【氷塊】の直撃を受けた顎には、生々しい傷跡が残っている。
 にも拘らず、ゲオルギウスの表情には高揚感すら漂わせていた。
 意識があるのか、ないのか。
 それすらも把握し辛いその顔のまま――――殆ど無駄のない動作で
 ルーリングを始める。
 そこから予測される魔術は当然、先程放とうとした不完全な融解魔術。
 今度はその時のような、魔具内魔術無効の理論を利用しての無効化は不可能。
 既に先手を打たれた時点で、選択肢は狭められていた。
「逃げろ!」
 咄嗟に出てきたアウロスの言葉は、直ぐ傍にいるルインに対してのもの。
 ルンストロムから標的と名指しされた自分は、最早融解魔術から逃れられない。
 なら、せめて守らなければ。
 これからどのような人生を歩むのか、見守っていきたいと心から思った
 尊い存在だけは、この世界から失われないように――――
「聞けない相談ね。私が何の為に在ると思うの?」
 だが、その願いは他ならぬ本人によって却下されてしまった。
 それも、この上なく密度の高い言葉によって。
 反論など一切許さない。
 普段は毒舌で周囲を怯えさせる彼女だったが、本当に大事な言葉は、
 本当に伝えたい言葉は、表現や技法ではなく、込めた意味で脅威と成す。
 ここに来てルインの本質にまた一つ触れたアウロスは、
 その気高き決意に五指をもって応えた。
「なら協力しろ。"ぶつけるぞ"」
「"了解"」
 広げた右手の内、四本の指を折りたたみ、残り一本で宙に綴る。
 現在のアウロスが魔術を放つ上で使用出来る魔具は二つあるが、
 エルアグア教会を使用すると、魔力をかなり広く伝播させなければならず、
 その時間のロスは、この状況下にあって致命的。
 事前に準備しているからこそ可能な戦術だったし、だからこそ今ここで
 魔具内魔術無効の理論は使えない。
 頼れるのは――――己自身の魔具のみ。
 だが自分で研究して作り上げた魔具は、既にラディに預けてある。
 事実上、手動のルーリングしか選択肢はないが、それでは
 ゲオルギウスのルーリングに後れを取ってしまう。
 融解魔術は複雑なルーン構成だが、不完全だというそれがどの程度の
 ルーン数で出力されるかなど、アウロス達が知る術はない。
 この場を切り抜けられる対抗手段があるとすれば、その方法は一つ。
 ゲオルギウスの魔力切れ。
 融解魔術がどのような形で出力されるのかは不明だが、その放たれた魔術に
 こちらも魔術を放ち、自身の身体から遠い場所で"ぶつける"。
 当然、融解魔術によって融解されるだろうが、その融解が一瞬でなければ、
 ゲオルギウスの魔力消費量は時間の経過と共に増えていくだろう。
 押し切られて消滅するのが先か。
 ゲオルギウスの魔力が底を尽きるのが先か。
 それは完全に賭けだ。
 だがその賭けも、この場で唯一オートルーリングを使えるルインの協力なしには
 成立しない。
 それでもアウロスはルインに逃げて欲しかったし、ルインはだからこそ
 アウロスの要求を却下した。
 二人の言葉のやり取りの中に、それらの具体的な説明や疑問は一切ない。
 問題はなかった。
 この世界には、省略してしまっても完全無欠で成立するものは確かにあるのだから。
「ィ――――ィ――――ィ――――ィ――――」
 異音とも言うべき声が、ゲオルギウスから発せられる。
 やはり、恍惚にも似た表情で。
 或いは、彼の中のグランド=ノヴァの歓喜の声か。
 そんな見解など一瞬で吹き飛ぶかのような魔力の霧散現象が生まれ、
 ゲオルギウスの伸ばした右手から――――融解魔術が発せられた。
 それは肉眼で視認するのが困難なほど細かい、霧のような無数の粒。
 ただし四方八方に拡散する事はなく、アウロス、ルイン、そして
 床に這いつくばったデウスの三人を飲み込む範囲に限定されている。
