その日、空は曇っていた。
  雨は降っていなかったが、何時振り出してもおかしくないような雨雲の群れは、人々に不安や
 恐れを抱かせる。焦燥に駆られるかの如く灰色の渦に飲まれ、時に息を失う。祝福なき
 世界に道を照らす光はなく、何時訪れるか知れない終焉に怯え、混沌とした刹那の連続を
 編み込むように過ごす。それが、翼を与えられなかった人間と言う生物の宿命だった。
「……どうして?」
  早朝カンファレンスが終わり、張り詰めた空気が緩和したミスト研究室――――
 そこにアウロスの姿はない。既に机は整理されており、二年近く使用していた人間の色は
 完全に別の色へと塗り替えられている。その不自然極まりない光景を、クレールは呆然と
 眺めたままポツリと呟いた。
「アウロス=エルガーデンは先日付で除名された。もうここに奴の居場所はない。
 それだけの事だ」
  その呟きにレヴィが平坦な口調で答える。現在研究室には二人しかいない。ミストの
 教授就任以降は人の出入りが激しかったこの部屋も、大学閉鎖を契機に落ち着きを
 取り戻していた。
「あの男がいなくなったからと言って、何が変わる訳でもない。気に掛ける必要もないだろう」
  その言葉にクレールの目が釣り上がる。
「まさか……貴方が!?」
「僕は何も知らない。仮に知っていたとしても、僕に奴の去就を決定出来る権利などない。
 辞職したんじゃないのか?」
  言葉の途中でクレールが立ち上がり、レヴィの下に詰め寄る。
「あの子が自分から辞めるなんて言う筈ない。【一攫千金論文】なんて言われてる研究を
 ずっとやって来て、辛い思いもして来た中で、発表まで後十日って所まで漕ぎ着けたのよ?
 どうして辞めようなんて思うのよ!」
  掴み掛かりかねない勢いのクレールの怒号とは対照的に、レヴィの顔には冷笑が浮かぶ。
「随分な熱の入れようだな」
  そして、そのままの顔でクレールの目を覗き込むように見つめた。
「お前がミスト教授に懸想しているのは承知している。だが、その様子だと……ようやく
 身の程知らずだと気が付いたらしいな」
「……!」
  反射的な憤りがクレールの手を持ち上げる。その掌がレヴィの頬へ向けられる――――
 
衝突の寸前で止まった。その手を表情一つ変えず横目で見ながら、レヴィは笑みを消した。
「手を出さなかったのは褒めてやる。腐ってもミスト教授が見捨てなかっただけの事はあるな」
「貴方は一度、挫折を味わうべきね」
  怒りで震える身体を抑え付けるように両腕で自身の身体を抱きながら吐き捨てたクレールの
 言葉に、レヴィの瞼が微かに下りた。
「挫折……か」
  同時に、扉が開く。黒いローブに包まれた長髪の女性が覇気のない顔でそれを閉じた。
「ルイン……アウロスくんは?」
「……」
  小さく首を横に振る。その動作にクレールの顔が曇った。
「随分仲が良くなったんだな」
 これまでの二人を見て来たレヴィのその発言は尤もなものだったが、その口調は
 あからさまに不快感を誘うものだった。それにクレールが再び突っかかろうとした
 刹那――――再び扉が開く。開けたのはウォルトだった。
「失礼します。あの、アウロスくんは……」
「ごめんなさい、今はちょっと取り込んでるの。仕事終わったらウチに来て」
「え? は、はいわかりました」
  脈絡のない返答にウォルトは一瞬戸惑いを見せたが、その相手がクレールである事を
 確認した瞬間、肯定の返事で指示に従う事を強く誓い、踵を返していた。
「……フッ」
  これ以上ここにいても仕方ないと言うニュアンスの笑みを残し、レヴィも部屋を出る。しかし、
 扉が閉まる直前、彼の顔にそれとは対照的な色彩が含まれているのを、ルインの目は捉えた。
「取り敢えず、夕方にもう一回探してみましょう。良い?」
「ええ」
  了解の意を示しつつ、ルインは扉の方を睨み続けた。


