時は、忙しなく進み行く。
 悪夢のような、或いは戦場のような、常軌を逸した空間で執り行われた研究発表会から、一週間と言う時間が刻まれた。
 あの場所で生まれた様々な産物は、魔術士界において少なからず『革命』や『震撼』と言った言葉を投げかけるものであり、実際にその発表者であるミスト教授の下には、引っ切りなしに関係者各位が足を運んでいると言う。
 一方――――
「くぁ……」
 料理店【ボン・キュ・ボン】の二階で目覚めたアウロスは、普段と何ら変わりない時間に、何ら変わる事のない顔で、窓から覗く青空をぼんやりと視認していた。
 本来なら、既に返上していた筈の名は、依然として少年の下にある。
 だがそれは、同時に『まだ目的の途中』であると言う証でもあった。
 これまで、幾度となく経験した挫折と頓挫。
 当然、今回の件をそんな過去と同列に語る事は出来はしない。
 アウロスは、根本的な武器を失ったのだから。
 実際問題、『アウロス=エルガーデン』と言う名を歴史に残す事は、出来る。
 これから、別件で偉業を成せば良い。
 だが、それでは本当に名が残るだけ。
 あの少年――――牢獄で自分を励まし続けてくれたあの少年の考え出した【魔術編綴時におけるルーリング作業の高速化】をアウロス=エルガーデンと言う名前の研究者が生み出した、と言う事実認識を後世の人々に持って貰わないと、意味はない。
 拘り等ではなく、純然たる必須項目。
 だからこそ、本当は石に噛り付いてでも、あの場でミストを説き伏せる必要があったのだが――――アウロスには、それが出来なかった。
 ミストがそれをさせなかった、と言うのも、ある。
 だが、一番の原因は、アウロスの中の変化にあった。
 目標が全てだった時代とは違い、今は守りたいもの、守らなくてはならないものがある。
 協力者として、論文にも名を連ねているウォルトの立場にしても、そう。
 そして――――
「アウロス君、もう起きてる?」
 扉越しに声をかけてくる、クレールにしても、そう。
 大学に残る人間に、『あの憎っくきアウロス=エルガーデンの関係者』と言うステータスを与えてはいけない。
 そう言う気持ちが、アウロスを捨て身にさせなかった事が、最大の『敗因』だった。
 だが、あの集大成とも言える場所であっても、アウロスは局地戦だと解釈していた。
 負けは負け。
 目論見通りにはいかなかった。
 だが、まだ可能性は残っている。
 ミストがクレールやウォルトに報復に出る事もなく、且つファーストオーサーに訂正させると言う、ある種の神がかり的な結末を迎える可能性は、必ずある――――
「アーウーロースー君! まだ寝てるの?」
「あ、いや。起きてる」
 心の中の、決して狭くはない領域から聞こえて来る弱音を説き伏せていたアウロスは、そこでようやく現実へと帰還した。
 眠い目を擦りつつ、扉を開ける。
 そこには、少し呆れ気味に瞼を落としたクレールの姿があった。
 その格好は、普段とは少し異なっている。
 大学へ通う時のローブ姿でもなければ、店に出る際のちょっと小洒落た服装でもない。
 寧ろ、もっと着飾っている。
「おはよ。気分はどう?」
「んー……まあ、悪くはないよ。ここのベッドは寝心地良い」
「そ。だったら、早く準備してね。今日の主役は貴方なんだから。一階で待ってるから」 
 何処か他人事のように素っ気なく、その実しっかり気を配っている物言いは、この建物を訪れた日から変わっていない――――と、そんな事を思いながら、アウロスはクレールの背中をぼやけた視界で追い、少し目尻を下げた。


 この日はアウロスにとって、少し特別な一日だったりする。
【ウェンブリー魔術学院大学】に通う事になって、長らく拠点として来た【ボン・キュ・ボン】で過ごす最後の日だ。
 研究漬けで、大学に寝泊りする事も多く、拠点と言っても、滞在時間は決して長くはなかった居候先。
