少年は、綴った。
 深い考察なく、洞察もなく、ただ反射的に綴り続けていた。
 魔術の基本はルーリングにあるとする魔術士は多いが、
 実のところ、実戦においては必ずしもそうではない。
 編綴は重要ではあるが、更に重要かつ基礎的な作業がある。
 それは――――足を使う作業だ。
 より正確にいえば、ルーリングの際に使う足。
 戦場ではしばしば、それが大きな意味を担う。
 魔術士というと、その場に立ち止まって、或いは立ち尽くしながら
 魔術の為の準備を行うという印象が根強い。
 ルーリングは単に宙に文字を綴るだけでなく、魔力を正しい分量で
 出力しなければならないという繊細極まりない瞬間的作業が必要。
 また、出力の際にも細心の注意が必要だ。
 魔術を正確に出力する為には、全神経をルーリングに代表される
 魔術の準備に集中させなければならない。
 これは、正しい。
 決して誤りではない。
 けれど少年は、ルーリングに傾ける集中力の割合を決して
 高くはしなかった。
 戦場と、訓練などで行う個人と個人との闘いとの大きな違いは
 何処から狙われるかわからないという点。
 視界に入らない場所からの攻撃を『卑怯』と罵る傭兵がいないように、
 戦場では誰が何処から襲って来るかわからないのが当たり前だ。
 そこで有効性を帯びるのが結界の存在だが、結界は万能ではない。
 あらゆる角度からの攻撃を防ぐ多面型の結界はそれだけで
 魔力の消費量が跳ね上がる上、物理攻撃と魔術の双方を同時に
 防げる性質の結界となると、最早現実的とは言い難いものになる。
 結界はあくまで状況に応じた使い分けが必須であり、
 瞬間的な判断力と魔力量の余裕があってはじめて意味を成す。
 まして、何処に終わりがあるかわからない戦場においては、
 常に一定の魔力量を残しておくのが常識であり必須。
 経験不足、そして魔力量に乏しい少年にとって、結界に頼るという
 選択肢は最初から存在しなかった。
 だからこそ、重要なのは――――足。
 ルーリングの作業中も、出力の瞬間も、出力された魔術が
 敵を直撃した瞬間も、常に足を動かす事で的を絞らせないようにする。
 疾りながら綴る事で、攻防一体の戦闘態勢を築く。
 それが、戦場で魔術士が生き残る為には重要な技術となり得る。
 尤も、後方支援に専念するのであれば、必ずしも必要ではない技術だが――――
 最前線を任された少年にとっては、その限りではない。
 とはいえ、無制限に疾る事はできない。
 しかも少年は身体機能に問題を抱えていた。
 どれだけ実戦で走っても、走り続けても、一向に体力が付かない。
 原因を自覚したのは、全てが終わってからだった。
 身体に浴び続けた魔術によって、少年の内臓は損傷を受けていたのだ。
 だが、そもそも内臓という概念すら、当時の少年は知らなかった。
 当然だ。
 誰も教えてはくれないのだから。
 戦場で『武器』と見なされていた少年に対して自らの知識を教示する者はいない。
 だから少年は自力で魔術の使い方を会得した。
 生き残る為、与えられた役割に没頭した。
 教えを請わず、見様見真似で生き残り方を身につけた。
 死なない方法を。
 自分を殺そうとする相手の対処方法を。
 あの日も、そうだった。
 そして――――今日の日も。


