何時の間にか、雨は止んでいた。
  学生達の登校する時間になり、一階は雨音の代わりに彼らの声による喧騒で
 満ち溢れている。それは二階にいるアウロスの耳にも届いていた。
「暗殺者の名簿を探す過程で、思い出したのよ。かつて私が家から持ち出した
 書類の中に、奴隷売買の名簿も含まれていた事を」
  ルインは黒いハンカチーフで汗を拭い、それを仕舞いつつ実験室の壁に寄り掛かった。
「最終的には取り返されたけれど、中身は一通り確認していたの」
  壁の冷たさが火照った身体に心地良いのか、それとも他に理由があるのか、
 その表情にはどこか安らかな色が滲み出ている。
  そして、そのままの顔で言葉を紡ぎ続ける。
「そこに、アウロス=エルガーデンと言う名前は確かにあった」
  アウロスはルインの話を黙って聞きながら、自身の心がどこか落ち付いて
 来ている事を自覚していた。明らかに動揺すべき事態であるにも拘らず、
 ここ最近ずっと活性化していた黒いもやが徐々に薄くなっている。奇妙な心境の中、
 再び聴覚に神経を委ねた。
「けれど、それは貴方ではなかった。貴方の被験者番号は18。
 アウロス=エルガーデンは19だった」
  ルインはアウロスと目を合わさず、暗記した事を一つ一つ思い出すような物言いで
 言葉を紡いで行く。その横顔は、どこか不安のようなものを覗かせていた。
「貴方はアウロス=エルガーデンと言う『別人』の名前を残したかったのね」
  沈黙。
  が、それは長くは続かなかった。
「今の研究はその為のものなのでしょう?」
「ああ、そうだよ」
  嘘を付く理由も、黙秘する理由もない。アウロスは首肯した。
「俺はアウロス=エルガーデンじゃない。彼は俺の友達だった」
  そして、自身の過去を切々と綴る。
「俺の隣の独房に配置された彼は、直ぐに俺に話し掛けてくれた。友達になってくれた。
 嬉しかったよ。友達なんて概念すら知らなかったけど、生まれて初めて他人と話すのが
 楽しい事だって知った」
  決して綿密ではないが、その作業は困難を極めた。どう言う顔で話せば良いのか
 まるでわからない。アウロスは、困惑の中で綴り続ける。
「彼は色々話してくれた。夢も語ってくれた。いつかその独房を出て、
 魔術士になるんだってな」
  結局、思考は何も消化できないまま、在りのままを曝け出す。
 アウロスは、自分が今どんな顔をしているのかさえわからない。
「その御友達は、亡くなったのね」
  だが、ルインの指摘がそれを把握させた。悲しく、切なく――――
 表情のままに続きを綴る。
「俺の目の前で」
「……貴方、が?」
  それは鋭くも鈍くもない、自然な声だった。
 アウロスは少し救われた心持ちでそれに応える。
「いや。俺の後ろにいた弓兵が……やった」
  記憶が揺れる。狂酔したかのように、それでいて鮮明に。
「でも、俺がやっていても何らおかしくはなかった。俺は彼の敵として
 戦場にいたんだから。もし彼に気が付いてなかったら……」
「貴方はそれに責任を感じているの?」
「……」
「呆れたものね。人にはあれだけ偉そうに言っておいて、自分も似たような事で
 ウジウジと……」
  アウロスの沈黙を肯定と取ったルインは、言葉に棘のある蔦を巻いた。
 それは自分自身をも傷付ける、辛い言葉。
「貴方が私に言った言葉は全て自分自身に向けてのものだったの?
