教壇では、この時間担当の発表者が自身の研究成果について熱弁を披露している。
 初々しさのあるその発表を真剣に聞く人間は殆どいない。若年者にも間口を広げている
 論文発表会では良く見られる光景だ。
  ミストは直ぐに訪れる自分の発表に備え、最前列に座っていた。ウォルトもその一つ後ろの
 席で待機している。アウロスは、講義室の中央に座った。
  アウロスとミスト――――同じ空間に陣取るのは十日振りとなる。決して久し振りと言う程の
 長期間ではないが、その時とは関係が全く別のものに変わっている。
 既に二人の間に社会的な繋がりはない。
 それは同時に、抑止や抑圧と言った強制力がなくなった事を意味する。
  アウロスは、ミストの背中を眺めていた。
  講義室に入った瞬間から、その背中には何の動きもない。今アウロスがこの場にいる事に
 気が付いている素振りは欠片も見せていない。だが、アウロスがその事実に対し、単に
 気が付いていないと判断する事はない。意図的な無視か、気に留める程の存在ではないと言う
 認識なのか――――どっちもあり得るだけに、確信は持てずにいた。
(……ん)
  一瞬、ウォルトがアウロスの方に不安そうな顔を向けた。彼にしても、この件はかなり
 難しい立場に立たされている。アウロスは安心させる為の笑みを作ってそれに答えた。
 

  十日前――――
「……」
  ミストの単純明快な解雇通告を聞いた瞬間、アウロスの脳内は突発的に活性化した。
  今この場で必要なのは、怒りでも失望でも怨み節でもない。頭に血を上らせてはならない。
 白くなってもいけない。必要なのは、目的の達成出来る道を、例え糸の細さでも良いから
 繋ぎ止める事。感情を切り捨て、合理的な言葉を紡がなくてはならない。やる事はこれまでと
 変わらない――――そう結論付けたアウロスは、まず表情の変化を抑制する努力を始める。
 筋肉の収縮を制御し、反射的に起きてしまう幾つかの現象を強引に理性で塗り固める。
 動悸を鷲掴みするのではなく、全身に生温い水を優しく流し込むようなイメージで、
 身体の微細な変化を抑える。呼吸も平常通り。後は、護らなければならないものを守る為の
 言葉を発するのみ。アウロスは血の通った唇を動かし、口を開ける。
「お世話になりました」
  それが――――アウロスの出した結論を凝縮した言葉だった。
  ミストは動かない。表情も変えず、口の前で組んだ両手もそのままに、アウロスの目を
 じっと眺めている。観察するのではなく、ただ見ているだけ。それは、動揺と呼んでも
 差し支えない状態だった。
  無言で一礼し、アウロスは教授室を出た。
  アウロスに選択肢はなかった。ミストがこのタイミングでアウロスを切る理由は一つ。
 論文を自分の物にする為だ。そして、それを敢行する為の材料が揃った事も意味する。
 アウロスがあの場で自分の名前を残すよう要求した所で、それが通る事はない。
 逆に、アウロスに協力した人間の名前が連名及び参考文献の欄から消える事になりかねない。
 親しい人間が切られたとなれば、それに反発する可能性があるからだ。それを防ぐには
 沈黙するしかなかった。アウロスは、自分の意思で、協力者を護った。
  だが、それで目的への道が完全に消えた訳でもない。アウロスはミストに感情を
 読ませなかった。
 それにより、ミストのアウロスに対する関心は残った。底を見せないまま去った。
 まだ何かある――――そう思わせる事こそが重要だった。


(挑発……と受け取ってくれたみたいだな)
  沈黙のミストに、アウロスはそう判断を下した。
  重要なのは、ミストが自分を脅威であると認識してくれる事。何処かで徹底的に潰さなくては
 ならないと言う危機感を抱いてくれる事。その思いが―――ーアウロスを、戦いの場に
 運んでくれる。
  アウロスはリジルに嘘を吐いてはいなかった。
  席はミストが用意してくれる――――そう読んでいた。
「では、質問がありましたら、挙手をお願いします」
  ミストの前の発表者が発表を終え、司会役の人間が質問を促す。こう言った場では、
 儀礼的に誰かが最低一つは質問を投げ掛ける。仮にその場にいる全員が関心がなかった
 としても、誰かが気を利かせて挙手し、ありきたりな質問をする。
 アウロスはその作法が嫌いだった。
「では、一つ」
  質問を受け付けてから五秒程の空白の後、後ろの方に座っていた魔術士が手を上げた。
「専門ではないので、基本的な質問になりますが……」
  発表者の顔は、緊張感に包まれながらも何処か寂しげだった。救済処置とも言える
 この温情を礼儀と言うのであれば、礼儀とはつまり、人の心を無視してまで体裁を整える行為に
 他ならない。そしてそれは、それを平気で行う人間にも同じ事が言えた。
「ありがとうございました」
  一定の答えが出た所で、質問者は強引に話を切った。もう良いだろう、とっとと失せろ――――
 そんなメッセージを込めて。
「では、五分後に次の発表に移らせて頂きます」
  資料の配布や観覧する人間の出入りの為に、発表の前には五分間の余白が与えられている。
 その間、ミストは一度として後ろを見なかった。ここまで来れば、それが過剰な意識の元に
 行われていると言うのがわかる。アウロスは、自分の席が用意されている事を確信した。
「それでは……」
  いよいよ、ミストの発表が始まる。
 この発表会の目玉の一つとして当初から注目されていたこの論文を聞こうとする魔術士は多く、
 既に講義室の椅子は八割方埋まっていた。中には、明らかに学会や教会の権力者と思しき、
 豪華なローブに身を包んだ年配者も見られる。かなり珍しい現象だった。彼らは決して論文の
 内容だけに惹き付けられた人達ではない。それだけの知名度が今のミストにはある――――
 それが現実だった。
  そして――――
「……え?」
  後ろの方で誰かが間の抜けた疑問符を落とした。そして、それと同時に会場を極めて
 異質な空気が伝う。
  それを背中に感じ、アウロスは扉の前に視線を送った。
  そこには一人の女性が立っている。決して若くはないが、上品な顔立ちは崩れていない。
 何より、身にまとう雰囲気が、通常の中年女性とは全く異なっている。だが、誰もがその
 雰囲気に対して驚いている訳ではない。アウロスもまた、驚きを隠せずにいた。
「そ……総大司教……様?」
  誰もが予想だにしない観客の来賓に、司会の男が思わず口にした通り――――その女性は
 紛れもなく、総大司教ミルナ=シュバインタイガーその人だった。


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