【ウェンブリー魔術学院大学】二階――――ミスト教授室。
  各方面への挨拶回りを終え、ようやく腰を落ち着かせる事が可能となったミストは、
 久し振りの感触を確めるかのように、椅子に深く身を委ねていた。
 その前でアウロスの報告書を眺めていたセーラが、溜息混じりに苦笑する。
「……大したものね」
  それは報告書に対する素直な感想だった。後衛術科の彼女にも、アウロスの研究の
 進行速度の異常性は直ぐに理解出来る。その感想を、ミストは無表情で聞いていた。
「あの男は私の想像を超えて、研究者としての密度を高めている。驚嘆に値するよ」
  それは唯の褒め言葉ではない。これまでミストは幾度となく賛辞の言葉を送ったが、
 それはあくまで目的に対するアウロスの必要性を加味してのもの。本心である必要はない。
 しかし、今は違う。
「正直に言おう。私は当初、彼に論文を評価している旨を伝えたが、半分以上が嘘だった。
 無論、完成すれば前衛術の革命になるだけの技術である事に疑いはないし、可能性を
 感じたのは事実だ。だが、成果に関しては然程期待していなかった」
「でしょうね。特別なチームを組むでもなく、割と自由にさせてたみたいだしね」
「私が彼に見た大きな価値は三つ。実戦経験者である事と、魔術士としての才能が
 最低である事。そして【ヴィオロー魔術大学】に在籍していた事」
  ミストはアウロスの目をじっと眺めつつ、指を折った。
「戦える者を部下に持てば、私の研究理念に説得力が生まれる。才能のない者を拾い、
 見捨てずにいる事で、劣等感を持つ人間に好意的な目で見られる。単純だが、大切な事だ」
「【ヴィオロー魔術大学】在籍、って言うのは?」
「あの大学にはウェンブリー教会の司祭の親族がいる。彼の元上司だ」
「え? 教会関係者の血縁者が大学の……? それって良いの?」
「当然、公表はしていない。大学と教会の癒着など御法度だからな。あの程度の大学だから
 マークも薄い。教会にとっては格好の情報収集の場だったのだろう」
  大学上層部の情報は、いかに教会と言えど、そう簡単に得られるものではない。
 規模の大きな大学でなくとも横の繋がりは多く、そこに拠点がある事は大きなメリットとなる。
「喧嘩別れとは言え、繋がりがあった事は紛れもない事実だ。それを逆手に、向こうから
 コンタクトが来る可能性もある。私は出来るだけ繋がりを広く持ちたいのでね」
「はあ……」
  セーラは感嘆を越え唖然とした面持ちを浮かべていた。
「とまあ、メリットと目論んでいたのはその程度だった。しかしあの男は良く働いてくれている。
 厄介な程にな」
  呟きつつ、ミストの視線が強くなる。元々鋭い眼光が更に険しさを増していた。
「厄介?」
「私は臆病でね。想定外の事態は歓迎だが、度が過ぎれば問題になって来る。例えば……」
  表情、姿勢、仕草、口調、鼓動――――何一つ変えずに、ミストは眼前の女性に
 視線を向けた。
「間者行為とか、な」
「……なっ……!」
  セーラの絶叫に近い声が室内に響く。それでも尚ミストの表情は変わらない。
「私をそんな風に見ていたの!?」
「様々な角度から見て来たつもりだ」
  いきり立つセーラを涼しい顔でいなしつつ、ミストは指を鳴らした。すると、それを合図に
 扉が微かな音と共に開く。暫時の後、幽霊のような生気のない顔をした男が教授室に
 入って来た。
「……っ!?」
  セーラの顔からみるみる血の気が引いて行く。それは、彼女にとって絶望の序曲だった。
「君の『本当の』恋人だ。後衛術科のホープらしいな。名前は良く覚えていないが、
 彼から事情は全て聞いた」
  ミストの動向を探っているのは、前衛術科の人間だけではない。当然それを自覚する
 ミストは、全ての学科に自分の息を吹き掛けている。そして、度が過ぎた行為に関しては、
 それなりの対応をするよう心掛けている。
「私との会話を彼に流すくらいは多めに見ていたが、こちらのナイーブな部分にまで
 入り込んで貰っては……」
「問題とせざるを得ない、ですね」
  扉の前に、もう一つ人影が増えた。
「愛する者の為に価値のある情報を集める……それだけなら美しい話です。しかし何事も
 節度と言うものがあります。地下水路まで足を運んだのは失敗でしたね」
  仮面を被っている男のくぐもった声が、鎌のように鋭く喉元に突き付けられる。
 その様子にセーラの顔が一層危機感を増した。
「ミスト、聞いて。彼は……」
「ぼ、僕は頼まれてやっただけです!」
「……!」
  序曲は終わる。セーラに待っていたのは、余りに在り来たりな末路だった。
「本当なんです! ミスト教授の事を知りたいなんて僕は言ってないんです!
