アウロスの表情に変化はない。しかし、それはあくまでも虚勢であって、余裕など
 微塵もない――――具体的な根拠はないものの、ルインはそう確信していた。
  アウロス=エルガーデンと名乗る少年は、何時でも強がっている。
 寂寞、激痛、辛苦、劣勢……
 それらの逆風を跳ね除ける強い力はなくとも、涼しい顔をしながらそれに耐え、他人事のように
 見送って行く。何度かその姿を見て来たルインは、アウロスを包む空気の極僅かな変化も何となく
 感じられるようになっていた。
「厳しいですね」
  それとは対照的に、状況のみでそう判断したリジルの小さな声がルインの隣から聞こえる。
 実際、顔色一つ変えていないと言う事を無視すれば、その評価が妥当だった。
「何故ミスト教授がアウロスさんを切ったか、わかりますか?」
  ルインは口も首も動かさなかった。その反応を確認し、リジルが続ける。
「理由の候補は幾つかありますけど、最有力なのはこれです。『アウロスさんを恐れた』」
「恐れた……?」
「ええ。彼は十以上も年下の少年を恐れたんですよ。だから切ったんです」
  視線の先にいる自信の塊のような男の姿に、ルインはその発言を重ねる事が出来なかった。
 知り合ってからの年月の割に接する機会は然程多くなかったが、少なくともあの男が何かを
 恐れると言った様子は一度たりとも見た事がない。
 そう言う感情が備わっているかどうかすら疑わしかった。
「全ての執筆までさせて、発表会の権利まで得た所で解雇し、その論文を自分の物にする……
 まあ、良くあるとまでは言いませんが、割と見られる行為です。しかし、彼はそれをやる性質の
 人間ではない。それは僕が保障します」
「だったら、何でこんな事になってんだ?」
  ラインハルトの尤もな質問に、リジルは無表情で答える。
 そこから感情を読み取る事は困難だった。
「オートルーリングと言う技術が彼の当初の予想以上に大きな反響を生むと踏んだ……と言うのも
 なくはないでしょう。もしかしたら、この論文は賢聖になる為の足懸かりにすら出来るかもしれない。
 自分の物にしたくなる気持ちも多少はあったのかもしれません。
 でも、一番の理由はそれではないと思います。最もミスト教授が望んでいたのは……」
  消えていたリジルの表情に感情が戻る。そこには喜怒哀楽、全てが詰まっていた。
「アウロスさんがこの論文を発表する――――それを阻止する事です。
 それこそが、彼の今回の行動における優先順位の頂点です」
「解雇しないと、それが出来なかったってか?」
「オーサーシップは研究室毎に異なるとは言え、発案、実験、執筆全てを行った人間が
 1stではないと言う事はまずあり得ません。仮にミスト教授がそのセオリーを無視して自分を
 1stにすれば、さすがに問題視されます」
  オーサーシップ――――論文著者の定義――――は、研究者にとってその後の人生を左右する
 非常に重要な問題と言える。それ故に、自身や身内、上司に対して有利となるような序列に
 対しては、かなり厳しい目で見られるし、しばしば攻撃材料として用いられる。
 後々の事を考えた場合、幾ら権力者でもそう簡単に改竄する事は出来ない。
「けど、論文はアウロスのもんなんだろ? 切られたんならそれを持って余所に持ち込めば……」
「大学の研究室に属していたアウロスさんの論文は、研究室の論文として見なされます。
 作成の際に消費する費用に関しても研究室に分配された研究費を使って行われていますから。
 それに、別の大学で一から作り直す事は可能ですが、既に発表された研究を再び一からやる
 意味はありません。既に全てのデータはミスト教授が握っていますので」
  大学の研究室で行われる研究のデータは、個人の所有権を認められてはいるものの、
 実質的には大学の、研究室の物として扱われる。更に、アウロスのような外部から入って来た
 人間は中々思うようにはさせて貰えない。事実、リジルの推論は正しかった。
「アウロスさんは解雇された時点で、もう自分の名前が残されているとは考えていなかったでしょう。
 だから、その矛盾を主張し、そして自分がその論文を作ったと証明すれば、逆転もあり得る……
 そう考えていた」
  リジルの目が閉じられる。それは、もう面白い事は見れないと言う意思の表れだった。
「総大司教を引き入れる所までは完璧でした。でも、ミスト教授の周到さが勝りましたね。
 残念ながら、やれる事はもうありません。終局です」
  如何に総大司教と言えど、白を黒に変える為にはそれなりの根回しが必要となる。
 この短期間でアウロスがそれを依頼し、総大司教が実行した可能性は――――ない。 
「歯痒いですか? 自分に何も出来ない事が」
  ルインの表情から影を察し、どこか皮肉げに問う。
「僕はずっと、そうやって暮らして来ました。滅ぼしたい程憎いのに、何一つ出来る事がない。
 大きな力を創っても、結局は自身がそれに潰される。歯痒くて不甲斐なくて壊れそうでしたよ。
 貴方『がた』はそう言う経験は余りないかもしれませんね。生まれながらに沢山の物を
 与えられていたでしょう」
「お前……俺の事知ってるのか」
「情報屋ですから」
  リジルはラインハルトへの適当な返事もそこそこに、ルインの顔をじっと見つめる。
 かつて魔女と呼ばれていた同僚が人並みに不安や懸念が表情に出ているその様子を
 感慨深げに眺めながら、その視線を戦場に移した。
「さて、どうなりますかね……」
  リジルは呟きつつ、思う。
  結果の見えた争いに意味はあるのか。
  それとも――――



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