「アウロスさん!」
 ゲオルギウスよりも入り口側にいたアクシス・ムンディの面々、そして
 ゲオルギウスのほぼ真横にいたチャーチは範囲外。
 そのチャーチが見開く目に、融解魔術の進行が映る。
 速度は――――並以下。
 だがその面積は出力方向に向け、どんどん広がっていく。
 その融解魔術が両者の距離の半分を越えた辺りで、ルインの放った【旋輪】と
 ぶつかり合った。
「……いい判断です」
 敵であるルンストロムがその言葉を贈ったのは、単なる皮肉ではなかった。
 彼もまた、魔術士であり研究者。
 己が正しいと信じたものに惜しみなく称賛と敬意を示してきたからこそ、
 現在の地位を、そしてめざましい研究成果を獲得してきた。
 だが――――やはり、皮肉も幾分かは含まれていた。
 それが、ルンストロムという魔術士の本懐であり、選んできた道だった。
「!」
 ルインの目が、大きく見開かれる。
 予想は十分にしていた事だった。
 融解魔術というものが理論上、存在し得る事も。
 だがそれでも、自分が放った緑魔術が『融かされる』現実は、
 そう簡単には受け入れがたいものだった。
 氷を操る青魔術なら、実際の氷が溶けるイメージと合わさって違和感はない。
 だが、風が融けるというのは、余りに歪な現象。
 ルインの放った風のリングが、融解魔術と思しき霧に触れた瞬間、
 その形を大きく変え、グニャグニャになり、萎むように立ち消えていく。
 まるで、首があらぬ方向に曲がってしまった人間を見たような、
 一種異様な不気味さを覚えつつも、ルインは直ぐに新たな魔術を綴り始める。
 その間――――今度はアウロスが【炎の球体】を放った。
 幸いにも、魔術が融かされるのにはある程度時間が掛かる。
 融解中は魔術に極端な減速も見られる。
 外観は特殊だが、通常の魔術同士が衝突している状況と、それほどの違いはない。
 なら、食い止められる可能性はある。
 どちらの魔力が先に尽きるか――――
「……いい判断ですが……ここまでです……!」
 アウロスの放った炎の塊がひしゃげるように消えた刹那、ルンストロムが
 先程より幾分か声を張り、その目に魔力を宿した。
 アウロスも、ルインも、融解魔術への対応で精一杯。
 ここで別角度からの攻撃が来たら――――防ぐ術はない。
「我こそがグランド=ノヴァ……! その証を今こそ打ち付けてみせよう……!」
 その言葉が何を意味するのか、最早本人にしかわかり得ない。
 ただ、矜恃を多分に込めたその絶叫と共に放たれたその魔術が、
 アウロスにとって、ルインにとって、致命的なものとなるのは誰もが予想出来た。
「まだだ……!」
 予想出来たのなら――――防ぐしかない。
 例え次の危機が直ぐに押し寄せようとも。
 アウロスはその"次"に賭けて、生涯最速のルーリングで結界を綴った。
 自動編綴を研究し続けた男の、或いは先人に対する最大の敬意。
 その結界は――――ルンストロムの攻撃がアウロス達に届く直前、三点で結ばれ
 魔術を防いだ。
 小さい爆発音が響く中、ルインが融解魔術に向かって【雷槌】を放つ。
 目前の危機を奇跡的に防げても、迫り来るのは更なる危機。
 それは次第に恐怖となり、やがて絶望へ変わるだろう。
 たったの数秒後に。
 アウロスが結界を綴った時点で、【雷槌】の次の一手が確実に遅れてしまうのだから。
「終わりますね……」
 満足げにそう呟いたルンストロムの目を、何かが横切った。
 一つ、二つ。
 そして――――三つ。
「終わらせて――――なるものですか!」
 ティアの叫び声が、エルアグア教会の内部を駆け巡った。








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