エルアグア教会にとって、先の事件――――グオギギ誘拐事件は大きな痛手となった。
 教皇候補三名による会談の会場となったことは、非常に大きな栄誉。
 会談が成功した暁には、その名を大きく国内に知らしめることとなる。
 誰かが次期教皇となる実力者たちが集う、極めて安全で位の高い教会だと。
 だが現実は厳しかった。
 最高齢の魔術士を誘拐されるという失態は、エルアグア教会自体の安全性はもちろん、
 水没都市エルアグアの名に泥を塗りかねないほどの大問題。
 事件後、エルアグア教会の神官クリオネ・ミラーは各位関係者に頭を下げて回ることとなった。
 当然、評判は大きく下落。
 中にはクリオネに対し、露骨に嘲笑を浮かべたり侮蔑の言葉を投げかけたりする者もいた。
 屈辱。
 屈辱屈辱屈辱。
 クリオネの頭の中には、日に日に憎悪が色濃くなっていった。
 その対象は――――
「おのれデウス……あの下衆めが……」
 己を裏切った巨体の魔術士。
 このエルアグア教会からデウスが去った時点で、クリオネは誘拐事件の黒幕が誰であるかを悟った。
 誘拐といっても、何処かに脅迫状が届いている訳ではない。
 しかし、グオギギが誰かに連れて行かれたのは、護衛の面々が目撃している。
 つまり、身代金が目的ではない。
 グオギギの身分を考慮すれば、政治的犯行の可能性が高い。
 だが、護衛が多くリスクの高い三者会談の席を敢えて狙い、尚且つ立候補者ではなくグオギギを
 誘拐したとなると、政治的犯行というよりエルアグア教会に対して恥をかかせようという意図が
 強く見える。
 そんなことをして得する勢力として最も考えられるのは、エルアグア教会が推薦していた立候補者、
 つまりデウスと敵対する立候補者たちだ。
 だが、仮にその中のルンストロムが裏で糸を引いていた場合、自らが用意した護衛が機能しなかった
 という汚点が残ってしまう。
 また、ロベリアにしても、彼が現職の枢機卿であることを考えれば、魔術士の重鎮が
 誘拐されるという事件が起きた時点で彼の責任も免れない。
 誘拐事件を起こすことで生じるリスクが大きすぎる。
 となると、考えられる黒幕は一人しかいない。
 元々、クリオネの計画ではデウスを切り捨てる予定だった。
 だがそれは、教皇選挙が佳境に差しかかった段階でだ。
 確実な勝機が生まれたのち、デウスを亡き者とし、『急遽』彼の志を継ぐべく自身が
 新たな立候補者として名乗り挙げるはずだった。
 デウスの思想は、クリオネたちエルアグア教会とは決して相容れない。
 デウスは、王になろうとしていた。
 自分の血族で国を支配しようとしていた。
 つまり、クリオネはどう足掻いても摂政までが精一杯。
 しかもデウスには、既に子供がいる。
 それでも、ここまでならクリオネは納得していた。
 この時点では、デウスが王となることに異論はなかった。
 だが、問題が生じた。
 デウスは、我が子に自ら帝王学を施すつもりでいると明かしてきた。
 それは、クリオネの計画とは相容れない方針。
 何故なら、彼女の野心は国の実権を握らなければ果たせないものだからだ。
 クリオネ=ミラーには強い冀望がある。
 それは――――グランド=ノヴァおよびエルアグア教会の復権。
 かつて、エルアグアはデ・ラ・ペーニャの第一聖地マラカナンにおいて屈指の
 格を持つ都市だった。
 その格を支えていたのが、首座大司教グランド=ノヴァの存在だった。
 臨戦魔術士としての類い希な評価、更には統治力の高さもあり、彼はエルアグアの英雄だった。