 しかし、それでも、アウロスにとっては数少ない、安らげる場所だった。
 それを離れる事に少なからず感傷を覚えた事にもやや驚きを覚えつつ、アウロスは縫い目の粗い衣服に身を包み、住み慣れた街をゆっくりと歩く。
 ただ、住み慣れているにも拘らず、こうして散歩の要領で闊歩するのは、数える程の経験しかない。
 大学までの道は何度も何度も往復しているが、そこから離れた区域にどんな店が並んでいるのか、どう言った建物にどんな住人が居るのか、等という情報は、一切取り込んでいなかった。
 それくらい、アウロスには余裕がなかった。
「にしても、わざわざ自分の送別会の買い出しを手伝うなんて、相変わらず変わってるよね、貴方」
 アウロスと並行するクレールが、呆れ気味に微笑む。
 その言葉通り、この日の夜、【ボン・キュ・ボン】ではアウロスの送別会が行われる予定だ。
 礼だけ言って直ぐに去り行く予定だったアウロスは、そのクレールの提案に思わず驚いたものだった。
「そっちこそ、そんなに気を遣ってくれなくても良かったんだけどな」
「送別会の事? 良いじゃない、これくらい。私やお姉ちゃんは貴方に助けられて今があるんだから」
 その言葉は、紛れもなく本心からのものだった。
 3分の1の確率で、とんでもない味になってしまう料理店【ボン・キュ・ボン】。
 話の種としては十分な価値があっても、実際にそこへ行って食事をしようと言う勇気ある人間は、決して多くはない。
 幾ら3分の2の確率で美食を堪能できるとしても、普通は安全を優先させる。
 だが、それが3分の3になった事で、状況は当然、一変した。
 安全さえ確保されれば、そこは単なる『有名料理店』となる。
 有名料理店に人が集まらない道理はない。
 まだ警戒されている節はあるものの、徐々に『あの店、もう大丈夫なんだって』と言う噂が広まり、今ではクレールの手伝いでは賄えない程、多くの客が毎日押しかけている。
 その為、従業員募集の張り紙まで必要となったくらいだ。
「……無理して出て行かなくても、別に良いのに。ちょっと手伝ってくれれば、いつまででも居てくれて良いって、お姉ちゃんも言ってるし」
「そう言う訳にもいかないさ」
 アウロスはそんなレドワンス姉妹の申し出を、言葉少なに断っていた。
 この少年は、どのような行動に関しても、必ず動機を添える。
 それを知っているだけに、クレールも当人の意思を尊重し、代わりに送別会を……という運びとなった。
 以前在籍していた【ヴィオロー魔術大学】を離れる際には、マスターのチャオ=フルーライドが涙ながらに見送りをしてくれたが、それとは全く異なる、比較のしようがない感覚が胸に去来し、それを払拭する意味もあって、アウロスは荷物持ちを志願していたのだが――――
「重い……キツい……」
「結構な量買い込んだもの。にしても貴方って本当、体力ないのね」
 苦笑するクレールの隣で、アウロスは自身の送別会用の買い物に押し潰されそうになっていた。
「でも、こうやって二人で街歩くのって、もしかして初めてじゃない? 不思議よね、一年以上も同じ屋根の下で暮らしてて……」
「潰れる……身体も人生も潰れる……」
「……不思議じゃない、か」
 目の前の物事に必死になっているアウロスを横目で眺め、クレールは静かに嘆息した。
 そんな帰り道の途中。
「ありがとう、って言わせて」
 ポツリと、クレールが呟く。
 額に汗を滲ませたアウロスは、眉を潜めて次の言葉を待った。
「貴方がここを家代わりにする事が決まった時……正直言うけど、私は反対したのよ」
「容易に想像出来るさ。何しろ、会って直ぐに『貴方とは仲良くしたくないの』だからな」
「やっぱり、怒った?」
 少し困った顔で聞いてくるクレールに、アウロスは首を振る。
「いや。実は、あの一言に救われたところもあるんだ」