 ルーンが舞う。
 ルーンが踊る。
 月夜の闇と戯れるように、一瞬の煌めきが散っていく。
 アウロスの綴るルーンは、明らかに常軌を逸した速度だった。
 当然だ。
 オートルーリングなのだから。
 九年前にはなかった技術。
 九年後の今も、一人だけしか実用化に成功していない技術。
 その一人がこの技術を使用する"前"に心掛けている事は幾つかある。
 如何にオートルーリングの優位性を活かすか。
 単にルーリング作業の高速化という点だけに着目すれば、
 予備動作の短縮、それに伴う出力までの速度向上を主武器とし、
 相手の予想を超える早さで魔術を放つ事が最も有効な攻撃方法と言える。
 だがそれは、相手が通常の魔術、通常のルーリングを先入観として
 抱いている間のみ有効な要素。
 オートルーリングが標準的なシステムとなれば、無意味――――
 という事は決してないが、有効性は大きく落ちる。
 だが、例えオートルーリングが普及した後でも価値の落ちない要素もある。
 それは、自分自身――――オートルーリングを使う魔術使用者自身が
 オートルーリングを組み込んだ戦闘技術を確立させた場合。
 すなわち、オートルーリングの"自動性"を最大限に活かす闘い方だ。
「誰かいるぞ!」
 ――――声が聞こえる。
 まだ完全な集中状態にない証拠。
 アウロスは更なる深淵へ意識を落とし込むべく、記憶を掘り起こした。
 あの頃はどうやっていたか。
 生き残る事にのみ集中する為に、殆どの情報を削ぎ落としてた。
 敵の声もその一つ。
 本来ならば、敵の声、姿、雰囲気は戦闘において重要な所見。
 けれど、それすらも削ぎ落とさなければ、少年の――――アウロスの
 体力と身体能力では戦場でもたない。
 最小限の動きで敵を無力化する。
 そしてそれを連続で行う。
 必要な情報は、敵の位置と初動、現在地の環境、敵攻撃の予測、
 自身の魔術の到達時間および敵のその到達時における位置取り。
 これだけだ。
 これだけの為に、全神経を集中させる。
 そこまで簡略化した戦闘でなければ、アウロスは生き残れない。
 この場面においても同様と判断した。
「――――!」
 外部の声が声ではなく音へと変換されていく。
 当時の――――使い捨ての武器として先陣を切っていた頃の
 感覚が、次第に蘇ってくる。
 敵の位置。
 初動から、攻撃手段が魔術なのがわかる。
 現在地の環境は、建物が入り組んだ市街地。
 攻撃は直線的なものが予想される。
 敵の初動。
 ルーリングの為の予備動作。
 三〜四秒後には攻撃が来る。
 左右回避の必要、なし。
 直進。
 同時にルーン――――自動編綴。
 出力。
「!――――」
 目標、沈黙。
 今の攻撃により、自分の現在地が敵11名に漏洩。
 移動パターンを予測。
 次の目標、最短距離にいる敵。
 あとはこの繰り返し。
 綿密に練られた戦略とは程遠い、余りにも簡素な戦闘。
 多対一、多対少の基本。
 考えない。
 それが戦場において最も有効な戦闘スタイル。
 考える事を生業とする研究者、つまり今のアウロスにとっては
 鬼門とさえ言える闘い方だ。
 だが――――それは少年の原点だった。
 自分が何をしているのか、その一点だけを見つめる瞬間。
 目的、目標へ向かって突き進む感覚を実感できる唯一の時。
 没頭する事に躊躇など必要ない。
 まして恐怖など感じるべくもない。
 思考は極限まで簡易化され、そして流れていく。
 敵位置、確認。
 攻撃手段、予測。
 回避、不要。
 攻撃準備完了。
 敵、沈黙。
 繰り返す。
 何度でも繰り返す。
 終わりは必要ない。
 この感覚こそが少年自身の生き様なのだから。
 戦闘と研究は何処か似ている。
 全く違うようで、似ている。
 デウスは臨戦魔術士と研究者を真逆の存在と捉えているが、
 実際のところはこんなにも近しい。
 アウロスはエルアグアの閑静な市街地で、その体現者となっていた。
「――――」
 音が聞こえる。
 何度目の音なのかはもうわからないし必要ない。
 敵位置、確認。
 攻撃手段――――

「……!」

 ――――それは一瞬だった。
 必然の一瞬、と言えるのかもしれない。
 アウロスの集中は、予想を遥かに上回る速度で編綴された
 風の刃によって剥ぎ取られた。
 想定外の出来事。
 単にそれだけなら問題はなかった。
 だが、眼前に現れた存在は、想定外というだけでは
 到底片付けられないものだった。
「オートルーリング……やはり厄介極まりない技術だ」
 市街地の民家と思しき建築物の屋根に乗り、くぐもった声でそう告げ
 こちらを見下ろしている人物は――――仮面を被っていた。
 そして、その薄気味悪い笑顔を模した仮面に、アウロスは見覚えがあった。
「テュルフィングの仮面……」
 バランサーと呼ばれる存在のコードネーム。
 かつてウェンブリーで何度も対峙した存在がマラカナンの地にも
 いる事、それ自体は不自然ではない。
 だが、何故今アウロスの前に現れたのか。
 そして何より。
 どうして――――この地にバランサーが必要なのか。
 見上げた夜空の下、仮面が嫌らしく嗤っていた。
 




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