研究室に、ペンを走らせる音が躍動感一杯に響いている。
  とても自然な光景。
  しかし、どこか歪んでいる。
  そう見えるのは誰の所為なのか――――そんな思考に囚われる脳を小さく揺すりながら、
 アウロスは室内に歩を進めた。
「あ、アウロスさん。おはようございます」
  室内にはリジルとレヴィの二人がいた。
 アウロスが加わった事で男の占拠率が変動する事はないが、むさ苦しさは膨れ上がった。
「そっちこそ随分早いな。泊まってたとか?」
「いえ。ちょっと今日はやる事が多いので」
  微妙に言葉を濁し、リジルは再び視線を落とした。それを確認し、席に向かう。
「……?」
  その最中にふと視線に気付き、アウロスはその方に顔を向けた。
 当然、そこにいるのはレヴィだ。討論時以外滅多に視線が合う事はなく、合ったら合ったで
 露骨に顔をしかめていたのだが、今のレヴィの表情に不快感はない。
「お早う」
「!?」
  それどころか、挨拶などされた。これにはリジルも吃驚したらしく、おもむろに顔を上げて
 目を丸くしている。
「何だ? 挨拶くらいで過剰な反応をするな」
「あ、ああ……」
  奇妙な程自然体のレヴィを怪訝の極致的な目で眺めつつ、自分の席に座る。
「な、何かあったんですか?」
  リジルも同じ顔をしていた。
「全然わからん。と言うか、新手の嫌がらせとしか思えない」
「そこまで深読みしなくても」
「じゃあ素直に受け止めるか? そっちの方がある意味深読みだろう」
「何かの罰ゲームとか」
「あの堅物が賭け事なんて……」
  アウロスはそこで口を閉じた。
 余りにこれまでと掛け離れた行動――――最近やたら心当たりがあった。
「もしかしたら、流行ってるのかもしれない」
「罰ゲームに流行とかあるんですか?」
「いや、罰ゲームじゃなくて。例えば、今までと全く違う行動をしたら願い事が叶うとか、
 思っている事と正反対の行動を取れば大金が手に入るとか」
「……それこそ深読みの最上級ですよ」
「占いが流行ってるのかもしれない。『お前さん、これまでの性格をぶっ壊さないと
 大事な人が死ぬよ』的な」
「もう何が何やら」
  リジルは冷や汗混じりにアウロスの話を聞いているが、ペンを走らせる手は
 全く止めていない。器用な人間だった。
「と言うか、ミスト教授が教授になったから、アウロスさんを敵視しなくても良くなったんじゃ
 ないですか?」
「そんな単純なものでもないだろ」
  自身の体験を踏まえ、アウロスは嘆息交じりに吐き棄てた。
  ミストが教授になったからと言って、足を引っ張られて良いと言う訳でもない。
 少なくとも、ここで和解する理由にはならない。まして彼は、妬みによる嫌がらせを受けた
 過去がある――――と以前に熱弁している。途中で去ったアウロスだが、ちょろっと
 聞こえてはいた。
「ま、事ある毎に噛み付かれるよりはよっぽど良いか。不気味だけど」
「早く帰れますしね」
  結局明確な原因を思い付く事はなく、その話題は終わった。
「ところで、研究はどうなってます?」
  リジルの声量が一気に落ちる。ああ言うモノを飼っている手前、生物兵器に関する話題を
 していると悟られるのは出来るだけ避けたい――――そんな心情が現われていた。
「最悪、国の流通を変える必要があるってのがわかった」
「……何かどんどんスケールが大きくなってますね」
「生物兵器の調達ルートもまだ白紙だしな」 
  リジルから借りた生物兵器の資料は既に目を通し、使えそうな類のものに目星は
 付けている。しかしそれをどこから入手するかと言う問題は解決していない。
 魔術士界の禁忌に挑戦するのだから、一筋縄で行く筈もなかった。
「大変ですね」
  そんなアウロスの苦悩を察知し、リジルは苦笑した。
「実は僕、近い内にここを去ります」
  そして、そのままの顔で、そのままの声量で、静かにそう告げた。
「は?」
「少し事情が変わったので。アウロスさんには色々お世話になったし、これはそのお礼です」
  事情が飲み込めないアウロスを置いてきぼりにし、リジルは羽ペンを別の紙に
 移動させ、走らせる。
「魔術士と言う身分でないのなら、そこにいる人が協力してくれると思います。
 まずは手紙でも出してみて下さい」
  そこにはデ・ラ・ペーニャ国内の住所が書いてあった。
 街の名前は【セラデス】。アウロスの記憶には辺境の地と記されていた。
「それはありがたいが……」
「では、お元気で」
  ニコッと笑い、リジルは視線を下に落とした。もう話す気はないと言う意思表示らしい。
  アウロスもそれ以上は口を開かず、受け取った紙をじっと眺めていた。
 
  ――――1週間後。
  ミスト研究室の新体制が発表された。
  空いた助教授のポストには、別の大学から来た人間が就いた。
  そして――――本人の言葉通り、リジルの名前は消えていた。




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