 ――――左右に。
「皮肉じゃない。本当の事だ。こう見えて、あの頃から結構、切羽詰まってた。以前いた大学を辞めさせられて、なんとか首の皮一枚繋がって……ここでダメなら打つ手なしって状態で、周囲に気を配る余裕なんてなかった」
「却って気が楽になった?」
「ああ。只でさえ、研究室は変人ばかりだったからな。出来れば、宿では一人でゆっくりしたかったし、気を使いたくなかった。何より、同居人が面倒臭い性格じゃないってわかったのは、大きかった」
 そんなアウロスの告白に、クレールが少しだけ俯く。
 いつの間にか、足は止まっていた。
「……自己評価だと私、相当面倒臭い性格だと思うんだけどね」
「そう言う事を言う人の多くは、それを否定して欲しくて言ってるだけだ」
「わ、図星」
 破顔。
 穏やかな風が、何かを運ぶように過ぎ去って行った。
「ま、そんな面倒な私を、貴方は助けてくれたでしょ? そして、お姉ちゃんも。私達姉妹が今日、何の不安もなく朝を迎えて、何の不満もなく寝床につけるのは、貴方がここに来てくれたから。本当に、ありがとう」
「……」
 今度はアウロスが視線を逸らす。
「お礼言われるの、苦手みたいね」
「慣れてないんで」
 それは、本音だった。
 そんな珍しい発言に苦笑した後、クレールは真顔を作る。
「私は……諦めようと思う」
 それが何を指すのか――――ミストの事なのか、研究者としての道なのか。
 アウロスは聞く事が出来なかった。
「貴方は、諦めないの? まだ、研究を続ける気なのかしら?」
 その代わりに現れた返答の機会を、罪滅ぼしのような感覚で即答する。
「俺はまだ、何も諦めてなんかいない」
 ミストへの抵抗は、不発に終わった。
 だが、アウロスの中に後悔は微塵もない。
 幾度の敗戦を経て、目標へと辿り着く事が出来るのなら、その敗戦は要するに労力の一部。
 努力とか、工夫とか、そう言うものと同じ種類だ。
 アウロスは、そう考えるようにしていた。
「凄いと思う。私が見てきた人の中で一番、貴方が」
 それは、ミスト教授も含めて――――と聞くほど、アウロスは野暮ではなかった。
「俺は何も凄くはない。強さも、知識も、着想も、応用力も判断力も、自分より上手だと思う人間と出会って来たから」
 その度に思い知ってきた。
 自分は特別ではない事。
 だからこそ、自分に出来る事だけに集中できた。
「私にもある? 貴方より上の何かが」
 不意に、クレールがそんな事を聞いてくる。
 アウロスは暫し考え――――
「献身性、誠実さ、人としての魅力」
 そこで止めた。
「あとは、言っても喜ばれないから割愛」
「気を使ってくれてありがと」
「そう言う所も」
 顔を見合わせ、互いに苦笑。
 アウロスにとって、クレールという存在は、いわばそう言う女性だった。
「あっ、クレール姉ちゃんだー!」
「ホントだ! クレールお姉ちゃーん」
 一段落した事を見計らっていたのか、それとも偶然か。
【ボン・キュ・ボン】の近所に住む子供達が、パタパタと音を立てて近付いてくる。
 そして、無邪気にクレールの足下に絡み付いてきた。
「……随分と懐かれてるんだな」
「最近、結構一緒に遊んだりしてるから。論文も一区切りついて、暇なのよね」
 無論、暇だからと言って、近所の子供達と遊んであげる必要などない。
 単純に――――
「それに……子供、嫌いじゃないの」
 そう言う事だった。
 心の底から、今と言う時間を愛している。
 クレールの顔には、そう言う感情が煌びやかに輝いていた。
「ねえ、お姉ちゃん。この人、誰?」
 不意に、子供の中の一人が、アウロスを指さして首を傾げる。
 クレールは瞼を半分落とし、いたずらっ子のような表情で笑った。
「この人はね、お姉ちゃんの恋人さん」
「えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?」
