室内が異様な緊張感で支配される。
 総大司教ミルナ=シュバインタイガーの存在は、学会や大学の権力者が集うこの中でも
 明らかに浮いていた。
 それもその筈。教会の幹部位階三位に君臨する彼女の権力は、第二聖地ウェンブリーに
 おいて最高の位置にある。ウェンブリー教会の頂点である首座大司教よりも上だ。
 つまり、この場はおろか、この地域で彼女に意見を言える人間はいないと言う事だ。
 そんな人間が何の予告もなく論文発表会を来聴するなど、普通なら絶対にあり得ない。
 この場に特別な何かがあると言う事は、疑いようのない事実だった。
「……」
  魔術士ではないアウロスにとっても、彼女が雲の上の人物である事に変わりはない。
 だが、一度悩みを相談されている事もあり、遠くの存在と言った印象はなかった。
『あいつはな、戦争にかこつけて一つの村の住民を皆殺しにしやがったんだ。
 それも、自分の国の村をな』
『ルインさんは第二聖地ウェンブリー総大司教ミルナ=シュバインタイガーの本当の子供です』
  同時に、他者の口から語られた、彼女を形成する重要な事項が頭を巡る。
 自分の印象、他人の印象、そして真実――――どれが近いのか、或いは遠いのか、
 アウロスはまだ掴み兼ねていた。
「そ、総大司教様……あ、あの……」
「私の事はお気になさらないで、お続けになって下さい」
  総大司教は余りに無茶な要求をするや否や、その足を聴衆席に向ける。全員がその顔を
 驚愕で引きつらせる中、澄ました顔で机の間をすり抜けるように歩き――――アウロスの隣に
 腰掛けた。
「御久し振りね」
「本当に」
  あの総大司教が一人の少年に自分から近付き、話し掛ける――――その異様な光景は、
 論文発表会の会場である事をその場にいる全員に忘れさせた。
「フ……」
  その中で、一人の男が心底嬉しそうに笑みを漏らす。ミスト=シュロスベル、その人だ。
「で、では、続けます。次の方、前へどうぞ」
  ミストが席を立つ。未だ室内が異様な雰囲気に包まれる中で教壇に立ち、部屋全体を
 ぐるりと見渡した。そして、その中心にある二つの顔に視点が定まる。
「懐かしい雰囲気。心が躍りそう」
「若いですね」
「あら、御上手」
  司会役の男が時間計測係に視線を送る。それを合図に、最前列の右端に座る男が
 大理石の粉を用いた砂時計を逆さにした。
「昔はこれでも研究の虫だったの。朝から晩まで、それこそ寝る間も惜しんで粉骨砕身
 努力し続けたものよ」
「魔術士の鏡、ですか」
「残念だけど、そんな綺麗なものではなかったのよね」
  司会の男がミストに視線を送り、頷いて見せた。この瞬間から十五分間がミストに
 与えられた発表の為の時間だ。しかしミストは口を開かない。沈黙のまま、視線の先にいる
 二人を見ていた。
「私は人の道を踏み外した魔女。私の所為で人生が狂った人間は数知れず。例えば……」
  ミストの視線を正面で受けるアウロスに、今度は総大司教の視線が向けられる。
 この場の中心人物が誰であるかを指し示すかのように。
「貴方、良く冷静でいられるものね。普通なら、私の顔を見た瞬間に飛び掛っているでしょうに」
「貴女の顔は知りませんでしたから。当時、見たのは恐らく一度くらい、それもほんの
 僅かな間です。記憶には残りません」
「でも、今は違うでしょう?」
  アウロスはその問いには答えず、表情も変えず、視線だけ横に向ける。
「ここに来たのは、誰の要請ですか?」
「残念だけど、口止めされているの。私はお飾りだから、怖い人には逆らえないのよね」
「笑う所ですか、ここ」
「発表者が泣いても良いのならね」
  上品に笑いながら、総大司教はミストの方に顔を向けた。それに伴い視線の固定を解除された
 アウロスは、周りをぐるっと見渡す。出入り口付近に今しがた到着した知り合いの顔が
 見えたので、何となく微笑んでみた。特に意味はなかったが。
「彼の発表を聞く為にここに来たのではないけれど、一応聞いておかないと」
  総大司教のその言葉がミストに聞こえた訳ではないだろうが――――
「宜しくお願いします」
  それを合図としたかのようなタイミングで、始まった。



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