深夜と呼ぶにはまだ浅い時間帯ながら、人気は随分と減っていた。
 歩く度、繁華街の光が徐々に視界から減って行く。アウロスはその光景に
 痛みを覚えていた。
(普通は寂寞感なんだろうけどな……)
  思うのは、長期間過ごした闇の中から開放されたあの日。少年にとって、
 自分と言う人間を初めて光に晒したあの日。まるで時間を遡り闇に還るかのような
 錯覚を引き起こすこの道を、アウロスは重い足取りで踏み締めていた。
  ふと――――その足が止まる。
  それと同時に、背中に風が舞った。
「動かないで。動けば首が落ちるから」
  その言葉と同時に、アウロスの首筋に冷たい何かが当たる。視界には
 納まっていないが、それが短刀である事は容易に想像された。
「要求は?」
  アウロスは努めて冷静に問う。その声は日常の会話と何ら変化はない。
「貴方が今行っている研究を即刻止めなさい」
  その様子を気にも留めず、襲撃者はくぐもった声でそう答えた。
 意図的に声を変えているようだ。
「それは、研究者ではない人間になれ、って事か?」
「研究は続けて良い。でも、今の研究は止めて」
  声は女性のそれだった。そして、わかったのはそれだけではなかった。
 アウロスは幾つかの判断とそれに伴う行動方針を即座に決定し、始めの言葉を紡ぐ。
「つまり、生物兵器を使うな、と」
「!」
  その瞬間、襲撃者は驚愕を露わにした。驚愕は人の筋肉を硬直させ、
 反応時間を遅らせる。限りなく密着に近い状況において、それが致命傷となるのは
 至極当然の事だった。
「あっ!?」
  続いて、アウロスの頭が豪快に後ろへと振られ、後頭部と額が衝突する。
 硬度は後者の方が上だが、衝突を覚悟する者と不意を付かれた者とでは、
 その衝撃には大きく差が出る。
「うぎゃっ! 痛っ! いったーーーっ!」
  襲撃者が額に手を当ててのた打ち回る中、アウロスは嘆息混じりに、
 そして絶対零度くらい冷静にそれを見下ろした。
 全身黒ずくめで、顔は布のような物で覆っている。目の部分だけは穴を
 開けているが、微妙にずれており非常に見え難そうだった。
「まず一つ。刃物を突き付つけたくらいで絶対優位だと思うな。頚動脈を切って
 指で押さえるとか、足を掛けて倒してアキレス腱を切るとかしないとな」
  闇と布に覆われている襲撃者は、それでも涙目だとわかるくらい、
 へなちょこな空気を醸し出していた。
「それと、狙いを看破されたくらいで驚き過ぎだ。別に大した不利益は
 ないんだから堂々としてろ」
  その空気が徐々に膨張する。それは、かつてアウロスが日常に感じていた
 ものと何ら変わりなかった。
「後、そんな細腕で首なんか落とせないから。自分の限界くらい知っとけバカ。
 そもそも刃物で脅すなら偽でも良いから殺気くらいは放てバカ。声だけ
 それっぽくしても殺す気ゼロが丸わかりじゃ意味ないだろバカ。木の棒で脅してる
 ガキんちょと全然変わらないぞ、この下っ手糞」
「きーーーーっ! 何で脅してる側がバカ呼ばわりされなきゃなんねーんだよ
 チクショー!」
  その声は、以前アウロスが定期的に聞いていたものだった。
「夜中に騒ぐなバカ。近所迷惑を考えろバカ」
「うがーっ!」
  そして、屈辱にのた打ち回るその姿は、アウロスがそう遠くない過去に
 何度も見たものだった。
「さて。それじゃ尋問を始めるとする」
「じ、尋問……? はっ! 舐めないでよね! 私がそんな簡単に
 屈すると思ったら……」
「ああん?」
「は、はい! 力の! 力の限りにお答えしますのです!」
  全力で屈するその姿に嘆息しつつ、アウロスは自分へ問い続けた言葉を
 そのまま送った。
「何故急に辞めた?」
  数拍の間。そして、間の抜けた声。
「あれ? もしかして、私の正体……バレてる?」
「お前は今までバレてないとでも思ってたのか? ルマーニュさん家の
 ラディアンスさん」
「なーっ! どっ、何処でバレた!? くそっ、色気か! この闇の中でも
 ムワッって出ちまう大人のフェロモンが私を私であると定義して
 止まないのかっ!」
  顔を覆った布を剥ぎ取り、地面に叩きつける。露わになった顔はまさしく、
 アウロスの記憶の中にある、一つ年下の少女のそれだった。
  ラディアンス=ルマーニュ――――アウロスの前から姿を消した、
