記憶の中に棲む、刹那る記憶。それは彼がアウロス=エルガーデンとして生きて来た
 道のりの中で、かがり火のように揺らめいている。
 暖かくて、何処か誇らしい、かけがえのない一時。
  それをアウロスは、瞬き一つする間に――――消した。
「お前はあいつの相手をしてくれ」
「あ? お前はどうすんだよ。ここは二対一で確実に仕留めるべきじゃないのか?」
「一応の保険だ。ここに食い止めておいてくれ。頼むな」
  強制的にそう告げ、顔の向きを変える。広がる世界は、閉じられた仰々しい門と、そこから
 左右に伸びる高さ一メートルの塀によって支配されている。飛び越えるのは容易だが、
 
それを許す程寛大な敵ではない。
  アウロスは再びグレスの方を見た。しかしグレスそのものは見ていない。視線は定めず、
 聴覚を丹念に研ぎ澄ます。虫の声や風の音を掻き分け、手掛かりを探す。その様子に
 感じるものがあったのか、ラインハルトは何も言わずにじっとしていた。
 そして――――敵である筈のグレスも、動く気配すらなかった。
「……」
  アウロスの鼓膜に微かな、とても微かな音が届いた。それは声。悲鳴に限りなく近い、
 心からの叫び。その声を拾ったアウロスは躊躇なくグレスの方へ駆け出し――――
 その屈強な肉体の前で速度を緩めず左側に折れた。
  交錯はない。ただ必死に疾走するその背中を、精巧な殺気が静かに見送る。
  アウロスは気付いていた。会議室を離れたその時から、グレスに敵意はなくなっていた。
 そして、アウロスはそれを利用した。目的の為に、大事なものを廃棄した。
 大事な事を放棄した。そしてそれは、いつもの事だった。
「もう一人のヤツには気をつけろ。俺より純度が上だ」
  すれ違う際に聞こえたその声に、一瞬唇を噛む。それだけで十分だった。
  声がしたのは、敷地の西側にある学生寮の方だった。現在は大学閉鎖に伴い、この寮も
 立ち入りは禁止されている。住人は一時的に別の施設で生活しているので、灯りはない。
 アウロスは照明と証明の意味を込め、右手の上に炎を浮かべた。
「ルイン! いるなら返事しろ!」
  全力で呼び掛ける。滅多に声を張り上げる事のないアウロスは、喉も消して強くはない。
 数度の叫びで早くも声が掠れて来た。
「ル……」
  寮の数メートル手前、その地面を照らした瞬間、アウロスの視界に二人の人間が
 映し出された。
  探し人はそこにいた。
「動かないで下さい。小生はこれでも女性崇拝家でしてね。余りこのような体勢を長く
 取りたくはないんですよ」
  つい今しがた、捕獲したのだろう。僅かに息を切らしたウェンデルが薄気味悪い笑みを
 浮かべながら、地面に横たわるルインの首筋に杖先を当てている。ルインは意識こそ
 失ってはいなかったが、まるで最悪な失敗を犯した子供が親の前でどうして良いか
 わからない時のような顔で、アウロスに目を向けようとはしなかった。
「さて……そろそろ詰み、ですかね」
  以前逃がした事が教会の司祭、そして聖輦軍の長と言う立場の矜持を大きく
 傷付けたのか――――ウェンデルの表情はそれを癒すこの瞬間をひたすら
 待ちわびていた事がありありとわかる程、晴れ晴れしいものだった。
「ここまで粘った事には賞賛を惜しみませんよ。お陰で貴重な研究機関に大きな損失を
 与えてしまった。まあ、小生にとっては大した事ではありませんが」
  その言葉を聞きつつ、アウロスは周りを警戒していた。グレスの言葉を鵜呑みに
 するならば、最悪の敵は別にいる。
「取り敢えず、魔具を外して下さい。慎重な性格で申し訳ありませんね」
  ルインの安否を握られている以上、アウロスに選択肢はない。直ぐに左手で指輪を外し、
 ウェンデルに投げ付ける。それを満足気に受け取ったウェンデルは間断なくそれを真上に
 放り投げた。すると――――小さな爆発音と共に、魔具は砕けた。
「最後です。ドラゴンゾンビの居場所、聞きましょう」
  その光景をぼんやりと見ていたアウロスは、返事もせずに警戒を強める。今の芸当で
 確信していた。後一人の敵は、近くにいる――――と。
「沈黙、ですか。では仕方がない。後で弟にでも探させましょう」
  特に困った素振りもなく、ウェンデルが呟く。その下で屈辱的な扱いを受けているルインは、
 特に言葉を発しはせずにあらぬ方向をじっと見つめていた。
「……」
「……」
  視線は絡まない。言葉もない。しかし――――
「さあ、フィナーレです。まずは……」
「誰かいるのか? 今ここは伝染病の調査中だ。即刻立ち退き給え」
  突然の部外者の声にウェンデルの言葉が遮られる。どうやら調査員がいたらしい。
 女性を地面に横たわらせているその光景を不審に思わない筈もなく、ランプをかざした
 途端に顔色を変えた。
「な、何者だお前ら! ローブを着ているって事は魔術士か? 何をしている!」
「折角の盛り上がりに水を差さないで頂けますかね」
  第二聖地の司祭は、頭の中身だけで辿り着ける位ではない。まして、聖輦軍の長と言う
 ポジションにいる人間が臨戦魔術士として無能である筈もない。ウェンデルの薄笑いは、
 それだけでその下地を表現するに十分な程の迫力と狂気に満ちていた。
「ひ、ひいっ!?」
「逃げろ! そいつらはきっと侵入者だ! 殺されるぞ!」
  他にも人がいたらしく、その男は懸命な意見を叫んだ。
(……?)
  その声にアウロスが既聴感を抱く中、調査員は全面的に従い、ランプを捨て一目散に
 
