人数が減った会議室は、それでも何処か密度が増したように重く、窓に付着した
 朝露が凍りそうな程に空気が張り詰めていた。
「さて、もう遠慮する必要はなくなった。腹を割って話そうじゃないか」
「そうですね」
  記録員を遠ざけた理由は、勿論、記録されると困る内容の話し合いを行うと言う事。
 この時点で、証拠のない無罪を勝ち取る道がついに開けた。
 後は、そこにどんな通行料を支払うか。それが最難関だ。
「ミストが君をこの場に送ったと言う事は、君に信頼を寄せていると言う事だろう。
 片腕はレヴィ=エンロールだとばかり思っていたが……或いはフェイクか。ん?」
  まずは相手を持ち上げる。どんな立場にいても、交渉の基本はそこから始まる。
 ライコネンもまたそれに倣った。
「となれば当然ながら、ミストの企てについてある程度は聞かされているだろう」
「おい親父、何の話を……」
「お前は黙っていろ。全く、余計な事をベラベラ喋りおって……」
  さすがに堪忍袋も限界に達したのか、目ではなく言葉で邪魔を制した。ガルシドの
 身体が目に見えて小さくなる様子は中々に愉快だったが、今はそれを笑う余裕など
 アウロスにはない。
「失礼。それで、どうだね。取引と行こうじゃないか」
「取引、ですか」
  それはアウロスにとって予想通りの言葉だった。
 でなければ、彼がここに来た意味がない。
 当然、内容は――――
「私に付きたまえ。そうすれば、盗作の件は私がどうにかしようじゃないか」
「なっ……」
  驚きはガルシドもクレールも同様だったが、声はガルシドだけが漏らした。
 クレールにとって、現在の流れは自身の想定の外にあるもので、全く入って行く事が
 出来ない。自分の事なのに自分は何も出来ないと言う状況はかなりの歯痒さと辛苦を
 伴うが、それでもクレールは耐えるように黙していた。隣に座る年下の少年に全てを委ねて。
「査問委員会には私の息が掛かった人間が数人いる。
 彼らを使えば、『実は偶然の一致だった』と最終報告書に記載する事も可能だ」
「見返りに、ミスト助教授について今持っている情報をリークしろと」
「話が早いな。さすがミストの片腕」
  感心したかのような科白だが、その目は一貫して全く笑っていない。
 敵が大物である事は間違いない。しかし――――
(そうでなきゃ、な)
  内心、アウロスは安堵に近い感情を抱いていた。予定通りの話の流れを作るに
 当たって、相手の力量が予想を大きく外れていては困るのだ。ライコネン=ヒーピャと言う
 人物が隣の息子と同レベルだったら、逆にアウロスは頭を抱えていただろう。あくまでも
 主導権は向こうにあり、この場を壊す事も向こうだけが持つ権利だ。この話し合いに
 価値を見出せない程度の人間なら、それを行使する事もあるだろう。が、目の前の相手は
 自分の要求する全てが自分の元に飛び込んでくると信じて疑わないだけの自信と実績を
 持っている。
  だから、成り立つ。
「ついでに、今後の彼の動きに関しても定期的に知らせて頂きたい。どうかね?」
  人間の欲求は果てしない。まだ返事も聞かない内に更なる要求を突き付ける。
 これもまた、この交渉に対する絶対的な自信によるものだ。
「少し考えさせて下さい。時間は取らせません」
  アウロスの言葉にライコネンが頷き、場が沈黙に包まれる。クレールが心配そうに
 見つめる中、アウロスは目を閉じて腕組みした。
(さあ……ここが正念場だ)
  教授クラスが一人しかいないこの場において、ライコネンの発言力は絶対だ。
 彼が黒と言えば白も闇に染まる。つまり、彼に白と言わせる事ができれば、
 紙は白く塗られる事になる。
  自己抑制が上手ではなく、直ぐに冷静さを欠くガルシドを利用し、彼と対峙する所まで
 順調に事は運んだ。
  後は、詰めだ。
「決めました」
  アウロスの目が開き、その視界にライコネンの顔とその後ろの壁が映る。
 視点は常に遠くへ――――敵と接する際のアウロスの癖だ。
「交渉を始めましょう。まずはこちらの条件を正式に提示します」
  交渉する際には、まず譲れないカードと譲っても良いカードをそれぞれ区分けする
 事から始まる。それらを分けたら、次はそのカードに優先順位と攻撃性能を付加する。
 これは非常に重要な作業で、上手くやれば自分にとって大したこだわりのないカードでも、
 相手には屈強な傭兵を雇って守っているように見せる事が出来る。
 その作業を念入りに行ったら、いよいよ交渉だ。
 相手へのアプローチには大まかに二通りの方法がある。
 一つは攻撃的、もう一つは守備的。
 前者は目的の理想的完遂を最優先とし、そこから少しずつ妥協して行く方法。
 後者は絶対に譲れないカードを死守しつつ、譲っても良いカードを駆使して徐々に
 落としどころの水準を上げていく方法。
 この二つの選択は、自分や相手の性格、立場、関係、その後への影響を加味して
 使い分けなくてはならない。
「クレール=レドワンスに対する罰の無効。これがこちらの出す条件です」
  アウロスは後者を選択した。つまり、処分の無効を何よりも優先すると言う事だ。
 『無実』ではなく『無効』。つまり、無罪の証明ではなく、御咎めなしを最優先事項にした
 と言う事だ。クレールが無実であると証明された場合、本来ならどちらかが盗作して
 いなければおかしな状況なので、当然今度はガルシドの方に盗作の疑惑が浮上する。
 しかしそこには一切触れず、全てを灰色に染めてしまう事で、その疑惑を揉み消す。