 子供達の視線が、一斉に荷物持ちへと向けられる。
 当然、疑惑と好奇心の眼差し。
 それはまるで――――研究者のような目だった。
「……もしかして、育てる気じゃないだろな」
「え? 愛情を?」
「う、うわーーーーっ、愛情って何かわかんないけど、恋人さんっぽい会話だーーーーーっ!」
 沸く。
 そして、その後は質問攻め。
 例え小さな子供であっても、他人の色恋沙汰と言うものは、この上ない御馳走になる。
「いや、だから違うって言うのに……あのな、一から説明するけど、俺は……」
 狼狽えながらもしっかり説明するアウロスの姿に対し、クレールは最初苦笑を浮かべ――――そして、目だけに別の感情を宿した。


 夜。
「そ・れ・で・は? これより第一回そして最終回、『大学研究生の成れの果てことロスくんとの別れを盛大に惜しむ送別の会』を開催、致し? ま? すーーーーーっ! せーの、ぷぉーーーーーーぷぉぷぉぷぉぷぉ」
 貸し切りとなった【ボン・キュ・ボン】の一階に、ラディの何時にも増してけたたましい声と、やたら長い角笛の音色が鳴り響く。
 それが、送別会の始まりの合図となった。
「って言うか……ラディさんが仕切るの? この集い」
「ぷぉぷぉぷぉ、ぷぉーーーーぷぉぷぉ」
 参加者その1、ウォルトの耳を塞ぎながらの質問に、ラディは角笛を咥えたまま答えた。
「……何言ってんのか、全然わかんねーよ、ボケ情報屋」
「ぷぉ!? ぷぉぷぉぷぉ! ぷぉーーーーぷぉぷぉぷぉぷぉぷぉぷぉぷぉぷぉ!」
 参加者その2、ラインハルトのヤジに対し、ラディは角笛を咥えたままキレた。
 ちなみに、外部から集まったのはこの二人だけだ。
「はーい、お料理出来ましたよー! お腹がお腹でなくなるまで食べてくださいねー」
「やーん、お肉大好きー、むっはー」
 角笛が遠くへ投げ捨てられる中、アウロスはやけに彩られた店内を改めてぐるっと眺める。
 決して、凝った装飾ではない。
 少し痛んだリボンや萎れ気味の花、マーブル模様の石など、無理矢理かき集めたと思しき装飾品が、使わないテーブルに並べられており、壁には塗料でベタベタに描き殴られた近所の子供の絵が、いくつも貼られている。
 そこには、『ごくろうさまでした』とか『おつかれさまでした』とか『またきてね』等という文字も多数書かれていたが、意味をわかって書いている者はいない。
 全て、この送別会の幹事を務めたクレールの指示だ。
 実際、アウロスとの別れを惜しむ子供など、いる筈がない。
 一切交流を持っていないのだから。
 だが、そんな裏の事情が透けて見えたところで、その拙い絵や文字が煤ける事はない。
 例え『ああしろ、こうしろ』と言われた事だけを、何も考えずにやっているだけでも、子供の行動と言うのは、常に真剣で、常に想いが詰まっている。
 アウロスは――――以前自分が少し世話をした、総大司教の息子、オルナを思い出し、一人こっそりと口元を緩ませていた。
「にしても、集まりが悪いって言うか、随分と少人数だな。都合つかないヤツが多かったのか?」
「そこっ! 暗にロス君の人望のなさを揶揄しないっ!」
「してねーよ! つーかお前じゃねーか、揶揄してんのは!」
 雑音に等しいラディとラインハルトのやり取りも、何処か微笑ましく感じてしまう。そう言う魔力が、この空間にはあった。
「つーか、あの女はどうしたんだよ? 総大司教の娘」
「実家に帰省中。総大司教が自ら謹慎を発表したらしいんで、向かわせた」
「マジかよ! 血で血を洗う骨肉の争いってヤツだな。俺としちゃ、断然お前の女を応援すっけどな」
「俺の女じゃない」
 そんなルインの他にも、この場にいない面々はそれぞれの道を歩み始めていた。
 リジルは研究発表会以降姿を消し、レヴィは人知れず大学を辞めたと言う。
