ミストが教授に就任して以降、様々な変化が大学内部に訪れた。
  まず、大学は大々的に二十代の教授を宣伝し、学生の勧誘と後援者の開拓を促した。
 その一方で、地域密着のアピールにも精を出し、地盤を固めた。
  ミストは広報活動の為各地に飛び回り、大学内にいる事が少なくなった。
 
とは言え、彼の教えを受けたいと希望する学生は後を絶たず、研究室に訪れる数は
 殆ど減少しなかった。
  ミスト研究室のメンバーは様変わりした。リジルが抜け、その補充として学生を一名、
 他の研究所からゲストとして一名を招き入れた。彼らは二人ともミストの研究テーマを
補助
 する形で仕事に携わり、ミストの不在の間に実験やデータ解析などを行う役割を担っていた。
  そして――――アウロスは、毎日のように実験室に篭っていた。
  魔具の材料は生物兵器、金属共に調達ルートの確保には至っていないが、単体で
 入手する事は困難ではなく、実験する上では不自由がない。リジルの言葉に習い手紙は
 出したものの、他に出来る事もなく、仮説と実験と分析と照合に追われる日々が続いた。
「……にしても、こうも連日泊り込みって、幾らなんでも極端じゃない?」
  研究室で目覚めたアウロスに対する、クレールの第一声。完全に日常の一風景と
 化している。
「実験終わって器具片付けてデータ整理して、その後家に帰る気力はない」
「データ整理は翌日に回せば良いじゃない」
「ああ言うのは勢いでやらないと効率が悪いんだ」
  特に同じ数式ばかり用いる計算処理には常に惰性と睡眠欲が付きまとう。
 一つ気を抜けば、たちまち行動意欲が消えてしまう。
「ま、わかるけどね。珈琲飲む?」
「美味しく頂きます」
  アウロスは丁重な姿勢でカップを受け取った。芳ばしい豆の香りが鼻腔をくすぐる。
「……で、あの女も毎日付き合ってるの?」
「片付けまでは」
「はー。自分の仕事が終わって、今度は仲間の仕事を手伝って……そんな魔女
 何処にいるってのよ」
「魔女じゃなかったんだろ」
  アウロスは適当に答えたつもりだったが、クレールにはそれがフォローに聞こえたらしい。
 年齢的に微妙な小悪魔的笑みを携え、半眼でアウロスを冷やかしに掛かる。
「うはー、相互理解ってヤツですか。やっぱりそう言うのって、愛の成せる業?」
  クレールのふわふわした発言に、アウロスは怪訝な表情を浮かべた。
「愛?」
「あれ違った? てっきりそうだとばかり……」
「違うんじゃないかと」
「あ、そ。ま、あの女に愛程似合わない言葉はないけど」
  冷やかし甲斐がない年下の少年に辟易しつつ、クレールは珈琲を一口含んだ。
「にしても、雰囲気変わったね、ここ」
「だな。日中はうるさくて居られやしない」
「特に女の子ね。最近の子供は計算高いと言うか。『勝ち組に乗る為には早い内に
 取り入っとかないと』とか『教授を射るには先ず助手を射なきゃ』とか平気で言ってたし。
 ま、そう言うのはレヴィに軽くあしらわれてたけど」
「あいつそう言うの得意そうだな」
  ほぼ毎日年下の女性に囲まれピーチクパーチク鳴き声を聞かされている人間にとって、
 その手の対処はお手のもの。経験は大事だ。
「そう言えば貴方、あいつともギスギスしたのなくなったよね。仲直りでもしたの?」
「向こうが一方的に忌避してたのを一方的に歩み寄って来ただけだ。不気味で仕方ない」
「機嫌が良いんじゃない? 憧れのミスト教授が偉業を成し遂げたんだし」
「お前もな」
「わ、私は別に機嫌なんて……」
  自分の事となると途端にどもる。クレール女史、打たれ弱し。
  その姿を珈琲カップ片手に眺めていたアウロスの耳に、扉の開く音が届いた。同時に
 まるで寒露が背筋に一滴落ちたかのような冷感が身体を撫でる。それは、敢えて断たないで
 いる時のルインの気配に他ならない。アウロスが振り向くと、案の定その姿があった。
「……またここに泊まったの?」
「あ、ああ」
「睡眠はちゃんと自室で取りなさい。疲労をしっかり抜かないと怪我の回復が遅れるでしょう?」
  それだけ言って、自分の席に付く。以前ではあり得ない風景に、クレールの目が妖しく光る。
「甲斐甲斐しいのね。やっぱり愛?」
「……」
  ルインは一瞬すら感情を見せず、極めて静かにクレールを視界に納めた。
「俗悪な発言。御目出度い人生を送ってる証拠ね」
「なっ、何ですって!?」
  クレールの怒号が響き渡ったが、ルインは意にも介さずニヤリと笑い、視線を落とした。
「くっ……年下のクセに何て生意気なヤツ」
「俺を見て言うな」
  そのやり取りにルインが再び顔を上げる。
「年齢で序列が決まるのは学生だけ。頭脳の質は生きた時間には比例しないの。
 歳が上と言う理由で驕るなど、勘違いも甚だしいですよ、先輩」
  冷罵は続くよ何処までも。
「うあー生意気! ほんっと生意気! 年下のクセにっ!」
「だから俺を見るなって」
「良くあんなのと付き合えるね、君」
「付き合ってない」
「あーっ、もうっ! もうこの怒りを実験器具と腹黒学生に発散してやるから!」
「程々にな……」
  物凄い勢いで何かを書き殴り始めたクレールから視線を外す。窓の外では朝陽が
 眩しく煌いていたが、躍動感や高揚感は抱かない。研究員の朝はいつだって気だるかった。
「ふあ〜」
「眠そうにしているな」
  そんな所にレヴィが出勤。これまでなら嫌味の一つでも吐き棄てる場面だが――――
「睡眠はしっかり取らないと研究効率が上がらないぞ。体調管理を怠るなよ。幸い疲労回復に
 良いとされている薬草入りの飴を所持している。これを舐めておけ」
「……はあ」
  余りに奇妙なその気使いに、アウロスやクレールはおろかルインですら引いていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
  新入りの男二人も出勤。
 二人とも個性の欠片もない、どこにでもいる顔と声と体格と格好だった。
  そして、また一日が始まる。
  特別研究員とは言え、日中はミスト及び他の研究員の補助(右腕負傷中に付き
 資料整理等が中心)にもある程度時間を割かなくてはならない。その間を縫って自身の
 研究の資料整理。そして夜は論文作成。ミスト研究室は少数人数の構成で、
 特別研究員と言う立場もあり、アウロスは余り縦の繋がりに強制されない。
 よって、通常若手研究員を大いに悩ませる『先輩の雑用』が少なく、その点はかなり
 恵まれた環境と言える。それでも、一日中動き回れば疲労は溜まる。更に右腕が
 
