痛みはあった。
 少なくとも、激痛と呼べる類いの感覚は今も変わらず残っている。
 だがそれは最早、心を折るものでもなければ、身体を救うものでもなくなっていた。
 奴隷として、被験者として少年期に様々な魔術を浴びた。
 その結果、決して消える事のない傷を残した皮膚と、成長の可能性を失った
 筋肉が残った。
 そして、それらの後遺症とは質の異なる精神的な問題も。
 痛みはある。
 だがそれが恐怖や抑制に繋がらない。
 それは人間として、非常に大きな欠損だった。
 通常、生物は痛覚をもって生命の危機を知る。
 痛みが心を折るのは、一刻も早く身体を回復させる必要性を訴える為。
 逃げる事、隠れる事、敵に屈服する事で危機を逃れ、生命を長らえる為だ。
 もし、その機能が停止すれば、人間は死に対する危機感を失ってしまう。
 重大な欠陥だ。
 アウロスは――――そんな問題を抱えている。
 幾度も魔術を食らい続けた事で、痛みと心を繋ぐ線が切れてしまった。
 覚えてはいる。
 痛みが増せばそれが死に近い状態になる事を、知識としては有している。
 だが、恐怖や戦慄といった本能的な感情の萌芽とはならない。
 傷を負っても、それが重傷であっても、恐ろしい、逃げよう、降参しよう、という
 感情が芽生えない。
 故に、その問題は死のリスクを大きく高める事と同時に――――どのような攻撃を受けようと、
 怯まず立ち向かえる性質を得る。
 決して強みではない。
 まして強さなどではない。
 が、この場面においては大きな有利性として働いた。
 フレアの放った円月輪は、アウロスの頭部を食らいつくように削り、右側頭部に浅くない傷を残す。
 大量の血飛沫が舞い、衝撃で激しく頭が揺れる。
 致命傷。
 ルインがそう思うのも無理のない深傷を負った筈のアウロスは、即座に体勢を立て直し、
 まるで先程の攻撃を回避したかのような動きでルーンを綴り出す。
「ルイン!」
 同時に、その名を呼ぶ。
 具体性を一切帯びないただの呼名に、幾つかの意味を込めて。
 ルインは即座にその全てを回収し、蒼白になりかけていた顔へ血を巡らせる。
 そして、編綴。
 選んだのは、緑魔術において最も少ない文字でルーリング可能な【風波】という、
 小さな風の塊を放つだけの初歩の魔術だった。
 必要なのは威力ではなく速度。
 ルインのその選択は、正解だった。
 アウロスがオートルーリングによって綴った【氷の弾雨】が放たれ、それとほぼ同時に
 ルインの【風波】が別角度でそれぞれフレアを襲う。
 通常なら全面結界でしか防げないその攻撃を、フレアは体勢が崩れたままの体勢で
 大きく真上へ跳躍する事で回避した。
 そしてそのまま天井まで到達、腕を付いた反動で速度を増し、落下して着地――――
 その腹づもりだった。
 少なくとも、回避された事を察したルインはそう推察した。
 だから直ぐに追撃をすべく新たな魔術を綴っていた。
 が――――それは不要に終わった。
 ルインのルーリングは速い。
 準備も早く動作も機敏。
 そして何より、ルーリングの際に必要な『魔力の操作』も非常に素早い。
 そのルインが全く追いつけず、呆然と見送るしかないほど――――アウロスの
 オートルーリングによる二撃目は速かった。
 しかもそれは【風波】より一ランク上の緑魔術【安息の螺旋】。
「ぅ……!」
 空中を舞っていたフレアはなすすべなく風の塊に捕まり、弾かれ、部屋の奥に吹き飛んだ。
 無防備な状態で攻撃を受けたフレアは気絶したらしく、そのまま受け身も取れずに落下。
 天井に達する前で、高度が然程でもなかったとはいえ、危険な落ち方だったが――――
「……世話の焼ける」
 直ぐさまルインがフレアの落下予測地点に向け【風波】を放った事で、
 浮力を得たフレアの身体は然程衝撃を受けない状態で奥の机の上へと落ちた。
「意識はないようだけれど、呼吸音は聞こえる。そこで寝てる子供も、両方無事よ」
「……ああ」
 フレア、そして地面に横たわったままのマルテの様子を確認したルインは、
 即座にアウロスの方へ駆け寄る。
 そして、吹き出した血を左手で押さえるアウロスに向かって――――
「その生き方は、止めて」
 懇願するように、そう呟く。
「原因は母にあるから『止めなさい』とは言えない。だから、これは私の我儘」
 今にも崩れ出しそうな表情を、必死に繕いながら。
「命を大事にして」
 アウロスの性質、目的、信念――――全てを理解し、その上で吐露した言葉は
 直ぐにでも消えそうな脆弱さで、それでもアウロスの耳に、心に届いた。
「……わかった」
 届いたからには、そう返事するしかない。
 あの状態のフレアを殺さずに倒すには、相手の攻撃を無視して仕掛ける以外なかった。
 回避に全力を注げば、人間離れした速度でのフレアの追撃が待っている。
 殺すか殺されるか――――そんな状況になるのは目に見えていた。
 後悔も反省もない。
 ただ、ルインの訴えを退ける術は、アウロスの中には存在しなかった。
「あのー、終わった……? ――――って、ちょっと何そのケガ! 血がダラダラ出てんじゃん!」
 部屋の外で待機していたラディが、慌てた様子で入ってくる。
 同時に、腰に下げていた鞄から包帯を取り出し、棒立ちのアウロスに許可も得ず
 頭部をグルグル巻き始めた。
「準備がいいのね」
「『備えあれば恩売れる』、ってね。情報屋の基本だぜい。はい終わり!」
 微妙に嫌な言い回しを披露しながら、ナイフを取り出し巻き終えた包帯を切る。
 明らかに適切とは言い難い巻き方で、額にまで及んだ白い布が若干視界を遮っていたが、
 応急処置としてはこれ以上を望むのは酷。
「悪いな。包帯の代金は別途用意する」
 アウロスは小さく息を吐き、頭を締め付ける包帯に触れずそう礼を言い――――
「……ルイン?」
 横目で見た隣のルインがいつの間にか警戒態勢をとっている事に気付く。
 沈黙のまま、今しがたラディが入ってきた部屋の入り口を睨み、
 しかし警戒以上の行動を示さずにいる。
 その不自然な様子にラディも気付き、頬に冷や汗を滲ませていた。
「ど、どったの? まさかまた敵? まだフレアちゃんの事ちゃんと整理できていないのに……」
「なら話は早い。説明をしてあげようではないか」
 扉が開かれる。
 露見したその姿には、アウロスも、そしてルインにも心当たりがあった。
 新たな入室者は二名。
 先頭に立つのは、ルンストロム=ハリステウス。
 そして――――
「……」
 その直ぐ後ろに、ゲオルギウス=ミラー。
 教皇選挙を明日に控えたエルアグア教会の夜は、未だ明け方を忘れていた。









  前へ                                                             次へ