 自分自身の境遇を置き換えて、自分に責任がないと、そう言いたかったの?」
  アウロスは答えない。ただ眉間に皺を寄せ、沈黙を守る。
「私に生きて欲しいと言ったのも、自分が生きている事の正当性を主張したかったから?」
  沈黙は続き、棘は刺さり続ける。
  先に根を上げたのは――――
「……違うって言わなかったら髪の毛全部燃やし尽くす」
  ルインだった。
  攻撃的な言葉の割に、追い詰められたかのような表情でアウロスを睨んでいる。
「脅迫するな脅迫」
  アウロスは少し余白をくれた彼女に感謝しつつ、整理し終えた自分の言葉を
 表に出す事にした。
「生憎、そこまで自分自身を擁護したくはない」
  それはとても悲しい答えだった。口に出す事自体恥ずかしい、情けない事実。
 しかし、ルインの余りに切なげな瞳を見て、アウロスは半ば観念したような心持ちで
 本心を告げる事にした。
「これまで散々、生まれた瞬間からずっと色んな連中になじられて来たし、
 見放されて来た。今更自分を生きる価値のある人間だなんて思えやしない」
「そう言ういじけた事を言葉にすると言う事は、それを否定して欲しいの?」
「……まあちょっとは」
  告げ過ぎた感はあったが、少々場が和んだ。
「でもま、概ね本心だ。お前に生きて欲しいのもな」
「……」
  ルインは窓の外に視線を移した。が、まだ濡れているその窓に自分の顔が
 薄く映っている事に気付き、今度は廊下の奥の方に顔を向けた。
「お前の話にどこか自分を重ねたのは確かだ。でもそれで自分を正当化しようなんて
 思う訳ない。似た者同士って気もしないしな。大体俺はお前みたいに口が悪くない」
「……本気で言ってる?」
「当然だ」
  アウロスは本心を告げている。何一つ偽る事なく。
「俺のやってる事は自己満足なんだよ。魔術士になりたいと願った友達の名を語って、
 その名前を魔術士としての偉業と共に歴史に残す。浅はかだし、何より本人の
 遺志じゃない。こんな事して誰が喜ぶかって言うと、そりゃ自分だけだ」
  自虐気味な言葉だったが、アウロスは吐き棄てるでも嘆くでもなく、
 努めて穏やかに続ける。
「でも、俺に出来る事なんてそんなもんだ。死んだ人間にその感想を聞く事は
 出来ないけど、俺の中にある記憶の中の彼は、友情パワー合わせ技一本って感じで
 喜んでくれるんじゃないかと思う。それもまた自己満足だけど」
  懐かしげに、そして寂しげに。アウロスは話を終えた。
「何か言え。感想でも何でも良いから」
「……」
  ルインはアウロスを半眼で睨みつつ、少し乾いた唇を動かした。
「自分がいなければ、死なずに済んだ」
  一瞬、空気が張り詰める。
「そう思った事はある?」
  射抜くようなルインの視線を、アウロスは正面から見据えて受け止めた。
「あるよ。俺がいなければあんな無茶な前進はなかっただろうし、俺のいた一群が
 彼のいた一群とやり合う事もなかったんだから。直接的な責任ではないにしろ、
 自分の存在と行動が大きく影響した。それは曲げようのない事実だ」
  吐き出す言葉一つ一つが心を絞める。窒息しそうな程に。
「なら、私達はどうすれば許して貰えるの?」
  ルインの懇願にも似た問いに、アウロスは静かに首を振った。
「許されて楽になりたいのか? それは多分無理だろ」
「……そうね。殺される事を望んだのも、楽になりたいから……だったのかもしれない」
「いや、お前は立派だよ。自分自身で最後まで責任を全うしようとしてるんだから」
  賛美の声は力なく。
「俺は、アウロス=エルガーデンとして生きてる。自分じゃないんだ。自分は
 人の見えない所に仕舞い込んでおく。そうする事で、自分ではない自分を客観的に
 見る事が出来るし、自分の弱点や劣等感は見えないようにする事が出来る。
 酷い生き方だ」
  アウロスの声に、ついに自嘲じみた色が混じった。
「でも、そうするしか、ここまで来る方法を見出せなかった」
  他人にそんな姿を晒してはいけないと思いつつも、弱みを見せてしまう。
 それは、彼女なら、ルインならきっと同情してくれる。柔らかくはなくても
 暖かい言葉をくれると信じているから。それ以外に理由は考えられない。
(俺はそれを求めている……?)