 自称【奇跡の情報屋】。格好こそ暗殺者ばりの黒装束だが、その年齢以上に
 幼い印象を受ける顔立ちは何ら変わっていない。それにアウロスは少しだけ
 安堵を覚えていた。
「うう……緊迫感溢れる衝撃の再会だった筈が、何で屈辱感溢れる傷心の
 反省会に……」
「知るか。それにしてもお前、気配消すの上手いな。俺が察知するのを
 苦手にしてるってのを差し引いても、一流クラスだった」
  アウロスの言葉に、ラディが力なく笑う。しかし次の瞬間、それは消える。
「これまでもそうやって見張られてたんだろな」
「……!」
  動揺は目に現れた。カマ掛けと言うにはかなり確率的に分の良い
 指摘だったが、アウロスは余り良い気分にはなれず、こっそり嘆息した。
「ミスト教授を必要以上に怖がるのも、それと関係あるだろ。大方話題を
 逸らす為、ってとこか」
「いやー、まあ半分は素でなんだけど」
  悪びれない様子で、しかし目は虚ろに、ラディは事実上の肯定を告げる。
 自分が――――監視と密告を行っていると。
  アウロスは少し顔をしかめて、後頭部を強めに掻き毟った。
「情報屋としての誇りは感じてたんだけどな。こう言う所はどうにも
 経験が足りないな。俺は」
「……」
  ラディの下唇に歯が当たる。その様子をチラっと覗いていたアウロスは、
 内心で満足と安堵を織り交ぜた感情を抱いた。
(これなら、大丈夫そうだな)
  アウロスの言葉は試験だった。そして、ラディはそれを通過した。
 後は、彼女の好きにさせる――――そう思い、沈黙を守る。
 暫くして、ラディの口が開いた。
「私の身体を直す方法を探してやる、って言われて……」
  声がうわずる。そして掠れる。これが演技なら、それで一生
 食べていけるくらいに。
「自分で探すのは辛いだろうって。あいつ、人の思考とか弱点を読むの
 凄く上手。そりゃ出世するし、あんな顔にもなるよ」
  皮肉めいた言葉とは裏腹に、肩が震えていた。
「重大な裏切り行為ってのは百も承知だから、何されても仕方ないのは
 わかってる。殴る蹴るの暴行、罵詈雑言、ギルドへの報告、
 何でも受け入れる」
  ラディはつかつかとアウロスに近付き、立ち止まる。顔は俯いたまま動かない。
「……そうか」
  アウロスは沈黙のままに振り向き――――頭を下げた。
「んがんんんっ!?」
  再び頭突きで来るとは全く予想していなかったのか、奇声と共に倒れ込む。
「いったぁ〜……うう、同じ場所をまた……ちょっとくらい手加減してくれたって
 良いじゃない」
「自分の発言に責任を持て」
  決して石頭ではないアウロスも額に若干ダメージを受けていた。
 その箇所を押さえつつ、涙目でしゃがみ込むラディに手を差し出す。
「ほら、さっさと立て」
「え? こんだけ?『この裏切り者!』とか『信じてたのに……畜生!』とか、
 そんなのはないの?」
「全然」
「えーと、私、もしかして全然信用されてなかった?」
「無論だ」
「いや、ホラ、ライセンス渡したじゃない。抵当扱いで。まさかあれを
 預けておきながら……とか、そう言うのは?」
「微塵も」
「……ゴメン。情報漏洩なんてやっといてアレだけど、ちょっと傷付いた」
  ラディは大泣きしそうな程に顔を歪めていた。
「悪いな、こう言う性格なんだよ。そもそも知られて困る事もなかったし、
 お前は安いから十分それで価値はある」
「止めて! 安い女なんて言わないで!」
  傷心中のラディは訳のわからない傷を増やし、頭を振って叫ぶ。
 そして暫く項垂れたまま沈黙し、ポツリと漏らした。
「まあ、値段なんて付く訳ないか。こんな身体で、情報漏らす情報屋なんて」
 その声に応えはなく、結果的に独り言になった。その代わりに、アウロスは
 差し出した手を軽く振る。
「ほら、手」
「ん」
  アウロスの手をギュッと握り、立ち上がる。その動作から、彼女の身軽さや
 運動能力の高さはわかる。同時に、彼女がどうやって生きてきたかも。
 そうならざるを得なかったのだ。
「じゃ、そろそろ話して貰おうか」
「あい?」
「あい? じゃない。お前が辞めた理由だよ。罪悪感から……ってんなら、
 あのタイミングである必要はないよな。生物兵器を俺から遠ざけようとしたのと
 関係あるのか?」
「……」
