が侵入した経緯を読み解くつもりか。流石に抜け目がないな」
「……」
 だが、張り詰めた理由はタナトスの謎の余裕だけではない。
 アウロスもまた、タナトスの質問の意図を一瞬で見抜き、抉るような目で様子を窺う。
 ウェンブリー魔術学院大学在籍時、アウロスはクレールの濡れ衣を晴らす為、
 ライコネン教授と交渉を行った。
 その時と相手はまるで格が違うが、やる事に変わりはない。
 交渉する際には、まず譲れないカードと譲っても良いカードをそれぞれ区分けする事から始まる。
 それらを分けたら、次はそのカードに優先順位と攻撃性能を付加する。
 その次に決めるのは、攻撃的に行くか、守備的に行くか。
 前者は目的の理想的完遂を最優先とし、そこから少しずつ妥協して行く。
 後者は絶対に譲れないカードを死守しつつ、譲っても良いカードを駆使して
 落としどころの水準を上げていく。
 ライコネン教授と交渉でアウロスは後者を選択した。
 そうする必要があったからだ。
 そして今回、他人の為ではなく、自分の為に戦うアウロスは――――
「俺が教皇にして欲しい人物は、ロベリア枢機卿だ」
 右手の人差し指にはめる自身の研究成果を光らせる事なく、初発となる攻めの一手を放った。








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