「……え? お兄さん、今なんて……?」
 聞き間違え――――瞬間的にそう思ったマルテが顔を引きつらせながらも確認をとる。
 それに対するアウロスの回答は明瞭だった。
「お前を人質にすれば、デウスはこちらの要求を呑む。だから勝てる。そう言った」
 一切の淀みなく断言。
 アウロスが冗談を言っている訳ではないと気付き、マルテの顔色がみるみる変わっていく。
「本気で……言ってる?」
「当然だ。俺は聖人君子になった覚えはない。目的を達成する上で、それ以外に選択肢が
 ないのなら、そうする」
 アウロスは、マルテの目をじっと凝視し、反論が出て来ないのを確認してから
 次の言葉を紡いだ。
「……そうありたいと思っている。でも、実際に事はそう簡単じゃない」
 大きな溜息。
 意図せずに吐いたものだったが、マルテもそれに呼応するように、
 アウロスが息を落とした数秒後にその何倍も大きな安堵の息をついた。
「お、驚かさないでよ……僕、てっきりそういう作戦で行くのかと」
「もし必要なら検討するってところまでは確実に実行できる自信はある」
「……え」
「でも、そこから先は不透明だ。アウロス=エルガーデンの名前に傷を付けずに、
 何よりお前自身を傷付けずに人質として機能させるのは、中々難しい」
 それは、アウロスが本格的にマルテの人質としての価値を認めている証だった。
「僕が人質になっても、デウスさんは何もしないと思うよ? だって……」
 マルテは自分自身に対しての評価が非常に低い。
 それは、彼の人生と生い立ちの落差を考えれば、致し方ない部分もある。
「……あ。そっか」
 ただ、マルテは気付いた。
 自分がこれまでの自分とは違う事に、気付いてしまった。
「僕の中にいる、グランド=ノヴァって人に価値があるんだね」
 結果、アウロスの話を曲解してしまった。
 無理のない話ではある。
 グランド=ノヴァの存在の大きさなど、世代がまるで違うマルテには
 知る由もないが、今の自分が極めて稀有な状況にあるのは誰が見ても明らか。
 ならば、自分の存在価値や親子の関係性よりも、その稀有さが前に出るのは当然だ。
 そして、マルテの見解は間違っていない。
 デウスは『グランド=ノヴァを内に棲まわせているマルテ』に対し、
 強い拘りを持っているのは確かなのだから。
 が――――
「正確には『グランド=ノヴァを外に引きずり出す事』に価値がある」
 そのアウロスの言葉に、沈みかけていたマルテの顔が上がる。
 表情は、複雑の一言に尽きる。
 そして、その中には期待の成分も僅かに含まれている。
 アウロスは、その顔に思わず顔を背けたくなった。
 ウェンブリー魔術学院大学に所属していた頃、自分もミストに対して同じような
 表情を見せていたのだろう、と思うと、視野から追い出したかった。
 だが、そうする訳にはいかない。
 それをすれば、マルテが傷付く。
 嘘を言っていると勘ぐって。
 なら、正面から見据えなければならない。
 目の前の少年も、自分の内側に居る"少年"も。
「デウスは間違いなく、そう思っている。お前に取り憑いた老人を追い出して、
 お前を自由の身にしたいと、そう考えている」
「……嘘だよ。だって、そんな事してデウスさんになんのメリットがあるのさ」
「父親だから、なんだろ」
「今更っ!」
 突然の大声に、アウロスはそれでも動じない。
 マルテの感情の爆発は予想出来た。
 そして、それが出来るマルテを羨ましくも思った。
「今更、そんなの信じられる訳ないよ! 父親なんて、僕にはいなかったんだ!
 父親が必要な時に、あの人はいなかったんだ……!」
 直立したまま、マルテは吠える。
 それは――――マルテが初めて見せた、明確な父への本心だった。
「僕が初めておつかいを頼まれた日も、初めてピートにかけっこで勝った日も、
 初めてお酒を飲んだ日も、次の日具合が悪くて一日中唸ってた時も……
 あの戦争で母さんが殺された日も! 父さんはいなかったんだ!」
 無意識に、マルテは存在しない左腕に触れようとする。
 そこには、袖だけがぶら下がっている。
 細長いその布に触れ、マルテは歯を食いしばった。
「そんな人が……今更僕を息子なんて思う訳ないよ」
 実感がない事実を真実として受け止めるのが下手。
 それは、殆どの人間に該当する弱点と言える。
 ましてマルテは、教皇の孫という通常ならば簡単に悦楽を得られる
 血筋に生まれながら、その恩恵に一度としてあずかった試しがない。
 血がどうあれ、真実がどうあれ、信じられないものは信じられない。
 実感の伴わないものは受け入れ難い。
 当たり前の拒絶だ。
「お前の心証は正しい。でも、あの男がお前を実の息子として
 思いやっているのは間違いない」
「信じられないよ! なんでそんな事言うのさ!」
 だから、どう叫ばれようと反感を買おうと、アウロスは全く
 表情も感情も変えず、淡々と持論を並べていた。
 それだけが唯一、マルテに言葉を届ける方法だと信じて。
「デウスのこれまでの行動全てを精察して、勘案して、その結果
 一番合理的なのがその結論だからだ」
 自分自身が貫いてきた事だからだ。
「マルテ。自分を信じるのはいい。自分の経験や実感は大事だ。
 それを重要視するのも大事だ。でも過信はするな」
「過信……?」
「お前が信じている事が真実とは限らない。信じたくないものが
 真実とも限らない。そして、真実を知る事が役立つとも限らない。
 でも、お前はまだその吟味すらしていない。違うか?」
「え……」
 マルテはアウロスの質問を上手く飲み込めず、視線をあちこちに
 動かして動揺を露わにする。
 その目には涙が溜まっていた。
「お前はデウスに、核心的な事を何一つ聞いてない。そうだろ?」
「それは……聞きたくないよ」
「必要ないなら、それでもいい。本当に必要ないのなら」
 椅子から立ち上がり、アウロスはマルテの前に立つ。
 そしてその頭を、左手で擦るように撫でた。
 余りも慣れないその動作はぎこちなく、思わず自嘲気味に嘆きたくもなった。
「俺は……正直、わからない。父親が子供をどう思っているか、
 それを子供が知るべきかどうか、何が正しいのかを知る手段がない」
「それは、そうだよ。お兄さん、まだ父親じゃないし」
「両親の記憶もない。親そのものを知らない」
「え……あ」
 マルテは、アウロスが元奴隷だった事をさり気なく明かした時の事を思い出した。
 両親を知らない。
 奴隷。
 この二つの発言から、アウロスの境遇を想起するのは難しくない。
「だから、お前と父親の関係について口を挟むだけの情報は
 実感として持ち合わせちゃいない。あくまで合理性の一点張りだ。
 その分、一意見としては聞き入れやすいと思う」
「……」
 マルテは俯き、だが決して暗くはない表情で、何かを考え出した。
 それがなんなのか、或いは葛藤を抱え込んでしまったのか。
 アウロスにはわからない。
 けれど、わからなくても構わない。
「俺が、お前を人質にする有用性を認めているのは、そういう理由だ」
 マルテは決して、納得はしないだろう。
 心からの納得は出来ないだろう。
 それでも、いつかこの事実がマルテの心を救う日が来る――――
 アウロスはそう信じ、マルテの頭から手を離した。









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