固定されたままなので、動作に制限が掛かり、かなりの負担になった。
  接骨院にも週二回の割合で通院。
「治りが遅いですね……まだ骨がくっ付いていないと思われます」
  腫れの引かない肩及び上腕部を見た院長は、全快にはまだ時間が掛かると言う
 診断を下した。
(上手く行かない時はこんなもんだな)
  アウロスは心中で苦笑いしつつ、ルインの責任感を刺激しないかと心配したりした。
  それ程に、ルインは変わった。と言うよりは元々の性格が表に現れて来たと言う方が
 正しいのかもしれない。領主の娘と奴隷と言う関係で出会った際の丁寧なお辞儀が、
 アウロスの記憶に鮮烈な印象を残していた。つい最近までは消えていた記憶が今は
 色濃く思い出せる――――それもまた、乖離による影響だった。
「……」
  アウロスは、夢を見るようになった。
  深い眠りの際に見る夢は、決まって悪夢。相場はそう決まっている。
  色彩がぼやける景色の中、それが夢だと気付くのは実に容易だった。
 現実感のまるでない朧げな視界に映るのは、嘗て学生として、そして研究員として
 三年間滞在した【ヴィオロー魔術大学】の研究室。そこには誰もおらず、不安定な輪郭の机、
 椅子、テーブル、紙くず、ゴミ箱が今にも消えそうに佇んでいた。そんな中、机に置かれた
 一枚の紙だけがくっきりと浮かび上がっている。
 そこには雑な字でこう書き殴られていた。
『いつまでいるんだよクズ 才能ない奴は何やっても無駄 消えろ』
  慣れている。いつもの事。取るに足らない。詰まらない。
  羅列される抗拒の思念に力はなく、自身の行く先に霞が掛かる。
  たかが夢。たかが記憶。それは非現実であり、過去。現実であり現在である今とは
 切り離せるものばかりだ。
  しかし、目覚めの瞬間に見えるのは――――深穽の底。終わりの果て。
  気の遠くなりそうな闇の群れに意識が揺れ、脳が痺れる。そして、それが連日にように続く。
  時に、夢は奴隷時代の映像まで映した。
  人としての扱いなど皆無だったその日々は、今も尚アウロスの身体に刻まれている。
  毎日、魔術をその身に受けた。
  炎、氷、風、雷、土、石、蒸気――――あらゆる種類の攻撃が、肌を蝕み、神経を削った。
  その頃の、目の奥が嵐の日の海原のようにうねる感覚に苛まれ――――
 アウロスは体調を崩した。
「無理のし過ぎ。唯でさえ最近変な病気が流行ってるって話だし」
「そうですよー。ちゃんと休まないと身体に毒ですよー?」
  周囲には怪我と無理が祟ったと言う認識をされ、アウロスは無理矢理自室に押し込まれた。
  それがまるで世界から隔離されているような錯覚を引き起こし――――深淵を更に深めた。
  乖離する意識。剥き出しになる脆弱性。
  アウロスは、誰にも悟られない場所で、静かに怯えた。



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