 クールボームステプギャー教授も、70歳を迎えた事を期に一線から退き、名誉教授として後進の指導に当たっている。
 流れのない小さな湖であっても、その中ではいくつもの生命が生まれ、育まれ、生存競争を繰り広げているのと同じように、大学もまた、滞る事なく動き続けている。
 そう言う場所で、アウロスは全力を尽くした。
 期間は然程長くはなかったし、研究漬けだった事もあって、思い出は多くない。
 全力疾走している間、周囲の景色が殆ど見えないのと同じように。
 それでも――――確かに自分はそこに居た、と言う実感は、頭の中央に残っている。
 一瞬の火花のような、鮮烈で儚い光として。
「それで……アウロス君はこれから、どうするんだい?」
 ふと、我に返る。
 ウォルトの言葉は、アウロスに自分が感傷に浸っていた事を自覚させた。
「正直言って、まだ具体的な方針は何も。ウェンブリーは出ようと思ってる」
「らしくないね。そんな行き当たりばったりな生き方」
「いやいや、ウォルっち。コイツ普段はインテリっぽくしてるケド、けっこーアレだよ。感情で動いてるトコあるのですよ。ミストと敵になってからは特に、キミに迷惑掛からないよう気を使いまくってたし」
 突然、そんなフォローを入れるラディの顔を、ウォルトが驚いたように、アウロスが半眼で眺める。
「そ、そうだったのか……僕はなんて軽はずみな事を……そもそも、僕がここに居るのはアウロス君のお陰なのに」
「ナニ辛気くせーコト言ってんだ。俺達ゃ同じ宿に泊まった仲だぜ? 気ぃ使うなんて当たり前ってもんよ。なあ?」
 当人ではなく、ラインハルトが偉そうにしゃしゃり出た。
「お前に代弁されたくない」
「って言うか、終盤に参戦した新参のクセに何偉そーにしてんの? バッカじゃね?」
 結果、大顰蹙を買った。
「……なんで俺、まともな事言って罵倒されるような連中とつるんでんだ……」
 いじけたラインハルトは、隅っこに行って一人静かに飲み始めた。
「えっと……ラディさんは、これからどうするの? アウロス君との契約は切れたって聞いたけど」
「フッ。金の切れ目が女の切れ目。捨てられた私は一人寂しく旅に出るの。長い、長い旅。自分探しの」
「え? って事は、君も出て行くの?」
 驚いた顔で問うウォルトに対し、ラディは寂しげな顔から一変、不適な笑みを浮かべ、天井へ向けてナイフを放る。
 カッ、と言う音と共に――――飾り付け用の大きな玉が開き、そこから『悠久過ぎる情報屋ラディアンス=ルマーニュを永遠に心に刻みつける送別の会』と汚い字で書かれた紙がビラーンと下りてきた。
「と言う訳で、この会はこれより、私の送別会になります! さあ、私を惜しんで! 私がいなくなる事を嘆いて!」
 いつの間にかテーブルの上に立っていたラディが、胸に手を当て、高らかに吠える。
「お前……残るって言ってただろ」
「私、気付いたの。ここでの自分の使命はもう終わったんだって。それもそうよね。私くらいの美貌と知性を兼ね備えた情報屋が、いつまでもあんな大学でチマチマ仕事を探すなんて、普通に考えたら変だもの。適材適所。コレが大事よね。私にはもっと大きな舞台が似合うんだから。そう言う所で映えるのが私だから。要するに、私はココを捨てるの。でも恨まないで。これは仕方がない事。優秀に優秀を重ねた私が、いつまでも同じ舞台に上がり続ける事は、自然の法則に反するの。だから、これが正しいの。悪く思わないでね、みんな」
 美貌という言葉が出た時点で、アウロスは届けられた料理の説明をシェフに求めた。
「って、自分で振っといて無視とか、酷くない!?」
「いや、酷くない。どうして酷くないかって言うと、お前の冗長なだけで中身のない科白を聞くのは、無意味な事だからだ」
「うわっ、今更そんな丁寧な解説!?」
「大方、大学で新しい雇い主が見つからなかったから、出て行くんだろう」
