街中に響く倒壊の音を聞きながら、フレア=カーディナリスは
 その音を妙に懐かしく思う自分に困惑を覚え、そして次第に理解した。
 記憶の中にうっすらと残っている、養成所時代に聞いた印象深い音と似ていたからだ。
 とはいえ、その懐かしい音は決して心地良いものではない。
 枢軸殺し――――そのような役割を担った幼き彼女は、常に苦しい試練を
 与えられていた上、懐疑の対象でもあった。

 本当にこの子で良いのか?
 代わりになる、もっと優秀な人材はいないのか?

 それは当然といえば当然の眼差し。
 幹部位階二位の枢機卿を殺すとなれば、例え成功したとしても
 とてつもないリスクが生じるし、犠牲も払わなければならない。
 もし足がついてしまえば、その人物の関係者、更には親族の
 三親等あたりまでが処罰されるのは間違いない。
 そしてその処罰が最高級のものである事も疑いようがない。
 これだけの身分の人物を殺めるという事は、国家をひっくり返す、
 或いは戦争のきっかけを作るのと同意なのだから。
 とはいえ、実際にフレアに教育を施していた人物が、果たして
 そこまで考えていたかというと、間違いなく否。
 フレアは優秀な戦士ではあるが、かといって枢機卿を殺すという
 大役を任せられるほどの突き抜けた腕ではない。
 有用なプロフィールは身寄りがない事、暗殺者としての経歴が皆無な事、
 そして年齢くらいだ。
 また、フレアの育てられた養成所は、質の高い施設とは言えなかった。
 もし上手く言いくるめて高く売れれば上出来――――そんな"商品"を
 作り上げる程度の、ある意味『一攫千金養成所』。
 フレアは、自分が然程期待されていない事は常に自覚していた。
 そして、どうして自分にそのような大役が回ってきたのか、
 そもそも何故枢機卿を殺そうとしているのか、殺さなければならないのか、
 全くわからないままに暗殺技能だけを取得していった。
 たった一度、たった一人を殺める為に。
 けれど――――それすらも実現しないまま、こうして今を生きている。
 フレアに後悔は一切ない。
 何一つとして人生の選択を悔いてはいない。
 ただ、不安はあった。
 かつて標的だった枢機卿が自分の父親となった今。
 暗殺という仕事は請け負わず、彼の手助けをしながら
 自分が一体何の役に立っているのか今一つわからないまま生きている今。
 闇の世界を抜けだし、光も混じる世界へと足を踏み入れ、随分と時間が経った。
 なのに、その過去と未来が乖離すればするほど、二つの世界の
 中間にある時の止まった空間で、右往左往しながら漂い続けているモノがある。
 フレアはこの日、数多の敵意や緊張感が点在する夜の街に身を潜めた事で、
 ようやくそれに気付いた。

 それは――――過去の自分の魂だと。

 かつての自分、枢機卿という見えない敵を仮想し磨き上げてきた、
 命を削るようにして身につけてきた技能を、履歴を、歴史を、魂そのものを、
 往生させないまま今日まで生きてきてしまった。
 愛すべき父がいて、奇妙な仲間がいて、自分が必要とされている。
 疑うべくもなく、過去より現在がいい。
 今が楽しいし、生き甲斐を感じる。
 けれど、明度に差があればあるほど、過去の闇もまた強さを増していく。
 その闇が、自分の中から消えてくれない。
 何かが引っかかっていた。
 でも、一体何が引っかかっているのか、ずっとわからないまま日々を過ごしていた。
 それが今はハッキリとわかる。

 このまま、自分が幼い頃から築き上げてきた技能が一度も活用される事なく、
 自分の中だけで朽ちていく事を、フレアは心の何処かで畏れていた。
 朽ちてしまえばいい。
 そうなる方が好ましい筈だ。
 何度も何度も、何度もそう繰り返し自分を納得させようとした。
 自分を引き取ってくれた父の為に生きたい。
 その恩に報いられる自分でありたい。
 その心に決して偽りはない。
 けれど、標的を仕留める事だけに染められた長き日常は、そう簡単に
 消え失せてはくれない。
 さながら亡霊のように、突然心の何処かに現れては揺さぶりをかけてくる。
 前兆はあった。
 右腕を負傷した時だ。
 もし、完全に右腕が使用不能となるのなら、暗殺技能を発揮する事など不可能。
 過去の亡霊は成仏する。
 だが、フレアの右腕は痛みこそ伴うものの、動かす事ができるようになっている。
 すると――――畏れは次第に消え、別の思いが生まれてきた。
 そしてそれは、時間が経つにつれ明確に形を成していく。
 まだ青いフレアは、自分の心の中に潜んでいるものの正体にずっと気付けずにいた。

