扉の向こうに足を踏み入れた刹那――――薄暗闇が暗闇へと姿を変える。
 それでも、背後の廊下の光が僅かに差し込み、漆黒まではいかない。
 僅かに見える輪郭は、部屋の壁と本棚。
 そして、何かわからない、床と密接した巨大な『何か』。
 机にしては脚がない。
 棚にしては、幅が広すぎるし配置が奇妙。
 首座大司教の部屋としては、少々歪だ。
「んーっ! んーっ」
 不意に、うめき声があがる。
 アウロスのものではない。
 その正体不明の物体の傍で、蠢く影の声だった。
「……マルテ、か?」
 声で判断した訳ではない。
 言葉を有しない声は、聞き慣れた声であっても判別し難い。
 言葉を発する事が出来ないという事は、口を塞がれているという事。
 そんな状況が成立するのは、囚われているマルテしかいない――――
 それだけの事だった。
「ん! ん!」
 肯定と思しき短いうめき声に、アウロスは思わず息を吐く。
 同時に、当然疑問も湧く。
 ここにマルテがいるのなら、先程の地響きを帯びた音は合図ではなかったという事になる。
 四方教会の面々が、合図の前に攻撃を仕掛ける事はない。
 よって、何者かが問答無用で攻撃を仕掛けてきた――――と判断せざるを得ない。
 それは、教会内においては考え難い事だった。
 それをすれば、教会が傷付くからだ。
 魔術士にとって、教会という建築物は特別な空間。
 進んで破壊する事はあり得ない。
 それを加味した上で、四方教会の面々はこのマルテ奪還計画において、
 割とアバウトな合図を取り決めた。
 それだけに、あの音はアウロスにとって不可解なものとなった――――
「んーっ!」
 が、今はそれどころではない。
 罠の可能性を考慮し、警戒しながら声のする方へ近付く。
「んーっ! んんんーっ! んんんんんんんんんーーーーーっ!」
 助けが来て喜んでいる――――というよりは、怯えによる叫び。
 はっきりと顔は見えないものの、流石にここまで大声をあげれば、
 マルテの声だと気付く。
 怯えているのは、人影が近付いている事はわかっていても、
 それが誰なのかはわかっていない証拠。
 アウロスはそんなマルテに対し、一切遠慮する事なく、無造作に近付き――――
「んんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんぶはっ!?」
 口を束縛していた布の結び目を解いた。
「大声を出すな。もう遅い気もするけど」
「え、あ、ああー……アウロスのお兄さんか……よかった〜……」
 ヘナヘナと、力なくマルテは床に倒れ込む。
 アウロスはそれをグイッと引き起こした。
「ちょっ、少しくらい安心したっていいでしょ!?」
「時間がない。お前は廊下を見張っててくれ。誰か来たら即座に中に戻って知らせる。
 わかったら実行」
「え、ええええ……囚われの身で助けられて5秒で見張り役……?」
 マルテの隻腕を束縛していたロープを半ば強引に解き、不満の残るその顔を
 押しやるようにして入り口に立たせ、アウロスは廊下へと出る。
 そして、傍にあるランタンの留め具を魔術で折り、それをランプ代わりにして
 室内で物色を始めた。
「助けに来て貰っておいてなんだけど……やってる事、完全に小悪党だよね」
「いいから、ちゃんと見張ってろ」
 これが民家なら倫理的にも大問題だが、アウロスはこれまでアランテス教会に
 何度も殺されかけている。
 無断侵入しようが器物破損しようが、罪悪感は全くなかった。
 当然、窃盗であってもそれは変わらない。
 そもそも、偽物だろうと本物だろうと、オートルーリングの論文は自分が生み出した物。
 アウロス=エルガーデンの名を歴史に残す為の重要な材料。
 それを取り返す事が小悪党ならば、小悪党になるだけの覚悟はある。
「……で、一体何してんのさ。普通、人質助けたら直ぐ逃げない?」
「一応、第一目的はお前の救出だったけど、こっちも重要なんだ」
「だから何やって……あ、もしかして論文?」
 その言葉に、本棚を漁っていたアウロスの手がピタッと止まる。
「教会の人間が、論文について何か話してたのか?」
「ま、まあそうだけど……でもホラ、こういうお偉いさんがいるような所の魔術士が
 論文の話するのって、別に珍しくないんじゃない?」
「先に自己弁護が出るって事は、内容は殆ど覚えてないのか」
「う……お兄さん、鋭すぎ」
 実際、無理のない話ではある。
 マルテにしてみれば、突然誘拐され、囚われの身となった中で、不安や焦燥、
 或いは最悪のケース――――つまり死すらも想定している数日間だった事は
 想像に難くない。
 そんな状況で、他人の会話が頭に入って来る筈もない。
「それでも、ちょっとでいい。何を言ってたか思い出せないか?」
「んー……論文、って言葉が出たのは覚えてるけど……あとは……んー……
 あ、確か『あれが使い物になれば、大きく前進する』とか言ってた」
「誰が?」
「知らない。そもそも僕、今日の夕方まで別室で幽閉されてたし。さっきの会話は、
 ここに連れて来られる途中に聞いたんだよね」
 つまり――――実行犯。
 子供の誘拐をする人間が、身分の高い魔術士という可能性は低い。
 そして、身分の低い魔術士が、複雑な経路を辿っているアウロスの論文について
 知っている可能性は、更に低い。
 それでも、ゼロではない。
 その根拠は、マルテの出生の秘密。
 教会最高位、教皇の孫という、明らかに『普通の』子供ではない立場上、
 誘拐という体でも、実際には『送迎』だった可能性がある。
 ならば、身分の高い魔術士が実行犯という可能性は残る。
 尤も、この乱雑な扱いを見る限りは、そうとは言い切れないが――――
「ま、幽閉って言っても、広ーい部屋で一日6食くらい出して貰ってて、
 四方教会よりずっと快適だったんだけどね」
「……よかった」
「へ? いきなりなんで?」
 アウロスの突然の安堵に、マルテは混乱した。
 一方のアウロスは、複数の知りたい事実の判明に、改めて頭の整理に入る。
 マルテが特別待遇だった事は間違いなく、教会の孫として扱われているのは確定的。
 それに伴い、先程のゼロではない可能性が生き残る。
 となれば、話に出た論文はアウロスの物である可能性もやはり残る。
 もしそうなら、この教会が偽論文の終着点となっている事になる。
 ネックなのは――――
「お前、どうしてこの部屋にいたんだ? ここは首座大司教の部屋だろ」
「そうなの? よくわかんないよ。知らない場所だし」
 マルテは、惚けた様子もなく、いつもの少し疲れたような口調で告げる。
 実際、マルテは自分の身分を知らない。
 デウスの息子である事を知らないのは確実なのだから、当然だ。
 ならこのエルアグア教会と縁がないのも自明の理という事になる。
 そうなってくると――――奇妙な点が一つ。
「ねえ、やっぱり僕、弱いから狙われたのかな。四方教会を潰す為の人質に」
 トーンを落としたマルテの言葉は、事実とは異なる可能性が高い。
 ただし、アウロスの疑問と重なる言葉でもある。
 何故、マルテが誘拐されたのか。
 想像可能な理由は無数にある。
 四方教会に教皇の息子と孫がいるという状況は、アランテス教会にとっては
 危険極まりない事は間違いないのだから。
 単純に四方教会から切り離したいという理由でも、十分成立する。
 加えて、息子を人質にすれば、父への切り札となる。
 また、枢機卿ロベリアの話が事実なら、現在アランテス教会は後継者問題で揺れている。
 教皇の直系の血筋であるマルテは、世襲君主制ではない教会であっても、
 次期教皇として祭り上げるには十分な存在。
 人質としてのメリットは測り知れない。
 だからこそ――――奇妙。
 何故、ここに来てまだその事がマルテ本人に知らされていないのか。
 どういった利用の仕方をするにしても、マルテを誘拐した理由が、マルテの血に
 ある事はどう考えても確実な中、それを本人に知らせない理由はない。
 アウロスは本棚に視線を戻し、この疑問をどう消化かすべきか考えた。
 そして、一つの結論を導き出したその時――――