「ぐがっ」
 ラディが壮絶に散る。
 アウロスが半眼で呆れる。
 ウォルトが困ったように苦笑する。
 ラインハルトは蚊帳の外。
 その様子を、厨房からクレールが温和な笑みと共に見守る。
 それが――――この面々が揃って【ボン・キュ・ボン】で過ごす、最後の一時となった。


 朝日が優しく揺蕩う中、何かを蹴ったような大きな物音が、室外まで漏れ聞こえる。
 それでも、【ボン・キュ・ボン】の客席フロアに響く大きないびきに隠れ、その音が目覚ましの合図となる事はなかった。
 とはいえ、それに安堵する事はなく、足音はそのままの強さで続き、そして――――扉は開かれた。
「……」
 特に強い日差しではないが、思わず目を細める。
 だが、それも一瞬。
 その瞬間が過ぎれば、そこにあるのは凡庸な青空と、見慣れた風景。
 既に焼き付けてある、いつでも思い出せる景色。
 今更、じっと眺める必要もないのだが――――
「……」
 アウロスは振り向き、料理屋【ボン・キュ・ボン】の全景をその視界に納めた。
 芽生えるのは、微かな懐郷の念。
 自分の故郷など、何処なのかもわからないと言うのに。
「似合わない顔をしているな」
 そんな感情の全てが、たった一言の外部からの言葉で崩壊し、アウロスは思わず目の周りの筋肉を引きつらせた。
「……見えてないだろ、そっちからは」
 そして、振り向く。
 そこには、声から想像した通りの人物が立っていた。
 だが、想定外の事もある。
 少なくとも、アウロスの知っているレヴィ=エンロールと言う人物は、『晴れ晴れした』と言う言葉が似つかわしい表情を見せるような人物ではなかった。
「で、何の用だ? 俺もあんたも、大学を辞めた以上は他人だろ? 突っかかってくる理由はないと思うが」
「生憎、そんなつもりはない。無論、見送りに来た訳でもないがな」
 ならば尚の事、この人物がここにいる理由は見当たらない。
 店はまだ開いていないし、散歩のコースとしても相応しくない場所。
 それでも、怪訝な顔を隠して問うアウロスに、レヴィは皮肉さを含まない笑みを浮かべてみせた。
「魔術密売、と言う言葉を知っているか」
「唐突だな」
「質問に答えろ」
「……知らなくても、想像するのはそう難しくない。研究者が生み出した魔術を、魔術士協会を通さずに売買する行為の事だろ」
 魔術士協会とは、アランテス教会をはじめ、魔術に関わる複数の権威によって構成されている組織で、『この魔術は普及させても問題なし』、『これは危ないので禁忌指定』等と言った審査を行い、魔術そのものの管理を行う事を主な目的としている組織。
 通常、新たな魔術を開発した場合、その魔術の権利は研究を行った施設に帰属する。
 しかし、その魔術や技術を市場に出す場合、この魔術士協会に対して申請を行い、許可を得なくてはならないと言う暗黙のルールがある。
 だが、それを行うと、諸経費や宣伝費などの名目で、かなりの手数料が取られてしまう。
 その為、中抜きを行うケースが近年増えてきており、それを指して『魔術密売』と言う言葉が用いられている。
「その通りだ。特に第一聖地のマラカナンでは、その魔術密売が急増していると言う」
「それがどうかしたのか?」
 話の筋道が見えない中、レヴィは瞑目し、小さく息を落とした。
「【魔術編綴時におけるルーリング作業の高速化】だったか。お前がミスト教授の為に行っていた研究は」
「おい」
 アウロスの目が、険を増す。
 そしてその理由は、言葉となって発せられた。
「その研究成果が、密売の対象となった」
 それが何を意味するのか――――それをわからない程、アウロスは呆けてはいない。
 名の知れた教授と大学が、ここまで大きくなった論文に対して『密売』等という危ない橋を渡らせる可能性は、皆無。
『何者か』が、それを秘密裏に行ったと考えるのが妥当だ。
