「……」
  アウロスは眉間を揉みながら瞑目し、首を横に二度振る。
 現実と言うものがイマイチ良くわからなくなって来ていた。
「随分疲れた顔をしてるのね」
「最終的にお前の存在がトドメだったんだが」
「?」
  本気で何を言っているのかわからないと言った面持ちで首を傾げていた。
「取り敢えず、一つ聞く。何故厨房の方に向かった人間がここにいるんだ?」
「貴方があのファジーな女と会話している間に」
  ルインは気配を断つ技術に長けている。
「私生活で気配を消すな。疲れる」
「察知出来るよう修行なさい」
  アウロスは無茶を言われた。
「若しくは私と言う存在を当然在るものと常に認識しておきなさい」
  更になんか凄い事を言われた。
「あの、眠いんだが」
「どうぞ。寝台の掃除は既に終わっているから」
  その言葉の通り、ベッドのシーツがやたら美しくなっていた。
 天日干しの効果か、ふんわり仕様で匂いも良い。それはアウロスには余り縁のない、
 太陽の匂いだった。
「……降参です。何が目的か教えて下さい」
  ドロドロに溶けた思考を記憶のゴミ箱に棄てて、話を聞く事にする。
 ルインは特に表情を変えるでもなく、口を開いた。
「貴方の怪我、完治までまだ暫くかかるのでしょう?」
「ああ」
  当初は全治一ヶ月と診断されたのだが、旅立つ前に寄った接骨院ではもう少しかかると
 言われていた。アウロスは怪我の回復が常人より遅く、こう言う事は珍しくない。
「だから、治るまでは私が世話をする事にしました」
「……世話?」
「利き手が不自由だと日常的な行動でも億劫に感じるでしょう?
 だから、私がそれを支援すると言っているの」
  そう宣言し、エプロンのフリルを摘む。この格好は支援用の装備と言う事らしい。
「そんなの良いって」
「貴方が良くても私は良くないの。それに、その身体で敵に襲われたら
 ひとたまりもないでしょう? それも私が支援する」
「襲われるような敵などいない」
「いいえ。貴方の性格を考慮した場合、知らぬ間に怨みを買っている可能性は極めて高いと
 判断せざるを得ない。この機会を心待ちにしていた暗殺者は必ずいる筈よ」
「お前にだけは言われたくないよな……」
  疲労が更に上乗せされた。
「兎に角。これから暫くは私が護衛するから、貴方は安心して眠りにつきなさい。
 例えそれが永遠であっても、私は護るから」
  更に倍的な凄い事を言われたアウロスは、肘から下だけで器用にルーリングし、
 自分の顔を青魔術で無理矢理冷やした。
「……何をしているの?」
「気にするな。さて、冗談はさておき」
「私は本気よ」
  面倒なので無視する事にした。
「お前、殺されるのは止めにしたのか?」
  ずっと気になっていた事を聞いてみる。
 ルインの表情は穏やかだった。それで答えが読める程に。
「あの男は探す。でも、それは殺される為じゃなく、真相を知る為。何故私が生かされたのか」
「それを知った後はどうするんだ?」
「墓守に」
  ルインはアウロスの言った事を忠実に守る事をここに宣言した。
(……まあ、死ぬよりはマシか)
  十代で墓守と言うのは余りに枯れた生き方だが、そこから別の道が派生する可能性は
 十分にある。それが生きている事の特権だ。
「研究は止めるのか?」
「元から研究なんかに興味はないから。ミストの下に付く手前、体裁を整える為に
 やっているだけ。あの男と組むのは不本意だけれど、大学の情報網と安定した収入が
 必要だったから」
  実際、ルインの論文は優れているとは言い難い。研究室に配属されている人間が
 必ずしも自分の論文を製作しなければならないと言う掟はないが、ルインのように
 外部から来た人間が上司の手伝いだけと言うのは、怪しまれる材料となり得る。
 その防止策と言う事だ。
「貴方は何故魔術の研究なんてしているの?」
  今度はルインがアウロスに問い掛けた。
「名前を残す為だ」
「名前を残すのなら、他の方法は幾らでもあるでしょう」
「アウロス=エルガーデンの名前を残すのは、これしかない」
  そう断言し、アウロスはベッドに腰を下ろした。
「何故、名前を残すの?」
「生きた証を残したいんだよ。アウロス=エルガーデンは確かにこの世に生まれて、
 そして魔術士として偉大な足跡を残しました――――ってな」
「……」
  ルインの表情が微かに強張る。
「貴方は、やはり……」
「ん?」
「……いえ、何でもない」
  言いかけた言葉は結局呑み込まれた。アウロスもそれを追求する事はなく、その眼を
 無意識の内に擦り、小さく息を吸う。
「早く横になった方が良いみたいね。疲労が目に見えるくらい溜まっているようだから」
「ああ。そうさせて貰う」
  既に疲労のピークを超えているアウロスは、ルインの言葉に従い上体を倒した。
