グレスは立つ力もないのか、その大きな身体を地面に伏している。
  黒と赤の混じったローブは風にたなびく事なく、湿ったままで身体を覆っていた。
「何故、俺と戦うのを途中で止めた?」
 アウロスのその問いに、口の端を微かに動かす。笑顔のつもりなのか――――
「お前を倒す気など初めからないさ。手合わせしてみたかっただけだ。
 戦場に生きた者の性とでも……言っておこう」
「……俺にはわからない」
「わからなくて良い。お前は……お前のままで……そのままでいろ」
 弱々しくなって行くその瞳を、今度はミストに向ける。
 ミストは立っていた。
 そして、見下ろしていた。
「……久しいな。ミスト」
「往くのか」
「ああ。もう十分だ」
「お前は何時もそうだ。クソ真面目で融通が利かない。少しは周りの言う事を聞くべきだ」
「同じ事をジーンにも言われたな……はは、あいつの言葉など滅多に聞けないだけに……
 記憶に良く残っている」
  そこまで言葉を紡いだ所で、グレスは自力で立ち上がった。呼吸は荒れ、
 汗は滝のように吹き出ている。出血し過ぎた所為で肌の色は青白く、鋼のような筋肉には
 まるで力感がない。
「思い残しは、ないのか」
「ない。いや……一つある。お前らには関係のない事だがな」
  その言葉に、アウロスが反応を示した。思うのは、二度目のあの訪問。
「グレス隊はフランブルが面倒見るそうだ。多分大丈夫だろう」
「……そうか」
  グレスの目が、スッと力を失う。そして、次の瞬間――――
「ならば……」
  思い起こす事はない――――そう囁いたのは、亡霊か、それとも風の悪戯か――――
  それを合図に、グレスの姿がアウロスの視界から消えた。 
「……暗殺者特有の移動術だ。闇の中なら連中は気配どころか姿も消せる。
 闇に溶けた人間が再び光に照らされる事は、ない」
  誰にともなく発せられたミストの言葉を切欠に、アウロスはやたら重いその腰を上げた。
 ミストの方に顔を向けると、その目に映る自分の顔が見える。それは自分ではないようで、
 少し気分が悪くなった。
「色々と聞きたい事もあるだろう。だが俺は何も言うつもりはない。今日起きた事も、
 それ以前の事もな」
  それを思い違いしたのか、ミストはそんな事を吐き捨てるように呟き、そのまま
 通常の速度の歩行でその場を去った。
  或いは、それはミストが見せた初めての『大学の職員ではない』彼自身だったのかも
 しれない。友人の姿に感情を揺らした痕跡は、確かに具現化していた。
「……”俺”、ですか。久し振りに聞きましたよ、彼のこの一人称」
  アウロスの後ろに立っていた仮面の男が懐かしげに呟く。アウロスは振り向く事なく、
 ミストの足跡を追ったまま息を落とした。
「お前もちゃんと一人称を統一した方が良いんじゃないか、リジル」
「あ、バレてたんですか。結構色々演出仕込んだのになあ」
  あっさりと暴露し、仮面を外す。露わになったその童顔には、ミスト以上の年季が
 篭っていると言う。
「彼とは古い知り合いなんです。グレスさんとも」
  その顔には、取り立てて感情の波は見られない。何を考えているのか――――
 洞察が得意なアウロスにも全く把握する事は出来なかった。
「アウロスさん、御手伝い御苦労様でした。そちらの御希望通り取引に応じます」
「ドラゴンゾンビは何処にやったんだ?」
「消しました。もう用済みなので」
  あっさりと――――余りにあっさりとそう述べる。
「生成物ですから、役割を終われば淘汰されるのが自然の常です。
 彼はもう必要ありませんから」
  彼。
  それは大抵の場合、人を指す二人称。リジルは生物兵器の筈のそれを、そう呼んだ。
 意識的にか無意識にか、それはアウロスにはわからない。言葉通りの感情ではないと
 判断する材料にはなり得るが、それ以上のものでもなかった。
「後日、契約内容についての書類を送りますので、目を通して下さい。今日は御疲れ様でした」
  やや急ぎ足でそう告げ、リジルも去る。アウロスの他に残されたのは、未だ沈痛な
 面持ちのままのルインのみ。彼女にとって、この夜は余りに色々な事があり過ぎた。
 それはアウロスも同じだが、決して同列では語れない。
「ルイン……大丈夫か?」
「それは私の言葉。あの元暗殺者とは親しかったのでしょう?」
  ルインは気丈にそんな言葉を返す。無論、そこに普段の不遜はない。
「もうこの世にはいないって聞かされてたから、生きていた事に驚いただけだ。それより……」
「私は問題ない。覚悟なら、遥か昔にしていたから」
  そっか、と呟き、アウロスは再び腰を折った。風は何時の間にか止んでいる。
 憲兵や教会の連中も既にいない。そんな中、記憶だけが静かに揺れていた。
「あいつを怨んでるか?」
  ポツリと、アウロスが零す。言葉は地面に落ちたが、その中身は宙を舞い、
 ルインに届いた。