  その日の夜。
「んじゃ、第一回『まさかのクビ! そして失踪! ロスくんに何が!? 少年の栄光と挫折の
 真相に迫る! 会議』を始めます」
  ラディの音頭の下、閉店時間を過ぎた【ボン・キュ・ボン】の一階にて参加者6名の
 話し合いが始められた。
「……真面目にやらないのなら、私は不参加」
  早速1人減った。
「真面目だってば。あ、ホントに帰りやがった! ったく、この沈んだ雰囲気を少しでも
 明るくしようって言う私の心遣いをわからないなんて、洞察力ないなー」
「そんな融通が利く女じゃないし。それ以前に私も帰りたくなったくらいだけど」
「あの、ここはクレールさんの家では……」
「ウォルっち、そこはもっと強くビシッて言わないと意味ない」
  そう言うラディの指摘にも鋭さが足りない。非常に緩い空気が室内に蔓延していた。
「……やっぱ、ロスくんいないとどうもグダグダと言うか、締まりがないね」
「すいません……」
  力不足を痛感したウォルトの謝罪も微妙だった。
「ま、いいや。それより、私は未だに状況が掴めてないんだけど……今度はロスくんが
 逃げたって事で良いの?」
「今度は?」
「あ、いや。兎に角、クビになったのは確実なのよね?」
「ええ。理由は全くわからないんだけど……」
  クレールのその言葉に、テーブルを取り囲んでいる中の一人がおもむろに口を挟む。
「明確な理由があるのなら、教授が説明するんじゃねーか?」
「あれ、いたのハルハル」
「頭数に入れてたじゃねーか! ってかハルハルってのは何だよそれ!」
「あの、この方は一体……」
  面識のないウォルトが怪訝な目で尋ねると、ラインハルトの口元が怪しく緩んだ。
「良く聞いてくれたな、青年。普段なら個人情報は滅多に口にしない俺だが、今日は特別だ。
 詳細まで語ってやろう」
  そして、心底嬉しそうに親指で自分を指す。
「俺の名はラインハル」
「ところで、ロスくんは何時からいなくなった?」
  ラディの問いに、クレールが回想を始める。ウォルトもそっちの方に視線を移した。
「昨日の夕方まではいたけど、夜に帰って来てないみたい。その辺りからかな」
「なあ。俺ってそこの無視され女に無視されるくらいショボい存在なのか? これでも俺、結構
 良いとこの子なんだぞ」
「じゃあ丸一日かー。どうしたものかな」
「……」
  ラインハルトは海藻のように揺れる視界を腕で覆った。
「ま、あの子の事だから、早まった事はしないと思うけど……」
「でも、てっぺんまであとちょっとって所で蹴り落とされた訳だからねー。何処かで
 咽び泣いてないと良いけど」
「あの……」
  今一つ要領を得ない会議に業を煮やしたウォルトが、恐る恐るながら挙手。
「僕、もう一回探して来ます」
「あれま、こんな時間に?」
「やっぱり心配なんで。女性陣は待機していて下さい」
  それはつまり、もう一人の男手に関しては手伝えと言う事だ。
「やれやれ……」
  そう言いつつも、間接的にだが必要とされた事に喜びを抱いたラインハルトが、
 それを押し隠しているのがバレバレな顔でウォルトに続いた。
「やっぱ、ミスト教授と何かあったのかな?」
「さあ……」
  残った女性二人は出入り口の扉を眺めつつ、二人して頬杖を付いて嘆息する。
  アウロスの突然の解雇、そして失踪――――それはまさに青天の霹靂だった。
 解雇にあたっての一切の説明はミストの口からは語られていない。だが、特別研究員として
 ミストの下に付いている以上、アウロスの実質的な人事権はミストが握っており、彼がそれを
 行使したのは明らかだ。
「複雑?」
「ま、否定はしないけど……あの人はそう簡単に部下を切り捨てるような事はしないから、
 疑問と言うか、そう言うのはあるかな」
「そうかな。あいつならすんなり切りそうだけど」
  ミストに対して余り良い感情を抱いていないラディは半眼で呟く。
「だったら、とっくに私は大学にいないし」
「気に入られてるんじゃないの?」
「それは……残念ながら」
  クレールの表情に翳りが浮かぶ。今朝レヴィに言われるまでもなく、自覚している事だった。
「あー……ゴメン」
「良いよ。それより、ルインは本当に帰ったと思う?」
「どうだろね」
  曖昧に答えつつ、ラディは水の入ったコップを手に取った。
  透明の液体にも不純物は入っている。それを眼前まで近付け、覗き込んだ。
  目に見えぬもの。それを探す為に。

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