 久し振りの自室のベッドは、多少固くとも心地良い。シーツから香る太陽の匂いも
 心を癒してくれる。アウロスの身体は次第に力を失った。
「お前、情報ギルドについて詳しかったりする?」
  それで口が開いてしまうのは、悪い癖だった。
「多少なら。それがどうかしたの?」
「いや……」
  力の残っていない精神が、それ以上の問い掛けを沈ませる。
「言いなさい」
  しかしルインはそれを力ずくで引き上げた。
「情報ギルドのライセンス更新に、本人のライセンスは必要なのか?」
「そう言う話は聞いた事ないけれど。手続きは書面にサインする程度でしょう」
  ルインの答えは明確だった。明確に、アウロスの心を射抜く。
 アウロスはそれ以上何も言わず、息すら吐かずに目を瞑った。
「何か、あった?」
  唐突なのか、そうでないのか――――ルインが穏やかに尋ねて来る。それに対し
 どう答えようかと言う思考すら、今のアウロスには億劫だった。
「別に。ただ、これまでが上手く行き過ぎてたんだ。その歯車が狂って来たんで、
 少し神経質になっただけ」
  だから、つい本音が出る。アウロスにとって、他人に対してここまで無防備になったのは、
 この地に来て以来初めての事だ。
「顔に出てたか?」
「ええ。疲労もだけど、そっちの方が遥かに」
  三角帽子のつばを撫でながら、視線をアウロスに向ける。
 その目は決して澄んではいないが、子供の頃に見たものと同じ色をしていた。
「貴方の弱い所を見た」
「忘れろ」
「ふふっ」
  ルインの笑みはいつだって皮肉に満ちていた。意図してそう見せていた。
 しかし、今見せたものは紛れもなく自然な笑い顔だった。
 アウロスはその顔を目視した事に、こそばゆい感情を抱いていた。
「ま、悩んでも仕方がないんだよな。結局やれる事をやるしかないんだから。
 明日からはまた研究漬けだし」
「立ち直りが早いのね」
「割と楽な生き方してるもんで」
「私には、そうは見えないけれど。何か自分の手に余る荷物を抱えて、
 二進も三進も行かない――――そんな風に見える」
  ルインの指摘に、アウロスは戸惑いすら感じた。そして、今はそれを隠せない。
「お前、意外と洞察が出来るんだな」
「……どう言う意味かしら」
「他人の事なんて眼中にないって感じだったからさ」
  孤高の魔女と揶揄されていたルイン。その神秘的なまでに美しい顔立ちと、
 辛辣なまでに他人を毒する目と口は、彼女の周りを必要以上に騒がしくした事だろう。
 しかし、ルインがそんな声に耳を傾けている風景をアウロスは見た事がなかった。
 研究室においても、誰と会話するでもなく、ただ事務的なだけの報告をし、カンファレンスが
 終わると同時に部屋を去る。日中はいない事の方がずっと多い。
「でも、俺に対してはそうでもないか。初めから割と話はしてたしな。攻撃的ではあったけど」
「……」
「もしかして、俺の事をずっと覚えてたとか? でも七年前の俺と今の俺じゃ全然違うんだし、
 直ぐにわかる訳ないか」
「そうでもないけれど? 身体は華奢なままだし、面影も随分残って……」
  そこまで言って、ルインは口を塞いだ。しかし手遅れと気付き、逃げるように顔を背ける。 
「……本当かよ」
「早く寝なさい」
  その言葉にアウロスは思わず苦笑する。幸いな事に、ルインの視界には入っていない。
「……あの頃から、貴方にはずっと迷惑を掛けているから」
「まだ言ってんのか。お前に責任なんてない。手に余る荷物持ってるのはそっちだろ」
  アウロスはいよいよ重くなってきた瞼を強引に持ち上げつつ、そっぽを向いているルインに
 睨みを利かす。しかし迫力を醸し出すのは無理と判断し、結局諭すような口調を選択した。
「俺は迷惑なんて被った覚えはないから、自分の事だけしてろ。な」
「でも、護衛はするから」
「俺は拒否したからな」
「するから」
  ルインは強情だった。責任感が強く、言えば言う程意固地になるタイプ。
 そう言う人間を諭すには、代わりの役割を与えれば良い。
「じゃ、時間ある時に研究を手伝ってくれ。それで差し引きゼロ。良いな?」
  消えかけの思考でそう判断し、そう聞く。ルインが納得していたのかどうか、
 もうアウロスにはわからなかった。
「後、その格好は止め。何か違うから」
「? これは給仕の者が着る由緒正しい……」
「いいから止め」
「……わかった」
  素直な肯定。
 そんな世の中にありふれた返事がルインの口から発せられた事がおかしくて、
 アウロスは脱力した。
  それを合図に、睡魔が本格的に仕事を始める。
  色々あった数日間が、そこで終わった。



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