「あの男は、フローラを殺し、私を殺さなかった。それが怨めしくないなんて事、
 ある筈がない」
「……だよな」
「でも、もう過去の事だから」
  本心か、そうでないか――――それは本人にしかわからない。しかしルインの
 その答えに、アウロスは心から安堵した。そして、その感情の発生に驚愕しつつも、
 それが自然なのだと自覚した。
「そっか。じゃ、今日は解散。お疲れ」
「怪我はしていないの?」
「大丈夫」
  実は以前負傷した右肩がやたら痛む。しかしそれを言ったところで、余計な心配と
 自責の念を生むだけでしかない。我慢する事が最善と判断し、さっさとこの場を
 出る事にした。
「……」
  しかしルインは、そんなアウロスのやせ我慢に気付いているのかいないのか、
 アウロスの右側に並んで、同じ速度で歩き出した。
「……私に、これ以上生きる意味があるのかしらね」
  そして、虚空を見つめながら、ルインがボソッと呟く。その声は、明らかに震えていた。
「大切な人を巻き込み、死なせて……母親に心底殺したいと思われるような、そんな人間に
 生き続ける価値はあるの?」
「ある」
  アウロスは即答した。ルインは一瞬肩をピクリと動かし、アウロスの方に顔を向ける。
 その表情は戸惑いや逡巡、あらゆる葛藤が現れていた。
「どうして?」
「あるからある。だからある」
「そんな返答、貴方らしくない」
  ルインの尤もな指摘に、アウロスは思わず苦笑した。求められている答えは、
 何となくわかっている。
「俺もお前も、誰だって、生まれた事に意味はないし、生き続ける事にも意味はない。
 死もな。全部ただの結果だ」
  夜風が色なき歪を撫でる。揺れる世界は、どこかで小さく傾いている。
「でも、それらは全部別の誰かにとてつもない意味をもたらす事がある。
 お前が生き続ける事に、誰かが救われているかもしれない」
  頬を掻きつつ、小さな息を漏らす。傾いたままの視線を空へ向けて。
「ちなみに、言い換えると『人は一人じゃない』となる」
「途端に陳腐ね」
  苦いままの笑みは珈琲の味に少し似ている。そこに求めるのは、潤沢と鎮静。
 アウロスの顔が、静かに表情を消した。
「俺は、あいつを……グレスを気に入っていた」
  それは、僅か一週間程度の付き合いで生まれた、確かな絆。アウロス=エルガーデンには
 必要のない、人と人との形なき繋がり。
「出来れば生き続けて欲しかった。でも、それが叶ったからと言って、必ずしも団円って
 訳じゃない。それが残念で仕方ない。アウロスじゃなく、俺自身がそう思う」
  それは生きる事を美しく彩るが、寂寞感や焦燥感、嫉妬心や猜疑心と言った
 負の感情も呼び込む。
「けど、それは暫くは置いておかないといけない」
  普通の人生なら、それもひっくるめて生きがいと言える。だが、今のアウロスは
 どうしても避けなければならなかった。弱い存在の彼に、これ以上弱みを生む事は
 許されない。
「アウロス=エルガーデンの名前を残す為に?」
「ああ。その為には、優先すべき事項以外全てを放棄したり保留したりしなけりゃならない。
 利用の出来ない脆弱性を取り除かない事には辿り着けないから」
  研究も終盤に差し掛かった今、周りにいる人間はそれを決して見逃しはしない。
 割り切るしかないのだ。
「最近はそれが割と辛い。でも、もう少しだ」
  アウロスはふっと息を吐き、ルインに顔を向けた。闇の中でも彼女の美しい相貌は
 目に痛い。これから言う事を躊躇したくなる程に。
「まあ、取り敢えず、だけど」
  それでも、アウロスは決断していたその言葉を綴った。
 自分の声で。そして、自分の心で。
「もう少し、一緒に頑張ってみないか?」
「……」
  ルインは俯き、暫く沈黙した。アウロスはただ待ち続ける。
 本来ならば切り捨てるべき感情と共に。
「私は……」
  果たしてどれ程の間そうしていたのか、双方ともわからない空白を経て――――
 ルインの口が開く。
「私は、何を頑張れば良いの?」
「差し当っては、今日の器物破損の隠蔽工作なんかを」
「そんな事を、私が?」
  ルインが静かに破顔する。柔らかく、温和な笑み。魔女と呼ばれた彼女の姿は、
 もう何処にもなかった。
「わかった」
  シンプルな答えの後、ルインは一足先にその場を離れた。
 一人残ったアウロスは、少し火照った顔で、闇に溶けたグレスの残像を追う。
 約束は果たされなかった。
 グレス=ロイドはそこにはいなかった。それは本人の言葉であって、
 他の誰も覆す事は出来ない。
  寂しい現実だった。
 彼の人生と交わる事はもうない。会う事も、言葉を交わす事もない。
 それでも――――最後にその亡霊と対峙し、話をした事には大きな意味があった。
「じゃあな、グレス」
 別れの言葉が言えるのだから。




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