  顔を背け黙秘の構えを取ったラディに対し、アウロスは闇夜に映える
 美しい光を指に灯して威嚇した。
「わっわっ、言います言います! 言うからその物騒なの消して!」
  効果は覿面だった。ラディはしゃがみ込んだまま何やら不満そうに
 上目で睨みつつ、大して重くもなかったその口を開いた。
「生物兵器はね、ダメ。あれは使っちゃダメなものなのよ」
  視線が宙に浮かぶ。虚空は闇と共に薄い景色を映していた。
 輪郭のぼやけた世界に罪はない。しかし、それはまるで何らかの罰のように
 見えてしまう。
「お前、もしかして保守派の人間なのか?」
  生物兵器の魔術研究への利用を反対する人間としては、その製作者たる
 【トゥールト族】と生物兵器反対派の魔術士が挙げられる。前者なら生物兵器
 そのものを否定する筈がないので、アウロスは後者と読んだ。
 しかし、その読みは見事に外れたらしく、ラディは首を横に振って否定した。
「私は、それで人生を壊された人間なの」
  ラディは切々と語り始める。彼女本来の明るさをくすませて。
「八年前。私はこの【ネブル】の郊外で、家族と共に暮らしていた」
「悪いけど要点だけで良い」
「……私の家は割と裕福で、食べ物や服には不自由ない生活を営んでたの。
 両親と私と兄、四人で」
  アウロスの要求は棄却された。
「そんなある日、私はいつものように、街の公共井戸に水を汲みに行ったのです。
 御近所のクレデリクスおばさんとベレネスベリお姉ちゃんに挨拶して、悪ガキの
 フレッドにタルタルアタックをぶちかまして……」
「だから要点だけで良いっつってるだろ。つーかタルタルアタックって何だよコラ」
  アウロスの疲労がぼちぼちピークに差し掛かって来た。
「樽でドーン! そんだけよ。で、そんなこんなで色々あった結果、私は
 生物兵器の被害を受けたのでした」
「要点だけってのは大切な箇所だけを掻い摘めって意味で、適当に省略しろって
 意味じゃないぞ」
「あーもう色々うるさいな! 誰かが井戸の水を生物兵器で毒に変質させてたのよ!
 それを私が最初に使っちゃったの! 水浴びに!」
  ラディは半ばヤケクソ気味に叫んだ。
  生物兵器とはその名称もあって『生物を兵器化する技術』だと思われがちだが、
 実際には『生物の性質を利用した技術』だ。死んだ生物の骨や皮を使って
 ゾンビを作るのも、生きた微生物を使用して毒を作り出すのも、同じ生物兵器の
 範疇に入る。ラディが被害を受けたのは、後者の部類であると想像される。
「八年前……戦争の時期か」
「その結果、私は、もう人前で肌を晒せない姿になってしまったのよ」
  そう言いつつ、ラディは自分の身体を締め付けるように抱きしめた。
「家族は私を疎んじた。そりゃそうよね。こんな気味の悪い肌の女の子、
 人間に見えないもの」
  アウロスの目に、その肌は見えない。それを見る日も来ないだろうと
 思いつつ、引き続きラディの話に耳を傾ける。
「家に居られたのも、それからせいぜい何ヶ月かってトコ。半ば強制的に
 追い出された私は、生きる為に色んな所を転々とした。生きる為なら
 犯罪だってやった。尤も、こんな身体だから女の武器は使えなかったけどね」
  しかし、ラディはその言葉の後に――――身に着けていた黒装束の襟首を
 引っ張り、肩の辺りを露出させた。暗闇でぼんやりとしか見えないその肌は、
 それでもケロイド状に爛れている事が理解出来る程に、はっきりと変形していた。
「でもやっぱりね、口惜しかったのよ。何でこんな身体になっちゃったんだ、
 何で私が家族に追い出されにゃならねーんだよ、って。だからこの身体を
 元に戻す情報が欲しかったのですよ」
「それで、情報屋か」
「まーね。情報を得る為、そしてその情報を買う為の資金集め。この仕事しか
 ないって思った。そんで、腕利きで評判の情報屋……まあ良くあるパターンで
 酒場のマスターだったんだけど、その人に師事を仰いで、ノウハウを学んだって訳」
  ラディの口はそこで閉じた。
「だけど、それなら生物兵器を使おうとする人間の傍にいる方が情報は
 入って来るだろ。どうして辞める必要があった?」
「……」
  沈黙を風がさらう。ラディは無言のまま衣服を握る手に力を込める。
 無意識の内に。
「私は、生物兵器が憎い。私の人生を壊したんだから当然でしょ?