 水没都市と化してしまったエルアグアを、水と共に生きる都市として一から作り直し、
 国内有数の観光都市として生まれ変わらせたのは、間違いなくグランドの功績だった。
 エルアグアの誰もが彼を尊敬し、憧憬の念を抱いた。
 幼き日のクリオネも、例外ではなかった。
 年老いてもなお、その人気に陰りは見られなかった。
 しかし、とある日を境に彼の姿は表舞台から消えた。
 死か、或いは体力、頭の衰えか。
 様々な憶測を呼んだものの、経年と共に英雄の存在は市民の中で色を薄めていった。
 それから幾ばくかの月日が流れ――――クリオネは弟と共にエルアグア教会へと入った。
 現在の地位を得るのは容易ではなかったが、若くして好機を得、そして成し遂げた。
 高官となれば、教会の最高権力者に謁見することができる。
 クリオネは渇望していたグランド=ノヴァとの面会を果たした。
 
 そこにあったのは――――絶望と希望。
 驚く程、この二つが混在していた。
 
 クリオネは、決意した。
 というより、既に決意していた。
 エルアグア教会にその身を委ねると決めた日から。
 彼を再びエルアグアの英雄として担ぎ上げ、そしてこのエルアグア教会を、更には
 エルアグアという都市を復興させ、幼少時の光景を蘇らせる。
 心の中に色濃く残っている、活気溢れる街並みを現代に転生させる。
 その為に必要なのは、実権。
 現在のマラカナンの首都である【ベルミーロ】から、ここエルアグアへ
 聖地の中心を移す都市計画を実行できるだけの権力だ。
 グランド=ノヴァの復活。
 エルアグアの復活。
 これを同時に成し得た時、クリオネは昔見た景色をもう一度目にすることができる。
 その為なら、どんなに手を汚そうと構いはしない――――
「……何度も、そう聞かされましたね。姉者」
 いつの間にか、司祭室の入り口に立っていたのは、クリオネの実弟ゲオルギウス=ミラー。
 臨戦魔術士としての実力は、間違いなくエルアグア一。
 クリオネがここまで順調に出世できたのは、彼の存在あってこそだ。
「姉者? そのような呼び方を許可した覚えはありません」
 二人はエルアグア教会に入ってから、姉弟であることを止めた。
 教会内における政治を円滑にこなす上で、肉親という事実は邪魔になると判断したからだ。
「今日が最後です、姉者。貴女をこう呼ぶのは」
「……いいでしょう。何か話があるのですね」
「その通りでございます。姉者にどうしても一度、お聞きしたかったのです」
 ゲオルギウスは、デウスとは正反対の細くしなやかな身体で恭しく頭を垂れる。
 そして、20代とは思えないほど精悍な顔つきで、クリオネを正面から見据えた。
「姉者は何故、グランド=ノヴァ様の復活にそこまでご執着なのでしょう」
 それは、前提そのものへの疑問。
 余りにも根本的過ぎて、問う機会すらなかった。
 クリオネは『愚問』と口にしようとしつつ、一旦言葉を止め、ゲオルギウスの
 言葉の続きに耳を傾けた。
「ノヴァ様は、自分達とは余りに世代がかけ離れています。姉者が生まれた時には、
 既にノヴァ様はかなりの御高齢だったはず。稀代の英雄とはいえ、そこまでして……」
「口を慎みなさい、ゲオルギウス」
 強い口調で、クリオネはゲオルギウスを黙らせた。
「ノヴァ様の復活は、エルアグア市民の悲願。彼の存在なくして、エルアグアの
 そしてデ・ラ・ペーニャの真の意味での再興はあり得ません。わからないのですか?
