強行日程による弔悼と材料探索の旅が終わり、ウォルトと別れたアウロスは、
 重い足取りを引きずるようにして家路についていた。
  空は既に暗然としており、街灯に灯る光に数種類の細かい虫が回るように遊泳している。
 その横をアウロスが通ると、避けるように慌てて散開して行った。
  とにかく休みたい――――そんな弱音にも似た要求が内部から何度も何度も湧き出てくる。
 馬車による移動の為、肉体的疲労は以前より大分マシなのだが、精神的には比較に
 ならない負荷が掛かっていた。
  ――――錬金術師、曰く。
『この条件であれば、適合する金属は【メルクリウス】かの。揮発性がなく、合成にも向いて
 おるし、高価でもない。とは言え、ここや御主の住む地域にある鉱山では殆ど採取されて
 おらぬ。そうじゃな……隣国のエチェベリアであれば相当な量を保有しておる筈じゃが』
  七年前のガーナッツ戦争以来、デ・ラ・ペーニャとエチェベリアの間で行われている交易は
 最小限の物質に限られ、しかもその殆どが食材で埋められている。加えて、元々魔術国家
 であるこの国には、武器防具に使用される類の金属は余り必要ない。そんな理由から、
 アウロスの望む金属は国内には余り流出していないと言う事が発覚した。つまり、魔具を
 大量生産したければ隣国エチェベリアから輸入しなくてはならないと言う事だが、それは
 両国の関係上不可能に近い。魔術士全体へ普及させる事を目的とした研究で密輸など
 出来る筈もなく、結局は手詰まりと言う状況になった。
(生物兵器の方も入手出来る保障はないしな……どうしたもんか)
  研究者は悩むのが仕事だ。それにストレスを感じるようでは勤まらない。アウロスも
 それは重々承知している。しかし、アウロスは日に日に心が重くなっているのを実感せざるを
 得なかった。
(……くそっ)
  誰にと言う訳でもなく悪態を吐き、道端に転がっている石を蹴飛ばした。その石が何度か
 地面を叩き、とある建物の壁にコツンと当たって止まる。そこが料理店【ボン・キュ・ボン】で
 ある事に、アウロスはようやく気が付いた。
  扉の前に立ち、一つ息を吐く。陰鬱な気持ちがそれで消える訳ではないが、区切りを付ける
 必要はあった。
  自分を迎え入れてくれる場所――――例え刹那的であろうとも、そう言う場所に
 出会えた事は幸運と言える。アウロスはその場所に負の感情を入れたくなかった。
(そう思う事自体、本当は良くない事なんだけどな……)
  いずれ確実になくなるものに思いを馳せるのは、合理的ではないからだ。
  合理性を欠く行動は、どこかで破綻する。そして、一度破綻しただけで全てが終わると言う
 可能性もある。この世界はそれ程までに厳しい。
  アウロスには目標がある。それは論文を完成させ、アウロス=エルガーデンの名前を
 後世に残す事だ。そしてその為に努力して来た。
  努力とは、目的を達成する為の労働。それは結果が伴わずとも、人格形成や蓄積など
 他の目的に役立つ事がある。しかし、その目的が人生における絶対的なものであった場合、
 努力の定義は変わる。アウロスのして来た努力とは、目的を達成出来なくなるリスクを
 排除する事だった。それはつまり、合理的に生きる事。時として、人である事の喜びとされる
 ものも捨てて、アウロスはここまで来た。
  にも拘らず――――それが破綻しつつある。様々な要因がアウロスを弱くしていた。
  ラディが去った事も。
  グレスが死んだ事も。
  順調だった研究が、徐々に暗礁に乗り上げている事も。
『何かにすがれば良い』
『全て投げ出せば良い』
  そんな誘惑が、疲労困憊のアウロスを襲う。
  普段なら、聞こえない声。それが今ははっきりと聞こえてしまう。
  十七、八年しか生きていない人間は、そう簡単にその声を閉め出す事は出来ない。
  目の前の扉の向こうには、優しい光が見える。
  今ここを開けば、全てが終わってしまう――――そんな強迫観念すら抱いてしまう。
  アウロスは、闇に同化した自分の服を見た。
  少しよたれたその黒い服は、魔術士の証であるローブ。
  こんな所にも矛盾が転がっている。
  自分の存在が、浮き彫りになる。
  アウロスは動けなくなった。
  これまで幾度となく受けた中傷、そして嘲笑。それらが渦巻き、精神を侵す。
  表面で弾き返せも小さな傷として記憶されたものが、普段は決して目に付かない
 それらの傷が、アウロスを動けなくした。
  恐怖に駆られる。それは目的を達成出来ないかもしれないと言う恐怖だ。
  研究は一人では出来ない。
  自分がいて、協力してくれる人がいて、初めて成立する作業だ。
  しかし人は必ずしもそこに居続ける訳ではない。去る事もあれば、死ぬ事もある。
  それは当たり前の事だったが、実際に触れてみると、怖くて仕方がない。
  乖離する――――