 そんなのを研究する人と一緒にはいれないよ」
  その手が、ゆっくりと脱力した。
「……ったく」
  アウロスの方に、不満が募る。表面化させるのは拒んだが。
「言えよ、そんな大事な事は」
「私が嫌だっつったら、使うのを止めたの?」
「それはない」
「……でしょうね。ロスくん、あの論文に命掛けてるって感じだもん。大体、
 雇ってる情報屋が嫌がるからって研究のやり方を変える人、大学にはいないでしょ」
「でも、話せば意識が変わるかもしれないだろ」
「何言ってんのよ。あんたの研究が認められて、それが沢山の魔術士に広がったら、
 生物兵器を研究に使う魔術士は増えるかもしれないじゃん。そしたら、私みたいな
 被害者が絶対増えるよ。私にその手伝いをしろっての?」
  普段適当な発言ばかりしているラディらしからぬ、考察の跡が垣間見える発言。
 とは言え、アウロスはラディをバカと罵る事は多いものの、彼女の知能を低く見た
 事はない。よって、驚く事はなかった。
「お前の言う通り、俺は生物兵器を世に広めようとしてる。研究に使う生物兵器は
 人体に影響を及ぼす類の物じゃないが、それは余り関係ない。結果的に、
 生物兵器の被害者が増える可能性はある」
  アウロスが研究に使用する【ノクトーン】はあくまでオートルーリングの
 技術の中の一つであり、それ自体に殺傷力や凶悪性はない。しかし、どのような
 種類であれ、生物兵器が世に広まったと言う事実が出来てしまったら、
 生物兵器の市場への扉は開く事になる。一度開けば、そこから水のように
 止め処なく流れ続ける。どのような事に対しても言える事だ。
「……」
  ラディの顔に険が刺さる。その様子を確認し、アウロスは続けた。
「そして、同時に対策や治療の方法も増える」
「え?」
「当たり前だろ。生物兵器で被害を受ける人間が増えれば、その対策の需要も
 増える。当然、多数の人間が研究を始めるだろな」
  需要があれば供給が生まれる。世の常だ。
「そうなれば、助かる人間の数も今より増える」
「それは詭弁よ! そんな保障、何処にもないじゃない」
「ならお前は、今のままで良いのか? 普及していない代わりに、対抗する術もない。
 絶対数は決して多くないが、社会の闇で苦しむお前みたいな人間は確かにいて、
 その人達は救われないままだ。それで満足なのか?」
  アウロスの厳しい心遣いに、ラディは思わず顔を背ける。
「俺は生物兵器を利用して、他人を傷付ける可能性のある技術を作ろうとしてる。
 それは否定しない。お前の受けた被害とは違ったとしても、俺の所為で死ぬ人間も
 出てくるだろう」
  丁寧に、そして適度に柔らかく。
「でもな、そんなのいちいち気にしてたら誰も何も出来やしない。人を救う為に
 作った薬が、何処かの誰かがその処方を間違えた所為で死んだとして、それが
 開発者の責任になるか? なる訳ないだろよ。使う人間が腐ってたら何だって
 凶器になるんだ」
  それは正論だった。しかし正論は必ずしも正しい訳ではない。アウロスはそれを
 重々承知しつつ、ラディに突き付けた。
「それでも、お前は俺が許せないか?」
「わかってるってば、そんなの。頭ではわかってんのよ。でもね、現実は
 そんな簡単じゃないの!」
  言葉は幾らでも飾る事が出来る。高尚に、そして美しく。しかし現実は――――
「簡単に、割り切れない……」
  ラディの身体が沈む。弱い人間の心を具現化して彫刻にでもしたら、