 地下水路にだって、行きたくて行った訳じゃない! それに、まさかあんな”もの”が大学に……」
「静かにしなさい」
  ミストの声は、殺気を帯びていた。実戦などまるで縁のない人にでも伝染する、絶対的な
 恐怖。正面に立つ男の全身が一瞬で硬直した。
「残念だが、君にこれ以上口を開かせるつもりはない。向こう十年は発言の自由がないと
 心得ておきたまえ」
「この人は見かけ通り怖い人ですから、逆らわない方が身の為ですよ」
「ひっ……わ、わかりました」
  ミストが目で退室を促すと、転がるように教授室を出て行った。明らかに場違いな人間が
 消え、空間が浄化される。しかし淀みはそのまま残り、分離状況を色濃くしていた。
「君には似合わない男だ。残念ながら、男運と見る目には恵まれていなかったようだな」
  ミストの言葉は紳士的だった。が、必ずしもそれが優しさとは限らない。
 誰でも知っている事だ。
「中々に絶妙な性格設定だった。私の好みを理解しつつ、そこに媚びない。今まで私に
 近付いて来た女性は数名いたが、君が最良だったと言っておこう」
  褒め言葉と受け取る気はないらしく、セーラの顔に生気は戻らない。無論、今しがた
 裏切られたばかりと言う状況が何よりも大きいのだが。
「……全てわかっておきながら、私にあの子の講師をやらせたの?」
「君のお陰で、アウロス=エルガーデンが凡庸以下の研究員だと言う認識が色濃く広がった。
 礼を言う」
「……はあ」
  溜息一つ。いつの間にか陽光は雲に遮られ、部屋に舞う埃は肉眼では見えなくなっていた。
「貴方と会話する度、自分が嫌になる。これでも日頃は後衛術科のエースなんて
 
言われてたのに」
「その評価は正しい。君は後衛術科の魔術士の中で最も才能ある研究員だ」
  それは本音だった。尤も、その言葉にも癒し作用はない。セーラは退廃的な瞳を揺らし、
 ミストに索然とした顔を向けた。
「私は……どうなるの?」
「好きにすれば良い」
「……」
  ミストの目に、既にセーラは映っていない。それで全てを悟ったセーラは、沈黙のまま、
 足音も虚ろに退室した。
  赤く焼けた空から落ちた一欠片が、窓を透過して床一面に降り注ぐ時間。
 それは、人が物思いに耽る最適の刻。心が美しさを求める刹那の暇。
 そんな中では、雑食性の鳥の鳴き声も、何処か愁いを帯びた唄に聞こえる。
 ミストの耳には、それが昔聞いた唄のように聞こえた。
 詩など影も形もない、雄叫びに等しい男達の声。
 炎を取り囲み、火の粉と共に踊る戦士達の笑顔。
 赤く染まる部屋は、その光景を稀に呼び起こす。
 輝いていた、その日々を。
「あのヘタレ男、スナイデル教授のお気に入りだそうですよ。これまた良くある話です」
  その時とは違う、くぐもった声が室内を浸す。ここが現実である事の証明だった。
「彼女にとって、貴方は必ずしも単なる情報源ではなかった。貴方自身を利用してでも、
 彼女は貴方と並びたかったんですよ。届かない所まで行ってしまった貴方と」
「もう必要のない人間だ」
  非情――――しかし、それは真実でもある。
 実際、セーラがミストの人生に関わる事は今後もうない。全ては過去の遺物となった。
 そして、それはミストの脚本通りでもある。
「それよりも、準備は万全なのか? わざわざ専念出来る環境を選んだのだから、