 国にはシンボルが必要なのです。時に太陽となり大地を育み、時に月となり
 夜道を照らすシンボルがなければ、下民は歩くことすらままならないのです」
 クリオネの理想は、選民思考と類似していた。
 選ばれた偉大な人間が、その他の人間を先導する世界。
 魔術士の中にも細かい序列が必要。
 中には無能な魔術士も沢山いる。
 彼らを導くのは、偉大な魔術士の仕事であり責務。
 その先頭を行くのは、彼女の幼き日の英雄、グランド=ノヴァしかいない。
 何度も親から聞かされた英雄譚の主人公、グランド=ノヴァしか――――
「もう、止めませんか」
 そんなクリオネの熱量を、ゲオルギウスは一瞬にして冷却した。
 言葉による氷の刃は、クリオネの喉元を貫くかのように鋭く突き出され、
 そして霧散する。
 これまで一度も見たことのない弟の顔に、クリオネは狼狽を禁じ得なかった。
「ゲオルギウス……? 貴方、一体……」
「姉者。貴女のその懐古主義には昔から辟易していたのですよ。いや、
 実際には呆れつつも信じていたのです。大義名分を盾にしつつも、
 本当は心の中に別の野望を秘めていると」
「……何が言いたいのですか」
「惚けないで頂きたい。グランド=ノヴァ様の秘密についてですよ。姉者」
 ゲオルギウスの顔は、実姉を見る顔ではなかった。
 まるで――――怨敵を睨むような目をしていた。
「グオギギ=イェデンのような例外中の例外を除き、人間が生きられる
 期間はせいぜい90年。十分な栄養を得られない下民どもを除外したとしても、
 70……80年生きられる人間がどれほどいるか。だが、そんな自然の摂理をも
 超越することを可能とする魔術が、ここには存在する」
「お黙りなさい」
「そして、ノヴァ様はそれを実際に試した。当然、貴女もそれを知っている。
 かの英雄が自分の身体に何をしたのか。彼が何を願っていたのか」
「お黙りなさい!」
 声を荒げるも、クリオネの圧は今のゲオルギウスには全く届かない。
 姉弟でない昨日までなら、上司としての言葉に力が在った。
 今は――――無力だ。
「ゲオルギウス……貴方は自分が何を言っているのか、わかっているのですか?」
「勿論ですとも、姉者。自分は至って冷静です。姉者こそ、どうなされたのです?
 実の弟を目の前に、震えていますよ。奇妙ではないですか」
 その指摘の通り――――クリオネは震えていた。
 本能的に。
「残念ながら、貴女の野望は純粋だった。いや……稚拙だったと言うべきでしょう。
 ノヴァ様が行った偉大なる『実験』を、貴女は自分の都合のいいように解釈した。
 程度の低い、己の理想に無理矢理当てはめたのです」
「それ以上、この私を愚弄する言葉は許しません!」
「何度でも言いましょう。姉者、貴女は稚拙だ。折角、人類の希望、見果てぬ夢が
 そこにあるというのに、貴女は見て見ぬフリをした。自分には理解できない。
 偉大な英雄をも虜とした、最高にして究極の可能性を秘めた融解魔術を……」
「ゲオルギウスッ!」
「……永遠の命を得る可能性を、たかが幼児期に抱いた憧れで塗り潰すなど。
 貴女には付き合いきれませんよ。姉者」
「ゲオ……!」
 鮮血が舞う。
 二人の距離は決して離れてはいなかった。
 姉弟だからこそ、甘受できる距離だった。
 今この時、二人は確かに姉弟だったのだから。
 それにも拘わらず――――ゲオルギウスは何の躊躇もなくその距離を潰し、
 ローブの袖に隠していた短剣を払った。
「貴女のやり方では、何も成し得ない」
「……」
「だから自分は、成し得る方につくのですよ。それが永遠の命を得るには最良の道ですからね」
 クリオネは疑問に思っていた。
 デウスが黒幕だとして、何故自分を出し抜けたのか。
 グオギギ誘拐の為には、三者会談のかなり前からグオギギが来ることを
 知っておく必要がある。
 更には、三者会談を行う部屋、それを元にした護衛の配置、エルアグア教会の
 魔術士たちの配置など、細かく把握しておき、その上でシミュレートを
 重ねなければならない。
 更にいえば、デウスとその部下がエルアグアの刻壁の前にいたことも
 明らかにおかしかった。
 融解魔術の存在を知る事はできたのかもしれない。
 だが、融解魔術の存在を示唆する論文が出回っていたとしても、
 エルアグアの刻壁の場所を特定するのは、誰かが教えない限り無理だ。
 ここエルアグア教会にそれがあると、誰かが教えない限り。
「何より、最強の魔術士が王になる。これほど正しいことはない」
 ゲオルギウスは、確かにクリオネの弟だった。
 歪んだ笑みは実に、姉のそれに似ていた。
「……」
 しかし、床に横たわるクリオネがその笑みを見せることは、もう――――ない。








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