  未来の偉大なる研究者アウロス=エルガーデンと、魔術士としての才能が皆無な自分が
 乖離して行く。
  そんな感覚に、眩暈と吐き気をもよおした。
「……っ」
  扉の前で、しゃがみこむ。
  一人になればこれ程弱い存在なのだと再確認せざるを得ない。
  余りにも不安定で頼りない存在だ。
(わかってた事だけど……改めて突きつけられるとキツイな、ったく……)
  歯を食いしばり、アウロスは耐えた。
  消えてしまいそうな感覚や、堕ちてしまいそうな感覚が、漠然とした圧迫感で襲ってくる。
  アウロスは必死でそれらに耐えた。
  それはまるで嵐の夜に部屋の中でうずくまる子供のようだった。
(……がんばろうな)
  そう心中で呟く。
  それはおまじないのようなものだった。
  合理性には程遠い筈の、それでいて何よりも即効性のある、大事な言葉。
  アウロスは、大きく息を吐いて立ち上がった。
  恐怖が去った訳ではない。
  問題が解決した訳でもない。
  それでも、目標に向かう為に必要な英気は少し回復し、雑音は消えた。
「ふぅ……」
  もう一度大きく息を吐き、アウロスは扉に手を掛けた。
  そして、何事もなかったかのように振舞おうと努力する。
「只今戻り……」
  だが――――料理店【ボン・キュ・ボン】に入った瞬間、アウロスは先程より
 遥かに強い眩暈に襲われた。
「いらっしゃいませ」
  歓迎の挨拶が耳に届く。その声はクレールのものでもピッツのものでもなかった。
  基本的にこの店に店員を雇う余裕はない。よってクレールのいない時間はピッツが、
 クレールの帰宅後は彼女が客の対応を行う。その際、ピッツの格好はシェフのそれであり、
 クレールは仕事着であるローブをそのまま身に付けている。
 だから、黒のワンピースにフリルの付いた白エプロンを組み合わせたエプロンドレスなど
 着ている筈もない。まして、頭に先の少し折れた三角帽子など被る訳がない。
 そして何より、それらを身に付け丁寧にお辞儀しているその女性が、
 大学内で魔女と恐れられているルイン=リッジウェアであるなど、どう考えてもあり得ない。
「……幻覚か。疲れてるし」
  そう判断し、アウロスは目を擦りつつ素通りした。
「誰が幻の中の住人ですって?」
  しかし現実だった。その声は紛れもなくルインだ。
「こちらの席へどうぞ」
  そして、全く慣れた様子のない誘導でアウロスを中央のテーブルに案内する。
 それは完全に店員の行動だった。
「こちらメニューとなっております。御注文が決まりましたら、御声を掛けて下さい」
  所々声が裏返っていた。
「……」
  アウロスは三分悩んだ。時折首を傾げ、頭の中心に膿が出来たかのような錯覚に襲われ
 悶えたりした。
  そして開口。
「何でお前がここにいるんだ」
「早く注文を」
  店員は横暴にも客の言葉を完全無視した。
「……水」
「御注文を繰り返します。水。水一杯。人として余りに無様で惨めな水一杯の御注文ですね?」
「余計な事は言わなくて良いからとっとと持って来い」
「……」
  ルインは店員にあるまじき人心を蹂躙する類の笑みを浮かべ、店の奥に向かった。
 そして十秒と経たずに戻って来る。
「水でございます。ごゆっくりどうぞ。出来るものなら」
  店員にあるまじき人心を圧迫する笑みを携え、再び店の奥へと消えた。
  それと入れ替わるように、クレールが二階から降りて来る。偶然ではなくタイミングを
 見計らっていたようで、店の奥を半眼で見つめていた。
「驚いたでしょ」
「何であいつがここにいるんだ? と言うかあの格好はどう言う事だ?
 つーかあの態度は何なんだ」
  アウロスの口が徐々に荒れて来る。一気飲みした水が実は酒だったと言う訳ではない。
 単に疲労がピークに達しただけだ。
「私に言われてもね。お店の事はお姉ちゃんに一任してるし。何よりも、貴方より私の方が
 絶対驚いてるから」
「まあ、それはそうだろうけど……」
  犬猿の仲と自覚している相手が自分の店で働くと聞かされれば、戸惑わない方が
 どうかしている。
「取り敢えず、短期でって事らしいけど。詳しい事は本人に聞けば? 貴方達仲良いみたいだし」
「別に良いって訳でもねーよ。現にさっきも不本意な対応をされたばかりだ」
「水だけ頼むお客様への対応としては許容範囲内だったと思うけど……って、何で私が
 あの女をフォローしてるのよ」
「俺に言うな。つーか眠いからもう寝る」
「ま、いいけど。じゃ、お休み」
  アウロスはそれに手で応え、二階へ上がった。
「ふぅ……」
 様々な疲労の抜け殻を吐き出しつつ、久し振りの自室へ入る。
 そこには見慣れた空間と――――
「お帰りなさい」
  変な店員の姿があった。




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