「――――」

 再び、無機質な声。
 それは、人間の不快さを凝縮したような、ある種の攻撃にも似た声だった。
「……な、何今の!? お兄さん、ヘンな声出さないでよ!」
「俺だと断定できるその単純さが少し羨ましい」
「ち、違うの……? だったら、誰が……」

「――――」

 再度、同じ声が室内に響く。
 先程の経緯がある以上、声の主が室内にいるとは限らない。
 しかしアウロスは、一つの確信を得ていた。
 先程と、声の大きさが異なる。
 そして――――直接的な魔術によるものではない。
 魔術なら、『魔力の霧散現象』が微少でも起こる。
 つまり、魔術士なら魔術が使われた事がわかる。
 不意打ちによる一度きりの発生ではわからなくても、二度目、しかも複数となれば、
 それを感知するだけの準備はできていた。
 少なくとも、魔術で声を発生させている訳ではない。
 当然、怪奇現象でもない。
 なら、原理はわからなくとも、意図はわかる。
 声である事。
 複数回の発生。
 声は――――会話をしようとしている。
 そして、このグランド・ノヴァの部屋の中で、二度も連続して声が発生したという事は。
「……ここにいる。そうだな?」

「――――」

 それが返事なのかどうかはわからないが、確かにアウロスの声に反応を示した。
「え……な……何がいるのさ。幽霊? まさか幽霊?」
「違う。恐らく……」
 ここが誰の部屋なのか。
 ここに居るとすれば、何者なのか。
「首座大司教、グランド・ノヴァ」
 確度を帯びたアウロスの言葉は、室内にある『何か』へと向けられた。










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