「……ん」
  目覚めはいつも通り研究室で。
  アウロスは脱力した身体にそっと力を注入し、寝ぼけ眼のまま床から立ち上がる。
 その肌に過剰な分泌液の付着はない。悪夢はもう襲撃して来なくなっていた。
「おはようさん。良く眠れた?」
  ぼやけた意識にクレールの声が優しく届く。
「……久々に熟睡した気がする」
  眠気の残る顔でそう答えたアウロスに、すっと細い手が伸びた。クレールの位置は
 アウロスから数メートル離れているので、その手は彼女のものではない。
 アウロスは一瞬驚いたが、それが杞憂だと直ぐに気付き、緊張を解く。
「目脂」
  スラッと伸びた美しい指が、アウロスの睫毛を微風のようにそっと撫でた。
 されるがままのアウロスに、ルインは穏やかな顔を添える。
「身なりはきちんとなさい。社会人なのだから」
「あ、ああ」
  すっかり眠気の取れたアウロスを少しの間眺め、ルインは自分の席に戻った。
 その様子にクレールが寒々しい目を向ける。
「何か見てるこっちが恥ずかしいんだけど」
「謂れのない羞恥心で非難されても困る」
「ま、いいけど。はあ……私も一時の和みに身を委ねてみたい」
  訳のわからない憧憬の念を頬杖付きで吐き出すクレールの横を、今しがた入室してきた
 レヴィが通る。その足は真っ直ぐにアウロスの席へと向かった。
「実験は終わったのか」
「やれる分はな。後は生物兵器関連の問題だけだ」
「そうか。随分早いな。相当な量の実験が必要だっただろうに」
  アウロスはこの大学に勤めて以降、一度も自主的な休暇を取っていない。
 特に研究が進展してからは、睡眠と食事以外はほぼ全て研究に費やしていた。
 魔力量が少ない為、一日に出来る実験の数は人よりも限られているのだが、通常であれば
 打ち切る段階でも止めず、毎日魔力が完全に尽きるまで、手と品を変え続けた。
「……大したものだ」
  レヴィは呟くようにそう賛辞を送り、自分の席に戻った。その様子を眺めていたクレールが
 目を丸くしてアウロスに微笑み掛ける。
「凄いじゃない。レヴィから認められてるよ。あんだけ嫌われてたのに」
「……」
  アウロスは複雑な表情でそれを受け流した。
「アウロス君、いる?」
  再び扉が開き、すっかり耳馴染みとなったウォルトの声が研究室に響く。
「ああ。えらい早いな」
「実験は一通り終わったけど、まだ細部に手を入れたいから。指輪のサイズ分けなんだけど……」
「うい。その話なら俺がそっちの研究室に行った方が良いな」
「そうだね。じゃ、行こうか」
  早朝から仕事に精を出す二人だった。
「レヴィじゃないけど、本当大したバイタリティーよね。期限のない研究にあそこまで
 入り込めるって」
  感心と呆れを交えて評するクレールの視界に、閉じた扉をじっと眺めるルインの顔が映る。
「何? アウロスくんを彼に取られて口惜しいの?」
「……愚かな女」
  無表情でボソッと呟き、首を正面に戻す。
「くっ、年下のクセにいつもいつも可愛くないったら……」
「何故奴の椅子を蹴る?」
「別にっ」
  苛々しつつも何処か楽しげなクレールの様子に、レヴィは静かに嘆息した。
「にしても、最近微妙に学生の数減ってるね。さすがに無駄って悟ったのかな?」
  クレールの言葉通り、ここ数日ミスト研究室を訪問する学生の数が減っていた。
 それが不服と言う事はないにしても、変化に対する疑念は自然と湧く。研究者の性である。
「体調不良で休む学生が増えている。恐らくその影響だろう」
「へえ……風邪が流行ってるのかな」
「風邪ではない。もっと厄介なものだ」
「?」

「……流行り病?」
  挨拶してくる学生達に返事をしていたアウロスは、その言葉に思わず顔をしかめた。
「うん。割と前からそう言う話はあったみたいだけど、特に最近体調を崩してる学生や職員が
 多いみたい。ウチの研究室でも一人休んでる人がいるよ」
「詳しい原因は?」
「わかってないと思う。そう言う話は聞かないし……ん?」
  一階に降りたと同時に、騒がしい声が火花のように散っている。
「あれは……元ライコネン研究室の奴らか」
  音源は保健室の前だった。
「せ、せんせ〜……俺もうダメだ〜。もう無理だよ〜。帰りて〜よ〜」
「あらあら。そんなおいし……情けない顔して。どうされましたー?」
「知らね〜よ〜。訳わかんね〜よ〜。くらくらするよ〜。もう帰りて〜よ〜」
「しっかりしろコラ! お前がいないと論文がスイングしないだろ!」
「意味わかんね〜よ〜」
「ジェラシーだよ。ジェラシーが俺にこう言わせんるんだ」
「もっと意味わかんね〜よ〜……」
  現在、彼らの立場は非常に危うい。師事していた教授が失脚した場合、ほぼ例外なく
 早期の内に別の大学へ飛ばされる。しかしそのような悲壮感は余り感じられなかった。
「流行り病、本当みたいだな」
「うん」 
  特に気にする事もなく、そこで話は終わった。




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