8時50分――――各分野の発表会が全ての部屋で同時に始まった。
  大学の館内は緊張感に包まれ、会場に使用されなかった講義室や廊下では、発表を
 控えた研究者が本番に備えてそれぞれの方法で待機している。
 発声の練習に余念のない者、暗記に時間を費やす者、何もせずに集中力を高めている者、
 知人と談笑している者、椅子にもたれ掛かって食事しているデブ……。
 人生の掛かった大一番を前にして怯む者もいれば、日常の中の一作業として淡々と
 こなそうとしている者もいる。彼らは同じカテゴリーに属してはいても、必ずしも同じ研究を
 している訳ではない。寧ろ完全に被る事は殆どない。そんな人達を同じ場所に立たせ、
 その人生の意味と同義である研究過程とその成果を一律の時間で提示させ、それを比較し、
 優劣を決める――――それが論文発表会だ。
「……」
  アウロスは様々な立場の魔術士が集う場所を離れ、かつて自分がいた研究室の扉の前に
 立っていた。
  前衛術の研究としては、平々凡々と言われても仕方ないような、うだつの上がらない
 研究室だった。ただそこにあるだけ。それ以外に意味を見出す事が難しいくらいにそこには
 何もなかった。元々、使い手を選ぶ前衛術は専門とする大学を除けば、極端な程に力を
 入れていない所が多い。大手に大半の需要を握られている現状では金にならないのだ。
 活気のない研究室は必然的に淀み、腐敗した人間関係を生む。結局、アウロスがここで
 手に入れたのは、生活の大半を過ごした図書室で得た知識と、論文の基礎を固める為に
 必要だった最低限の実験データ、そして――――忍耐力だった。
「大体よお。発表会なんつったって、どうせ大した奴は来ねえって。こんなヘボ大学に誰が
 足運ぶってのよ、なあ?」
  扉越しに聞こえる雑音が、鼓膜に砂のようなものを押し付けてくる。不快感は如実に
 自覚出来る水準まで色を濃くしていた。
  10秒後、扉を開けた。
「お前……」
「教授はいるか?」
  そう聞きながら、室内を見渡す。
「聞いたぜ。何でもあの怖え顔の教授にスカウトされてウェンブリーに行ったんだってな」
  倦怠感は悪化していた。床には落書きされた書類や空き箱、果物の皮などと言ったゴミが
 撒布しており、壁には薄汚れた実験用の機材が放置された状態で立て掛けられている。
 整理整頓の行き届いた机など一つもなく、中央に固められた椅子は明らかにその位置が
 最も馴染んでいる。
  ここに、研究室としての機能はなかった。
「いないのか」
  留まる理由もなくなり、扉を閉めようと腕に力を込める。
「まあ待てよ。折角来たんだから手伝って行けよ。雑用は得意だろ?」
「俺ら会場設営までやらされて、その上午後から案内係やら撤収やら色々やらされんだよ。
 人件費削減? とかそんなんで」
  雑音の源は3つあった。何れも見覚えのある顔で、その内の一つは最後まで突っ掛かって
 来た男だった。あれから2年近い月日が流れているのだが、記憶の中にある醜悪な配列に
 変化はない。
 頭、額、眉、目、鼻、頬、唇、顎……どれを取っても一般人と何も変わらないのに、自分が
 選ばれた人間だと信じて疑わない。何もせず、他人を中傷する事にだけ悦を感じる存在。
「つのる話もあるし。ゆっくりして行けよ、な」
  それが、媚びるように歪む。
 自分はここにいる人材ではない、紹介しろ、連れて行け――――そんな声が聞こえた気がした。
「用事がある。失礼した」
  アウロスは嘔吐感のする胸の辺りの筋肉に少し力を込め、扉を閉めた。
  そして、その直ぐ隣にある扉を開く。
「おおっ、君はアウロス=エルガーデンではないか!」
  教授室の中には、当然ではあるが教授がいた。ウェブスター=クラスラードと言う
 名前だったか、と心の中で確認しつつ、一礼する。
「どうしたのかね? 私に何か用でも?」
  かつて上司は、部下の名前すら覚えていなかった。しかし今はっきりと名前を呼ばれた。
 正確には自分の名ではない、借り物の名を。
「私用で近くに来たので御挨拶に伺いました。御元気そうで何よりです。では失礼しました」
「ま、待ちなさいアウロス君。お茶でも……そうだ、つい先日兄が送ってくれたガーナッツが」
  その事実を確認し、扉を閉じる。
  一通りの儀礼は終わった。
  後は、待つのみ。
  精神を折り畳むように、内に内に閉じ込めて行く。両の頬を張るのと同じような感覚で。
  そして――――1時間後。
  アウロスは、自身の論文が発表される会場となる前衛術科第U教室に入った。



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