 それは、殺意の残り香。

 父親を殺したい筈がない。
 だが、その男が父になる前、まだ顔も見た事がない昔に『殺さなければならない相手』
 という意識を養成所で擦り込まれ、植え付けられてしまったフレアは、
 その殺意の名残が自分で制御できないものだと悟ってしまった。
 
 試してみないか?
 ずっと磨いてきた技術を、自分の人生を摩耗して身につけた技能を試してみないか?
 その為に生きてきたんだろう?
 その為に生まれてきたんだろう?

 呪いのように、誰かがそう繰り返し誘う。
 フレアはその声に覚えがあった。
 養成所で自分を指導した暗殺者の声ではない。
 紛れもなく――――自分自身の声だ。

 養成所で学んだ事は数多くある。
 小型円月輪もその一つ。
 暗器として優れている点は、遠近どちらでも有効な武器という事。
 そして、どういった場所、条件下でも使用できる事。
 例えば火を放たれ、燃えさかる建物の中でも。
 崩落する天井、立ち込める黒煙。
 その最中に聞いた音は、先程フレアが聞いた倒壊の音と酷似していた。
 あらゆる状況を想定し、訓練は繰り返された。
 それを乗り越え手に入れた、結晶のような技能。
 フレアは気付いていた。
 今、気付いたのではない事に気付いていた。
 無意識の内に、その技能が父を――――枢機卿ロベリアを殺める可能性に。
 
 もう前みたいに闘えない

 ロベリアに対して言った言葉を思い出す。
 屋敷の前でサニアと戦い、呆気なく敗れた時の事。
 フレアはロベリアに向かってそう泣き叫んだ。
 
 右腕は治る――――実のところ、フレアはサニアとの戦闘の中で
 そのような感触を得ていた。
 思うようには動かせないが、少しずつ自分の意思と右腕の挙動が
 連動していた為、希望が見えていた。
 しかし、実際に見えていたのは、心の中に浮かぶ亡霊。
 
 もう前みたいに――――父の為に――――闘えない

 真意はそこにあった。
 尤も、自覚していた訳ではなかったが。
 
 フレアはその日から、父の元をどうやって離れるかを考えるようになった。
 サニアに連れて行かれてからは、そのまま彼女の元に、デウスの部下となって
 留まる事も考えた。
 そうした方がいいとさえ思っていた。
 しかし――――

「私は……きっと、愚かなんだろう」

 グオギギ誘拐偽装の際、アウロスに呟いた言葉を反芻する。
 結局、できなかった。
 自分から親元を離れる事ができなかった。
 それからフレアが考えた事。
 それは現在進行形で、頭の中央に浮かんだままになっている。
 このまま、父を殺めてしまう可能性を潜めたまま生きていくのなら――――
 死んだ方がマシだ。
 でも自死は嫌だ。
 教皇を目指している父親の名に傷を付ける。
 なら、栄誉ある死を。
 
『私を人質にしろ』
『私も誘拐事件の関係者だ。そいつの知らないことも知ってる。連れて行って損はない』
『だから、お前に言われるまでもなく手伝う』

 そう思い、自ら危険な方向に飛び込んで行った。
 そして今、最大の好機が訪れようとしていた。
 ここで戦果を上げて死ねば、父ロベリアが信頼するアウロスの口から、
 自身の貢献が語られる。
 加えて――――
「……標的は違うけど、仕方ない」
 過去の亡霊を成仏させる事ができるかもしれない。
 その為には、死を前提とした闘いが必要だ。
 まだ10代半ばのフレアは、それでも人生を達観していた。
 彼女にとって、自分を、自分の全てを受け止めてくれた父は光そのもの。
 自らの手で殺めるなどという事になれば、それこそ死では償えない。
 ロベリアが父となってから、封印していた暗殺技能。
 光を守る為、闇に染まる。
 フレアの指を踊る円月輪が今、その片鱗に触れた。







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