 そして、それが誰なのか。
 それもまた、想像に難くない。
 密売の事実を知り、大学を辞めた人物が目の前にいるのだから。
「何を……考えてる?」
 それは、ミストに対しての背信行為。
 紛れもなく、彼の足を引っ張る、最悪の行動だ。
 アウロスの知る限り、レヴィ=エンロールと言う人物が最も忌み嫌う行為だった。
「あれは、ミスト教授が切り札にするような、そんな論文ではない」
「……だから、売ったのか。自分の理想の中のミストを押しつける為に」
「何とでも言うが良い」
 レヴィは一度も不快感を示す事なく、踵を返した。
 端から見れば――――嫉妬に狂った狂信者が起こした『乱心』。
 実際、それが最も正しい見解とも言える。
 だが、レヴィが最後に見せた顔は、そんな歪んだ現実を異様な程に隠していた。
 隠していないのであれば、それは――――狂気にも勝る『信念』。
 自身の崇拝した人物は、正しい道、すなわち王道を進むべきという信念を貫いた、と言う事になるのだろう。
 アウロスは、その後ろ姿に、自分を見た。
 二度と見る事はないであろう、その背中に。
「今のって……レヴィ?」
 そして、自身の背中にクレールが話しかけてくる。
「ああ」
「まさか、最後まで文句良いに来たの?」
「いや……」
 首を左右に振りながら、アウロスは振り返る。
 そこには、クレールだけではなく、客席フロアで転がっていたラインハルトやラディの姿もあった。
 昨晩、一番飲まされたウォルトはまだ寝ているようだ。
「そんなコトより、ロス君。まさか、黙って出て行くつもりだった?」
 応える代わりに、アウロスは肩を竦め、両手に荷物がない事を見せる。
「少し、外に出ただけだ。そもそも、黙って出て行く理由はないだろ」
「それもそーね」
「いやー、わからんぜ。『涙は見せたくない』とか言って、しれっと出て行くつもりだったんじゃねーか?」
「似合わないし」
 しれっと断言。
「ぐぉぉぉぉぉぉぉ。自分で言う事じゃないぞぃ」
「相変わらず、面白い方ですね」
 そんなアウロスの鼓膜を、更に揺らす別の声。
 余りに意外な人物の登場に、その目が珍しく見開かれる。
「ク……」
 暫し、沈黙。
「……確か、シーダさん」
「ぅおい! 一文字で諦めるでないわっ!」
 クールボームステプギャー=ベレーボの激高は、当然ながら『フリ』だけ。
 役職が変わっても、その器の大きさは相変わらずだった。
「まさか、お二人とも……」
「はい。お見送りです。本当は送別会にも出席したかったんですが、急患が入ってしまいまして」
「ったく、久々に楽しみな若いモンが出てきたとぅ思ったら、もうオサラバとはのう……空しいことぅだ」
 アウロスは、絶句した。
 絶句せざるを得ない。
 決して深く関わりのあった人物ではない筈の、二人の年上の『ご足労』に、感激や歓喜と言った感情より、とにかく驚きが沸いてくる。
 想定外の出来事は腐るほど体験してきたが、その中でも、とびきりの事態だった。
「うう、頭が……あ、名誉教授。おはようござい……いたた」
「やれやれ。酒の弱い男は大成せんぞぃ。鍛えんといかんのぅ」
「普段はしっかりしているのに、お酒飲んだらダメ男……うふふ」
 ようやく起きてきたウォルトの前途に多くの難を確信し、アウロスは心中で合唱した。


 その後、ピッツ嬢も加わり、暫し歓談の時が流れ――――
「じゃ、そろそろ」
「えーもう行くの? 昼メシ食ってこうよー」
「お前は残れば良いだろ。一緒に行動する必要なし」
「うっわ、契約切れた途端この態度。どう思う? クレちゅん」
「ここに来て、初めての呼び方されてもねえ」
 苦笑するクレールを横目で眺めつつ、アウロスは足下に下ろしていた荷物を抱える。
 それに呼応し、無言でラディ以外の面々は、それぞれの視線をアウロスへと向けた。
「ったくもー、最初から最後までマイペースなんだから」