 このような姿になるのだろう。それは押せば倒れる程に脆い、極限まで
 削られた作品。それ故に、誰も触れない。近付けない。
「……」
  けれど、アウロスはしゃがんだままのラディの正面で腰を屈め、彼女の肩に
 手を置いた。その手には人の温もりがまるで伝わって来ない。
 ラディは、凍えていた。
「確かに、最初にこれ見たら吃驚するな。顔を背けたくなるかもしれない」
「……」
  おぞましく思うその素肌に触れられたラディは、身を竦ませ唇を噛み、
 耐えるように全身を強張らせている。それは羞恥と言う次元を遥かに越えた、
 精神の蠢動だった。
「でも、もう慣れた。これでもう何とも思わない」
「嘘」
「ってか、俺も似たようなもんだし」
  今度はアウロスが服を捲って肌を見せる。奴隷時代に散々受けた人体実験の為の
 魔術による痕跡は、腹から背中にかけて間断なく残っている。
「わ……」
  ラディはその姿に反射的な嫌悪感を抱いた。
「昔、奴隷だった頃があったんだ。散々攻撃魔術でいたぶられた。四肢や顔には
 負っていないが、他は火傷や痣で一杯だ」
  そこまで言った後で、アウロスの顔が綻ぶ。
「お前今、うげっ、って思ったろ?」
「え、いや……うん」
  素直に頷く。
「これからもずっとそう思い続けるか?」
「ううん。慣れればどって事ない」
「だろ」
  アウロスは自分のその身体に多少なりとも劣等感を抱いてはいた。どんなに
 暑くても人前で肌を晒す事はしなかった。ルインやウォルトですら、この身体の
 事は知らない。それくらい、他人に知られる事を拒んでいた。
 それが今、一人の知り合いの少女の心を僅かとは言え癒した事で、アウロス自身
 救われた気がしていた。
「男の身体の傷が女のそれと同じ重さだなんて言わない。俺がこうだからって
 お前の気持ちがわかる訳じゃない。でも、俺だってお前にはない劣等感はある。
 人のそれを心の中で笑ったり見下したり気持ち悪がったりなんて事はない。
 そんな余裕ない」
  捲くし立てる。そう言う気分だった。
「だから、お前は俺といろ」
「!?」
  ラディは身をビクっと震わせ、物凄い勢いで立ち上がった。そんなラディの
 反応に目もくれず、アウロスは続ける。
「生物兵器が怖いなら、俺の研究に使うそれを見て、それに慣れろ。最初は『こいつ
 何でこんな気持ち悪いの使うんだろバカじゃないの?』って思ってくれても良い。
 最終的に単なる技術の一つだって思えるようになれれば良い。そして、自分が幸せに
 なれる方法を探せ。俺の近くなら、それが見つかり易いかもしれない」
  それなりにまとめたつもりで、視線を送る。
「どうだ?」
「ど、どうだ……って。そんなの簡単に決められる訳ないじゃない」
  しかしラディの反応は期待したものではなかった。
「まあ、それもそうだ。じゃ、考えろ。一分で」
「一分!?」
「俺なら十秒で判断するし」
「わ。わかった。ちょっと待って」
  ラディは律儀に一分考えていた。その表情には何故か時折、人生観的なものが
 垣間見えたりした。
  そして、結論。
「あ、あのね。ええと……何ていうか、まだ早いと思うのよ。ホラ、まだ十代だし?
 いやね、まだ遊びたいとかそう言うんじゃないよ? でも、心の準備と言うか、
 身体の準備と言うか……このままだと文字通り傷の舐め合いだし? それに、
 幾ら追い出されたと言っても、家族の問題もあるし。あ、嫌って訳じゃないのよ?