  何故なのかはわからず、アウロスは心中で狼狽した。
「それは、私の……」
「お前の家は関係ない。と言うか、お前の家が奴隷として俺を買わなけりゃ、
 俺はここにいない」
  それを悟られまいと、ルインの言葉を瞬時に遮り、予測による否定で打ち消す。
 幸いにもそれは正解だったらしく、ルインの反論はなかった。
「利害関係のない所で繋がる……あれはその友達の事だったのね。
 何故そこまで固執するの?」
  その代わりに、抜本的な質問が来た。
「固執、とはちょっと違う」
  冷静さを取り戻しつつ、否定。
「俺にとって最初で唯一の友達なんだ。俺を対等な人間として、何の意図も
 計算もなしに話掛けてくれたんだ。それを大事にしたいんだよ」
「……純情?」
「更に違う気がするが……」
  ルインの奇妙な感想に、アウロスは思わず苦笑を漏らした。
「貴方は、絆を護る為に利害関係や合理性を追求しているのね」
「悪いか?」
「奇妙な生き方」
「……殺される為に生きてた奴に言われたくないんだが」
  ルインも苦笑する。滑稽ながら、どこか清涼とした空気が二人の間を漂っていた。
「私達は、周りから見たら相当歪なんでしょうね」
「お前ほど極端じゃないから。俺は」
「似たようなものでしょう?」
  お互いの笑みからようやく苦味が取れた。ルインは何気にそう言う流れを
 作るのが上手い。或いは、それは亡くなったメイドの影響なのかもしれない――――
 アウロスはそんな分析をしている自分に、自分らしさが戻っているのを感じていた。
「確認したい事があるの」
「何だ?」
  ここに至るまで、互いを取り巻く環境は劇的に変動し、それに伴って
 二人の関係も変わって行った。
「私達は、御互いに大事な人を亡くしてしまった者同士」
「ああ」
  初めは『奴隷』と『領主の娘』。
「私達は、御互いに御互いの生き方を理解出来る者同士」
「ああ」
  次は『新人研究員』と『魔女』。
「私達は、御互いに生きて欲しいと願う者同士」
「ああ」
  そして、今――――
「……協力、しない? 改めて」
  新たな関係を、ルインは望んだ。
 条件も目的も掲げない、唯の呼び掛け。
 アウロスは一瞬だけ考え、それを止めた。
「先に言っておくけど、俺は基本人は信じない。利害関係と合理性を重んじる」
「知っているけれど」
「良いのか?」
「貴方には、目的の為に身内を切り捨てる程の度胸はないでしょう」
「……そんな事は、ない」
「あるのよ。でなければ、そんな歪な生き方しないもの」
  ルインは鼻で笑いながら断定した。アウロスにとっては何とも微妙な認識の
 され方だったが、ムキになって否定するつもりもなかった。
「私には貴方への負い目がある。幾ら貴方がそれを否定しても、私の中では
 決して消えない。だから貴方を裏切る事はない」
  それはアウロスの拘りを満たす、甘甘な意見だった。
 つまりは、合理的見解による相互扶助。
 アウロスとしても、そこまでされては断れない。
「わかったよ。んじゃ、俺らはこれから仲良しこよしって事で行こう」
「……その表現どうにかならない?」
  ルインはジト目でアウロスを睨む。ただ、耳をやたら赤くしていた。
「ま、良いけど。ところで、私は貴方をどう呼べば良いの?」
「これまで通りアウロスで良いよ。この名前を歴史に残すまで、
 俺はアウロス=エルガーデンだから」
「……辛い生き方ね」
「卑怯なだけだ」
  自分自身のない生き方は、何事にも客観的で居られるのと引き換えに、
 何事も満たされない。アウロスは自己顕示欲に起因する全ての快楽を捨て、
 目的までの様々なリスクを極力減らす選択をした。それは合理的なのか、
 そうではないのか――――誰にもわからない。
「呼び方に関しては少し考えさせて。私は仕事に戻る。夜の実験には付き合うから」
  話は終わった。だからルインが去るのは必然だった。
「ルイン」
  しかし、アウロスはそれを引き止めた。そして、自分の感情を告げた。
「話を聞いてくれてありがとう。これからも宜しくな」
  答えは返って来なかった。そして、それは当然の事だった。
  仲間とは、そう言うものなのだから。



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