深夜――――
  他の二人がそれぞれ外見通りの寝相を披露する中、アウロスは窓際で一人夜空を
 見ていた。闇に近いその視界は、自己の感情を少し誇張と言えるくらいに投影している。
 点在する光は希望ではなく隙間。それを埋めた所で、待っているのは何も見えない、
 聞こえない世界。実は、既に終末を迎えた瓦礫の山だったと言う事も十分にあり得る。
  アウロスは、自身の願望を定格化していた。それは、何度も口にしている通り『偉大なる
 魔術士アウロス=エルガーデンの名前を残す事』に他ならない。それが、初めての友達で
 あり、初めての対等たる他人に対して、自分が唯一してあげられる事だと信じているからだ。
 そして同時に、それが自身の願望である事も自覚している。
  人の為に何かをしてあげられる自分で在りたい。
  名前を残すと言う行為によって、自分に名前がない事に対する劣等感を擬似的であれ
 削減したい。
  そんな自己満足も多分に含んでいる。それが悪い事だとは思わないまでも、どこか
 純粋でない行為に対するわだかまりはあった。
  純粋な思いは、それ故に脆い。しかし、誰もが憧れ、共感し、力を貸そうとする。
 人は一人だが、例え指先でも繋がる事が出来る。それを拒否した人間が、果たして事を
 成し遂げられるのか――――そんな不安は常にあった。それを打ち消す為に、自分の出来る
 限りの事をして来た。信じられないなら信じなければ良い。繋がりがないのならそのメリットを
 有効利用すれば良い。それが、アウロスのこれまでの道のりを支える意思の杖だった。
  アウロスは、人を信用出来ない。
 生誕の瞬間から見放され、教育も生活も全てが他者の欲を満たす為の計算された思考の
 中で宛がわれて来た。褒美や罰に関してもそうだ。与えられるもの全てが闇ならば、
 染まるのは必然だった。
  その中で、少年は二つの光を得た。一つは道標として心に在り続ける。
 そして、もう一つ――――あまりに淡く、自覚なきまま七年の時を得て、ようやく見つける事の
 出来たその光が、今、アウロスの見上げる夜空の下にひっそりと咲いている。
「……良く夜に会うな、俺ら」
「そうね」
  既に閉店している一階に降りたアウロスは、店の外で佇む半日遅れで合流した同行者の
 隣に足を納めた。
「普通に一緒に来れば良かっただろうに」
「騒がしいのは苦手」
  その答えに少し微笑み、一つ息を落とす。
「はあ……」
「緊張しているの?」
「まあ、多少は」
「貴方にはそう言う神経は通っていないと思っていたけれど」
「あがり症とか、そう言うのはないんだけどな」
  閑静な周りの空気が、肌に違和感なくまとわり付く。それにすら重量を感じていた。
「明後日失敗したら、かなり難しくなってくる。少なくともオートルーリングでアウロスの名前は
 残らないからな。別の方法と言っても、正直見当すら付かない。緊張もするさ」
  それは、皮肉や軽口、或いは妥協と言った要素のない、アウロスが滅多に他人は
 見せない『弱音』だった。
「何故そこまで名前を残す事に拘るの?」
  それに対し、ルインは落ち着いた様子で淡々と問う。
「貴方がアウロスと言う人にそこまで拘るのは、私にも理解は出来る。でも、やり方は他にも
 あると言っていたのは貴方自身じゃない」
「……」
  沈黙の中に答えはない。アウロス自身、思考を咀嚼している最中だった。
「今回の発表会はミストの教授就任後初の研究発表と言う事もあって、魔術士界では
 かなりの注目を集めている。それを嗅ぎ取った一部の人間も含めて、結構な面々が
 揃う事になるでしょう」
「だな」
「そんな場所で、万が一失態を演じようものなら、貴方は魔術士としてだけではなく、
 一般人としてこの国で生きる事すら困難になる」
  ルインの示唆した危機感は、アウロスも持っている。論文発表会と言う敷居の高い場で
 粗相をしでかそうものなら、魔術学会のみならず魔術国家全体から追放される可能性もない
 訳ではない。
「初志貫徹に拘っているの? それならば……」
「そう言う訳じゃない」
  アウロスは考えた結果、結局一番伝わり易い方法を選んだ。要は本音を話すと言う事だ。
「俺には名前がない。自分を表現する呼称がない。名前は唯の記号じゃなくて、その人間の
 存在を肯定する、唯一つの証だ」
「証……」
「俺にはそれがないから、自分自身がいないんじゃないか、誰にも見えていないんじゃないか
 って錯覚に陥る事が良くある。アウロス=エルガーデンと言う人間が確かにこの世にいて、
 偉大な魔術士になる事を夢見ていたって言うその証を、名前を残す事で世界に刻み
 付ければ、もしかしたら、そんな錯覚を消す事が出来るんじゃないか……」
  人に何かをしてやれる自分。名前を残す事の出来た自分。それを望むのは――――
「ま、結局、ただの自己満足だな」
  対象者は既にこの世にはいない。本人の口から感想が聞かれる日は来ない。自分だけ
 満足して、それで終わる――――例えどのような結末であっても、それが絶対的な
 規定路線として組み込まれている。アウロスが合理性、利己主義に拘った最大の理由は、
 その結末に押し潰されない為だった。そう言うものだと言い聞かせる為だった。
「喜ぶんじゃないの?」
  しかし――――ルインの一言で、それは移ろう。
「私は、そう思うけれど」
「……」
  不意に、風が吹いた。
  それはとても柔らかく、まるで全身を包み込んでくれるような、そんな風だった。
  アウロスは、心からそれを歓迎した。
「ありがとう。そう思ってくれるお前が、俺の傍に居てくれて良かった」
  余す事なくその感情を伝える。ルインは突然持ちきれいない程の荷物を手渡されたような
 慌て方でそっぽを向いた。
「早くアウロスと言う名前を返還出来るよう頑張りなさい。貴方自身の名前を、呼べるように」
「ああ。そうする」
 夜は、何時でも闇を与える。
 誰の為でもない。
 この刻、そうあるべきだから――――それだけだった。



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