逃げて行く。ウェンデルはそれを特に執着せずに見過ごした。彼にしてみれば、目撃者の
 一人や二人どうとでもなるだけの権力を有しているのだから、当然の事なのだろう。
「やれやれ……とんだ邪魔が入りましたね。では改めて、賞金首から頂いておきましょう」
  嘆息が落ちると同時に、ウェンデルの杖がルインの首を貫かんと持ち上げられる。
 
その僅かな隙間に、小さな結界が生じた。
「む?」
  ウェンデルはそれが結界である事を瞬時に判断出来ず、その思考に空白が生まれた。
 それもその筈。眼下の女性はルーリングなど行える状況になく、もう一人の男からは魔具を
 取り上げてある。予備を持っていたとしても、遠隔で結界を張るような時間はなかった。
 よって、ウェンデルの思考停止は当然の出来事だった。
「なっ……」
  思考が動き出すと同時に、ウェンデルは眼前の男の手に光を見た。アウロスの指には、
 魔具を外した手に持っておいたもう一つの指輪が堂々と嵌められている。八年前から
 構想を練り、ついに具現化された半生の結晶だ。
  切り札は最後まで取っておく――――戦術の基本中の基本である。
  アウロスは『再び』編綴を始めた。空中に描かれる光の文字は僅か一つ。
 それを綴ると同時に、足の筋肉をフル稼働させる。地面を掴んで背後へ放り投げるような
 感覚で蹴り、前傾姿勢でウェンデルへと突進した。その直ぐ後ろで文字は自動的に
 綴られ続け、一つの意味を成した所で役割を終え、消える。その瞬間、アウロスの右手に
 
