ルインは息を切らせていた。夜の闇に溺れているかのような余裕のない表情で
 ひたすらに走り回る。
  彼女にとって、闇は味方だった。
  自身を覆い隠すのみならず、世の中の大半を見なくて済む。領主の娘として何不自由なく
 暮らし、自身の浅慮で大切な人を死なせてしまい、多数の人間の人生を狂わせた過去も、
 闇に溶けた心には入り込んで来ない。
  心もまた感覚の一部だ。閉ざしてしまえばその機能を限りなく停止させる事が出来る。
 とは言え、楽な生き方ではない。同時に失うものも多いからだ。同世代の女の子が
 少なからず手にする幸せは、ルインの掌には落ちて来ない。

  ――――死神を狩る者

  フローラ=レンテリウスを殺害し、自分を見逃した暗殺者を探す過程で、何時の間にか
 呼ばれていた通り名。その名が闇の社会に浸透した事で、ルインの人格は歪んで行った。
  人間の性格・性質の形成は、環境に拠る所が大きい。周りがどう認識しているか、
 どう接するかと言う事は、そのまま本人の内部に影響する。
 【死神を狩る者】は、常に攻撃的で、殺伐としていて、人を食ったような目をしていて――――
 そんな周辺のイメージに
合わせる様に、彼女の表層は歪なまま塗り固められて行った。
「……はっ……はっ……」
  料理店の周辺、大学内部、街……ルインはウェンブリーのあらゆる場所で、アウロスの
 
気配を探した。
  気配を完璧に制御する能力は、元々令嬢の頃からある程度発達していた。
 原因は親だった。厳格な父は、娘に過剰な英才教育を施した。
 その父も早々に亡くなり、研究の虫だった母親は娘に関心を見せなかった。
『消えてしまいたい』
『気付いて欲しい』
  相反するその二つの願望が、今のルインの原点だった。
  その能力は、【死神を狩る者】と呼ばれた彼女の生命を支える原動力に他ならない。
 気配を操る専門家たる暗殺者に後れを取らない為には必須の能力だった。
  そして、その必要を失った今――――彼女は未だにその能力を使っている。
 息を整え、目に見えぬものを探る。通常の気配は殺気とは違い、個人差が少ない。
 それは他人に説明する事が極めて困難な程の微小な差で、何十人、何百人といる中から
 特定の一人を見つけ出す事は、いかな彼女でも不可能だった。
  だが、ルインは止めない。止めないだけの理由はあったし、寧ろ止める理由が全くなかった。
「……」
  辛うじて我慢していたものが込み上げて来たかのように、ポツリ、ポツリと雨音が
 
聞こえて来る。ルインは人通りの消えた公道で、俯きながら佇んでいた。
  今日が駄目なら明日、明日が駄目なら明後日。研究者ならば、停滞や後退は日常茶飯事。
 でも、谷底に突き落とされれば無傷では済まされないし、そこから這い上がる為の足場が
 なければ、上がってくる事は出来ない。
 明日がやって来ない。
 昇らない日はなくとも、見えなければ同じ事だ。
  絶望――――少し前にそれを味わったルインは、今のアウロスの想いを汲まずには
 いられなかった。
  人は絶望すると、何をどうして良いかわからなくなる。動かなくなった想いが、思考が、
 アイデンティティそのものがゲシュタルト崩壊を起こし、その意味を認識出来なくなってしまう。
 それが今アウロスに起こっていた場合、彼がどんな行動に出るかは予想が出来ない。
 最悪――――そんな思いが、そんな過去が、ルインの焦燥感を生んでいた。
  午前1時――――アウロスは、いない。
  ルインの捜索は五時間にも及んだ。既に人の往来はなく、気配を見つけるには
 容易な時間。しかし、アウロスを感じ取る事は出来なかった。
  諦めると言う選択肢はない。今日が駄目なら、と言う前向きな思考もない。
  ひたすらに、捜す。
  まるで、誰かの研究姿勢のように。
  純粋故に影響され易い彼女の人生は、今現在もその真っ只中に居た――――
「ルイン?」
「!」
  自分の名前が呼ばれた瞬間、それがどこからの声であるか、そして誰の声かは容易に
 判断出来る。しかし、ルインの身体は動かなかった。
「何してんだ? こんな時間に」
「……」
  声も出ない。何より、ここまで接近していたにも拘らず、その気配を察知出来かった事が
 ルインの動揺を顕著に示していた。
「まさかお前、こんな時間まで飲んでたんじゃないだろな。幾らアルコール摂取が
 生きがいと言ってもな、節度ってものが……」
  ルインは振り向くと同時に、目の前の男の胸倉を掴み――――
「うわっ!?」
「この……っ」
  力任せに引き寄せ――――
「……バカ……」
  その胸元を頭で小突いた。

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