 でもさ、こう言うのってもうちょっと時間を掛けてと言うか、そりゃシチュとしては
 文句なしだけどさ。久し振りの再会で――――って、割と良くあるパターンだよね。
 ま、まあ、そこまで言ってくれるのなら、やぶさかではないって感じなんだけど、
 まずはええと、しょ、将来を誓い合った仲? そんな感じでどうかなー、なんて……
 って、ちょっと! 何あさっての方見て耳穿ってんのよ!」
  久々の長台詞に対し、アウロスはホラの辺りで見切りを付けていた。
「で、どうなんだ。要点だけで良いから」
「だからっ! ええと……基本的には、宜しくお願いします」
「良し。じゃ再契約って事で」
「……再? 契約はわかるけど。あれって神様との契約とかそんな感じだもんね」
「神様……? まあいいや。兎に角、契約書は明日にでも作るから、夜にウチの
 料理屋に来てくれ。まだあそこに住んでるから」
「契約書……あ、アレね。わかった。心を込めてサインするから」
  ラディは頬を染め、胸に手を当てた。その周りには花とか鳥とか
 そんなのが色々舞っている。
「でも良かったよ、後任者決めてなくて。これが一番理想的な展開だったしな」
「理想的だなんて、そんなやだ……って後任者? 後任者……後妻?」
  ラディは混乱していた。
「後妻って何だよ。こうにんしゃ。情報屋の後任者」
「情報屋」
  頭の中が乱れている為、単純な情報すら認識が出来ない。棒読みで
 鸚鵡返しするのが精一杯だった。
「お前、情報屋辞めたのか?」
「辞めてないけど……あれ? 情報屋? 後任者? ん? んん?」
「どうした。さっきの頭突き二連発が効いて来たのか」
「……」
  額にそっと手を置き、暫くの間沈黙する。そして、ボーっとした面持ちのまま
 その手を上に挙げた。
「一つしつもーん」
「どうぞ」
「私、プロポーズされたんだよね?」
「誰に。ってか、そんな物好き居るのか?」
  半眼で吐き棄てるアウロスに、ラディの汗腺が反応を示す。つーっと頬を伝う
 雫は一度も止まる事なく地面に落ちた。
「お前は俺といろ、って、プロポーズの言葉で100位以内には入ってるよね。きっと」
「微妙な所だな。『ずっと』とか『傍に』とか入ってたら可能盛大だけど」
「……」
  ラディはのろのろと地面に落ちてあったナイフを拾い上げ、その先を
 邪悪な面持ちでアウロスに向ける。そこには先程全然なかった殺気が
 しっかりと篭っていた。
「……コロス」
「は?」
「全身全霊を賭けて天地神明に掛けてあんたを殺す!」
「何なんだ一体! 止めろ、刃物を振りかざすな!」
「私の乙女心に謝れええええっ!!」
  五分揉めた。
「ったく……」
  それで幾分スッキリしたのか、ラディの顔から影が消えていた。
「でも、どうしてまた雇う気になったの? 私がした事、情報屋として最低だよ?」
「ああ。最低だ。もし俺がお前の師匠なら、逃げた時点で後頭部に氷の塊を
 ぶつけてただろう」
「ま、まあ当然よね。それなら尚更、何で許すの?」
  ラディの問いは、許しを請う人間の切なる願いよりも、純粋な好奇心が
 勝っているように、アウロスには感じられた。普通の人間なら不快感を
 受けかねないところだ。しかし、アウロスはそれに寧ろ満足感を覚えていた。
 同類――――そんな言葉が脳裏に彷徨う。
「お前の行動は最低だが、お前個人を責める理由にはならない」
  心中で苦笑し、見解を述べる事にした。
「まず、情報漏洩に関しては、ミストの強制的な取引によるものだと判断する。
 そして、これはお前には拒否出来ない。すればそこで話が終わるからな。
 つまり、俺との契約にはミストへの情報漏洩が嫌でも付属されるって訳だ。
 俺はこれを騙されていたとは思わない」
  騙されていないのであれば、非難する理由にはならない。
「で、それを黙ったまま逃避したのも、生物兵器に対する拒否反応と――――
 ちょっとくらいはあると信じて――――俺への罪悪感がそうさせたのなら、
 俺にも原因はある。差し引きでせいぜいさっきの頭突きくらいだ」
  人の弱さは、時として非難されるべきだ。しかし人間である以上、強さもあれば
 弱さもあり、そこには様々な模様がある。それを逐一非難する訳には行かない。
  アウロスの診断結果は更に続く。
「俺を襲ったのも同様。殺す気なしのなんちゃって脅迫なんて、やっぱり頭突き