 ブツブツ唱えつつも、ラディは自分の荷物を抱え、笑顔を作る。
「クレりゅん。ピッツん。お世話になりました。後は特に面識はないですけど、縁があったら情報屋ラディアンスをどうぞよろしく! でわでわっ」
 そして一礼。
 気を利かせ、足早に去って行く。
 その背中がまだ見える中、アウロスはまずクールボームステプギャー名誉教授に深々と頭を下げた。
「この度は御足労頂き、ありがとうございました。今までの数々の御協力、感謝しています」
「ぐぉぉぉぉぉぉぉ」
 ご満悦な様子で吠える名誉教授の次は、校医に目を向ける。
「ちょくちょくお世話になりました」
「もう肩の怪我は大丈夫ですか?」
「はい。全快です」
 腕を回してみせるアウロスに、シーダは人懐っこい笑みを見せる。
 今度は、それと同じ性質の笑みを絶やさずにいるピッツ嬢。
 だがその目には、ジンワリと涙が浮かんでいた。
「長い間、お世話になりました」
「何言ってるのー。アウロス君のお陰で、私の変な病気が治ったんだしー……ずっと居てくれてもいいのにー」
「そう言う訳には。俺にも、まだやれる事があるんで」
 苦笑しながら、アウロスはその目をラインハルト――――の隣にいるクレールへと向けた。
「って、俺は放置かよ!」
「お前の場合、そっちにいる意味がわからん。何で残るんだよ」
「指名手配中だから迂闊に動けねーんだよ! ま、俺に別れの言葉は要らねーけどな。なんか、また会う気がするしよ。俺のこういうカンは大抵当た……」
 話が長くなったので、改めて視線をクレールへと移した。
「ま、話す事は昨日話したし……今更言う事はないけど、改めて」
 コホン、と咳払い。
 そして――――
「いつも明かりをありがとう。それがなかったら、あの論文は作れなかった」
 心からの一礼。
 それを解き、顔を上げると――――
「忘れないで」
 両手を身体の前で組み、美しい姿勢で立つクレールの姿が、そこにはあった。
「料理店【ボン・キュ・ボン】の二階にある、一番奥の部屋。ここは、貴方のお家なんだからね」
 それは、最上のおもてなし。
 同じように、ピッツも姿勢を正し、二人が並んで静かに頭を下げた。


 奴隷として。


 或いは使い捨ての武器として。


 生き延びる為に必死になって耐えてきた少年は、その日。


「デ・ラ・ペーニャで一番の料理人と、献身的で誠実な魅力いっぱいのウエイトレスが、貴方のお帰りをお待ちしております」


 生まれて初めて――――故郷を得た。

















 しっかりとした舗装のない、石を埋め込んだだけの道を進むアウロスの視界に、ラディが映る。
 腕組みをしながら、何処か不機嫌な様子で、足下に置いていた革袋を手に取り、それを担いでいた。
「ったく、レディを待たせるなんて、相変わらず女の子の扱いがなってないねー、ロス君ってば」
「うるさいな。で、そっちは何処に行くつもりなんだ?」
「さーね。情報屋は何処でも必要とされてるから。取り敢えず、南にでも行くかな。北って寒そうだし」
 余りに安易な発想に顔をしかめつつ、アウロスは再び歩を進めた。
 慌てるように、ラディもそれを追う。
「で、そっちは何処に行くつもり? やっぱ、彼女の実家?」
「彼女じゃない……それに、行き先はそこじゃない」
 アウロスの目は、空と大地の境界に向いていた。
 地平線はない。
 幾つもの民家や木々が、それを隠している。
 そんな見えない線へ向けて、叫ぶような心境で、アウロスは宣言した。


「次の目的地は――――第一聖地、マラカナン」








                      ロスト=ストーリーは斯く綴れり 第六章 了


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