 問題があっては困るぞ」
「誰に言ってるんですか?」
  仮面の表情通りの不敵な笑みが零れる。ミストは特に表情を崩す事なく黙って聞いていた。
「機は熟しました。貴方も丁度公務が一段落ついたようですしね」
「当日の行動は予定通りだ。後は『計画』に合わせて動くのみ」
「計画ですか」
  歪みにも似た笑みが室内を蹂躙する。ミストは苛立ちを抑えつつ、静かに目を閉じた。
「……何がおかしい?」
「気に障ったのなら失礼。少しばかり昔を思い出しましてね」
「昔……か」
  先程一瞬だけ脳裏を過ぎった光景が、再び蘇る。余り良い傾向ではなかった。
「貴方は変わりませんね。元々とんでもない老け顔だから、歳を重ねても老いが目立たない」
「お前程ではない」
  ミストは両肘を突き、両手で口元を隠すような姿勢で淡々と言葉を連ねる。
「本来なら、お前とはもう関わりたくないのだがな」
「そんなつれない事を言わないで下さいよ。僕みたいな人間がいなければ、繋がり一つ取っても
 一苦労でしょう?」
「困った世の中だ」
  言葉通りの表情をしつつ、ミストは机の中から書類を取り出し、それを眼前の男に手渡した。
「首座大司教宛てだ。丁重に扱え」
「はい、確かに受け取りました。問題なくお届けしますよ」
  鷲掴みしたそれを無造作に鞄に押し込み、代わりに取り出した――――仮面を、被る。
「では、僕は用事がありますので、この辺りで」
「……」
  踊るような仕草で部屋を出て行くその姿に重なるように、レヴィが扉を開け入って来た。
 レヴィは眼鏡の先の鋭い目で横切る仮面の人物を追ったが、特に触れる事なくミストの方に
 視線を移した。
「失礼します」
  深々と一礼し、扉を閉める。再びミストの方に向けられたその顔は、普段のレヴィの
 ものとはかなり違っていた。
「あの、例の件ですが……」
「どうだ?」
「……」
  沈黙による回答。ミストは予想を決して裏切らない彼の姿勢に満足しつつ、
 表情なきその顔をレヴィに向けた。
「そうか。では引き続き頼む」
「あの!」
  弾けるように、レヴィが叫ぶ。それは今まで一度も発した事のない、ミストに対する
 意見への序論だった。
「私はその、こう言う事は余り……」
「ん?」
  しかし、それは本論に辿り着く事を許されない。ミストの顔は微動だにしていないと言うのに。
「……いえ。御期待に添えるよう最善を尽くします」
「宜しく頼む」
  レヴィの頬から冷や汗が伝うのを確認し、ミストは席を立ち、背中を向けた。
 背後から聞こえて来る、扉の閉まる音がやけに小さい。それすらも、予想通りだった。
「いよいよ、か」
  教授室が必然的な静寂に包まれる中、ミストは一人満足感に浸っていた。
  切るべき時に切る。これもまた、上へ行くには重要な作業だ。余計な荷物は足枷となり、
 余計な負荷を掛ける。全ては目的の為に――――そんなミストの生き方は、教授となった
 今も変わる事はなかった。
(お前はどうだ? アウロス=エルガーデン)
  自分の中に克明に刻まれた名前を呼びつつ、窓の外の空を仰ぐ。
  そこからは、既に赤が消えていた。
  過去は消えた。
  そして、今日もまた、闇に染まる時間が始まる――――




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