 一発程度のもんだ。後は……日頃の行いに関しては給料に反映させてるし、
 仕事に関しては今の所不満はない」
  そして、締め。
「結論。全て許せる範囲内の出来事だった」
  つらつらと並べ、そう言い切った。ラディはどうにか表情を変えまいと
 努力しているようだが、その目からは隠しようのない感情が溢れている。
  彼女にとって、自分の不徳をここまで明確な言葉と理由を添えて、許して貰う
 と言うのは、初めての経験だった。
 それは親も、師匠も、そして周りの全ての大人が拒否した行為だった。
 同情も忌避もない、人と人との普遍的な接点――――
 ラディの夢の欠片がそこにはあった。
「ゴメンなさい」
  ラディは謝った。そして、アウロスはそれをゆっくりと受理した。
 許される事だと判断しているのだから、それは当然の事だった。
「あのね、1分だけ泣くね」
 涙はとうに流れていたが、ラディはその言葉を切欠に嗚咽を漏らした。
 吐き出すように、そして訴えるように。
 自分はここにいるのだと、そう訴えるように。
「はい、1分」
「……1分って早いね」
  言葉通り、ラディは1分で泣き止んだ。
 彼女には意思がある。強くはないし、真っ直ぐでもない。けれど、信念を感じずには
 いられない。アウロスは、そこにこっそりと尊敬の念を見出していた。
 それが、彼女の復帰に固執した最大の理由だった。
「続き。私が逃げた時、情報を持ち逃げされたとか思わなかった?」
「残念だけど、俺の研究はそこまでの価値はまだない。世に出て普及して、
 初めて振り向かれる、そんな存在だ」
  それはつまり、彼ら自身の事でもあった。
「その辺はミスト教授もわかってるから、特に口封じみたいな行動はなかったろ?」
  ラディは無言で首肯した。
「大体、顧客の情報を持ち逃げするんなら、辞めると言わず出て行くだろう。
 まあ、実を言うとこれに騙されてたところが大きいんだけど」
  そう言って、折り曲げて衣嚢に忍ばせておいた羊皮紙をラディに渡した。
  正確には『返した』。
「うわ。これ持ち歩いてたの? 何で?」
「何となく」
  勿論それは嘘だった。意味を成さない抵当だったが、個人情報を集める
 手掛かりにはなる。それを口に出すのが癪だった。
「はあ……敵わないないなあ、全く」
  ラディは嘆息交じりに呟き、その羊皮紙を胸に仕舞った。
「最後。戻って来た理由、聞かないの?」
「必要ない」
  即答に、ラディの顔が再び歪む。暫くそれに耐え、次は言葉を探し、整理する。
 その作業には2分を要した。
「……私は、こう言う生き方しか出来ない人間だし、それに徹する強さもないみたい。
 軽蔑されるのも当然だし、辞めさせたいなら何時そうしても良いよ。
 自虐は嫌いだけど、私は相応しくないと思うから」
  それは、卑怯とも取られかねない言い方だった。
 仮に少しでも笑みやおどけた所があれば。
 しかし、その色は微塵もなかった。
「知恵を使う生き方は嫌いじゃない。せいぜい俺を利用しろ。その分利用させて貰う」
「うん。そうする」
  利害関係。
  合理主義。
 それらは度々冷たい言葉と言われてしまう。しかし、結局は結ぶ糸の色や
 結び方の一つに過ぎない。繋がる二人がどう在るか――――大事なのはそれだけだ。
「……ロスくん、やっぱちょっと変わったねー。何か優しくなった?」
「下らない事言ってないで、とっとと帰れ。ちゃんと明日店に来いよ」
  頬をポリポリ掻きつつ命令を下す。しかし言われた本人は聞こえなかったのか、
 地面を見つめて何やらブツブツ言っていた。
「生き方とか存在とか、肯定されたの初めて」
  そして、突然顔を上げる。
「これってやっぱり、プロポーズと受け取っても良いんじゃない!?」
  どうよ、と言わんばかりのその発言は虚空と戯れた。アウロスの背中は既に遠い。
 と言うか見えない。
「だー、もう! 人の話を聞かないトコはちっとも変わってねー!」
  表面上は普段と変わらないその言葉。
  しかし表情はと言うと、必ずしもそうではなかった。
  
  と、そんなこんなで――――
  アウロスは再び粘着質な情報網を得た。




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