輝きが宿った。
「ぎ、ギスノーボっ!」
  ウェンデルの叫び声と同時に、凶悪な圧迫感を有する殺気が一気に膨張する。
 それはルインの視線の先で発生した。そこに、もう一人の敵がいる――――ルインは
 それを告げなかったが、アウロスは理解していた。身体の向きは変えないまま、右腕で
 首を巻き込むようにして、掌を後ろにかざす。見えていなくても、その方角は既に知っている。
 最短距離で主の呼び掛けに答えるその魔術士に対して放った閃光は、正確にその顔の
 中心を捉えていた――――が――――当たらない。静寂を切る光の余波がフードを
 剥ぎ取り、若い男の顔を露出させる。彼の名はギスノーボ。ウェンデルの片腕であり、
 聖輦軍で一、二を争う戦闘力の持ち主だ。そんな男の姿を視界に納めぬまま、アウロスは
 僅かに足の運ぶ角度を変えて突進を続ける。攻撃を回避されたのは衝撃音がしなかった
 事で認識済みだが、行動には微塵の無念さも出ていない。完全に不意を付いた形にも
 拘らず回避されたと言う事は、何も通用しない程の実力差があると如実に表している。
 だが、そんなのは気にも留めない。アウロスの戦闘経験の中でその差は寧ろ平常の
 部類だったし、何より今は感情の流動すら邪魔だった。
『もう一人のヤツには気をつけろ。俺より純度が上だ』
  グレスの助言が疾走するアウロスの背中を押す。純度と言う言葉を用いた以上、
 ただ単にギスノーボの魔術士としての強さを警戒しろと言っている訳ではない。ならば
 何の純度なのか――――その答えは彼の役割にあった。それはウェンデルの護衛。
 つまり、護衛としての純度。ウェンデルの危機回避を何よりも優先すると言う行動理念に
 基き、ギスノーボは動く。ならば――――
「……」
  アウロスの無防備な背中に、膨大なエネルギーを含有した光波の照準が向けられる。
 それは、結界を張ったとしても無傷でやり過ごすのは困難な程に凶悪な殺傷力を有している。
 しかし、一向に射出される気配はない。アウロスの背中がみるみる遠ざかる中、ギスノーボは
 全く動かない。動けなかったのだ。
  アウロスの身体は、ギスノーボとウェンデルを結ぶその線上にあった。突進中に
 微調整した事でそれは更に如実となり、ギスノーボの視界にはウェンデルの姿が
 全く映らない。この状況でアウロスを攻撃すれば、その攻撃がアウロスを貫通し、
 ウェンデルをも巻き込んでしまう。万が一避けられれば単なる謀反。この一瞬の間、
 アウロスはその全てを仕組んでいた。初発の攻撃は当たれば儲けもの、防がれても
 微調整の為の時間稼ぎになる。ここまでは読み通りに世界が動いていた。
「な、何をしているっ!?」
  絶大な信頼を置くギスノーボの支援がない事に焦ったのか、ウェンデルの身体は
 硬直したまま動けない。アウロスは徐々にその距離を縮め、そのまま勢いを殺さずに
 体当たりした。
「ぬおおっ!」
  魔術士の中においても細身の部類に入るアウロスの体当たりは決して大きな威力では
 ない。だが、覚悟のないウェンデルの身体は、腹部に受けた衝撃で容易に吹き飛ぶ。
 それと殆ど同時に、邪魔な障害物がなくなったルインの身体が跳ね起きる。身体に大きな
 外傷はないが、唇の端には血が滲んでいた。無論、そんな事は気にも留めない。ルインは
 アウロスの顔を見る事なく、直ぐにその身をギスノーボへと向け、ルーリングを始めた。
 新たに見えた標的に対し、ギスノーボが逗留させていた攻撃を放つ。黄魔術の中でも
 最大級の殺傷力を誇る【審判の終】が、編綴中のルインを瞬く間に捉え、直撃――――
 する寸前にその軌道を大きく変えて上空へと消えた。
「!」
  さしものギスノーボも驚愕を覚えた。防がれるとも想定していない攻撃だったが、何より
 その理由がわからない。ルインは攻撃の編綴を行っている最中だし、もう一人の男に
 結界を張るような時間的余裕はないと判断していたからだ。だが、【審判の終】を防いだのは
 アウロスの綴った【玻璃珠結界】と呼ばれる黄魔術専用の結界に他ならなかった。
 体当たりした直後にギスノーボの死角で綴られた二つの文字とその後ろに高速表示された
 文字は既に消えている。オートルーリングを知らない人間には、何が起こったのかすら
 把握出来ないだろう。
「消えなさい!」
  ルインが怒りを凝縮したかのような咆哮と共に魔術を放つ。【旋輪】と呼ばれる円形の
 風の刃が虚空を旋回し、ギスノーボの身体へと届く――――前に、結界によって
 掻き消された。
  が、ルインは初めからそれを想定していた。本命は次の【安息の螺旋】。頭上に掲げた
 両手に風力を圧縮した塊を宿し、それを敵に叩き付ける前衛魔術だ。威力は緑魔術の中でも
 トップクラス。しかし扱い辛い為、使い手は少なく防御手段も余り普及していない。それ故に
 一撃必殺の術ともなり得る。
「砕け散りなさい!」
  目にも止まらぬルインの疾走。ギスノーボが結界を張った瞬間にはもう走り出しており、
 その身体は既に標的まで三メートルを切っていた。敵の反撃などまるで頭にない、特攻にも
 似たその攻撃にギスノーボの表情がやや強張る。しかし、戦闘の専門家は身体までは
 硬直させない。ほぼ無拍で綴った七の文字が、ルインの前方一メートルに浮かび、消える。
 並の魔術士なら何も出来ずにルインの攻撃を受けるところを、結界どころか攻撃魔術による
 カウンターで返り討ちにするだけの余裕が彼にはあった。
「ルイン!」
  アウロスは瞬時にその攻防の結末を悟り、同時にそれを引っ繰り返す為の魔術を綴る。
 ギスノーボが何を綴ったのか、アウロスには見えていない。ルインへの直撃を防ぐには、
 それを読み切るしかなかった。
(明らかに黄魔術が得意な魔術士が、この状況で他の魔術を選択出来る筈がない――――)
  僅か一秒にも満たない最終局面の攻防。アウロスはその中でしっかりと判断をし、
 遠隔結界を綴る。一寸の淀みも、一瞬の逡巡もない。
「おのれ虫ケラがあああああっ!!」
  背後から司祭の絶叫が聞こえる。
  当然耳など貸さない。
  膨張する熱量も無視。
  ほんの少しでも意識を分担したら間に合わない。
  それが例え、自分自身を裏切る事になろうと構わない。
  少年は自身の全てを賭け、想いを綴った。
(すまん、アウロス)
  約束などではなかった。或いは、ただの自己満足に過ぎない事。
 しかし、アウロスは心中でその名に謝った。
「死、ね、え、え、え、え、え・・・・・・」
  やたら緩やかに聞こえる自身への鎮魂歌を背に、アウロスは僅か二文字の結界を
 
綴り終わった。
  後は魔具がやってくれる。オートルーリングでなければ絶対に間に合わない局面は
 これで三度目。間違いなく、この技術は魔術士に必要とされる――――そう確信しながら、
 アウロスは自分の研究の成果を見届けた。




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