 要は誰が犯人かを追及せず、この件を時間によって風化させてしまおう、或いは初めから
 なかった事にしてしまおうと言う提案だ。一般の感覚ならおかしな話だと思われるが、
 権力の漂う閉鎖空間では度々行われる手法だ。無論、目の前の男にとってはこの上なく
 楽な条件だ。怪しむ事も特になく、納得の笑みを自然と浮かべている。
  選択は――――正しかった。
「宜しい。実に有意義な交渉だ。では、こちらの条件を呑んでくれるのだね?」
  ライコネンの確認に、クレールの目があからさまに泳ぐ。クレールにしてみれば
 当然ながら納得の行く流れではない。幾ら公になっていないとは言え、身に覚えのない
 疑惑を掛けられ、それが有耶無耶のままではスッキリする筈もない。しかしガルシドとは
 違い、声に出して混乱状態を晒しはしない。自己制御がしっかりしている証拠だ。
 どちらがあの論文に相応しいか、これだけでも十分わかる。
「その前に、一つ聞きたい事があります」
  そんなクレールの様子を横目で眺めつつ、アウロスが口を開く。
「この取引に応じると言う事は、我々の立場は極めて不安定なものになります。
 保護して頂けるのでしょうか?」
「無論だ。正式に間者として働いて貰うのだから、相応の報酬も出そう」
「報酬……」
  敢えて、そこを切り取る。古今東西、悪人が連帯意識を持つのは『お金』。ここでそれに
 興味を示せば、自分達の仲間であると確信してくれる。そうなれば、話は滞りなく進む。
「ククク……はっはっはっは!」
  案の定、ガルシドは期待通り食い付いてくれた。
「そうか、そう言う事か。てっきり身の潔白を証明したいと青臭い主張を延々と
 聞かされるのかと思えば……初めから俺らにすがる気だったのか」
「そっ……」
  さすがに否定の言葉を唱えようとしたクレールを、アウロスは踵で制した。
 足を踏まれた痛みにクレールの顔が歪む。しかし意図は通じたのか、クレールは
 物凄い形相をしつつも沈黙を守った。
「確かに、今の貴女の立場を考えればなあ、こうするしかないよなあ!
 ここで生き残るにはなあ! ククク……あーっはっはっは! おいお前、以前の暴言、
 許してやるよ。俺に覚えて貰えるよう必死だったんだろ? ククク……ふはは!」
  踊る踊る。踊らないと損をするとでも言わんばかりに。
「にしても大したもんだよ。親父の事だから全部狙い通りだったんだろな。
 これで俺らライコネン研究室も安泰だ」
「止めんか。全く……」
  ハイになったガルシアを制する言葉だが、今度はなだめる様な物言い。
 やはり父親と言う事だ。息子の褒め言葉に満更でもない様子が窺える。
 それがダメ押しとなった。
「これにサインをしなさい」
  気分を良くしたライコネンがおもむろに鞄を開け、一枚の紙を取り出した。
 交渉中、アウロスが幾重となく試みて来た場の空気への配慮がついに実を結んだ瞬間だ。
「この書類には認諾調書と同等の力がある。つまり、これが査問委員会に受理されれば、
 その瞬間に君を咎めるものはなくなる。誰もその決定を覆す事は出来ない」
  既に『自称』被害者のガルシド=ヒーピャと学長の捺印は成されている。予め
 こうなる事を予測していなければ用意出来ない書類だ。彼にとっても、この交渉は
 全てが予想通りであり、最高の結果を得られた――――と言ったところか。
「……」
  クレールはもう一度アウロスに視線を向けた。これが結果ならば、やはり彼女の
 望むものではない。ミストに迷惑を掛けるくらいなら、無実の罪で大学を去る事も
 厭わない――――そんな思いは今も全く変わらない。しかしここでサインをしたら、
 その思いとは間逆の方へと向かう事になる。或いは最悪の結果と言っても良い。
「どうしたのかね? 早くしなさい」
  そんなライコネンの声も、クレールの耳には届いていない。クレールの脳裏には
 アウロスへの疑念が過ぎっている。
 ” 初めからこの流れで話を進めるつもりで、報酬目当てに自分を利用した―――― ”
「……フフッ」 
  クレールの顔に、自然と笑みが湧き出る。
 疑念を言葉にして心で反芻すると、余りに滑稽な響きだったからだ。
  アウロスとこの部屋の前で話した時から、彼に全てを委ねる覚悟でいた。
 まだ十七歳の、余り人と接する事のない少年。信じるには余りに心許ない。
 この契約がどう言う結末をもたらすのか、どう言う意図でここに漕ぎ着けたのか、
 クレールには全く見えていない。しかし、アウロスと言う人間の性質を分析すれば、
 何か隠された意図が存在する筈だと思わずにはいられなかった。
  後は、その人となりを信じるか否か。
  アウロスはクレールの思いを知っている。上司に対する感情、研究に対する意欲、
 そして自分自身に対しての棄て切れぬ希望を、全て知っている。
  そして――――
『絶対棄てるなよ。これからも、ずっと』
  決め手は直ぐ傍の記憶にあった。それが、クレールの手を滑らかに動かす。
「これで良いですか?」
  様々な葛藤の末、書類は完成した。それを見届けたガルシドが悪質なまでに
 下品な笑みで祝福する。彼の脳内では既に彼女の支配権を得たと解釈したのだろう。
「善し。これで君の罰は晴れて無効となった。おめでとう」
  ライコネンはクレールの下にある書類を一瞥し、ガルシドのそれより遥かに
 高度な微笑みを浮かべ、手を叩いた。
「では、早速だがミストについて教えて貰おう」
「時間は大丈夫なのですか?」
「もう私も歳なのでな。休憩はたっぷり取らなくてはいけない」
  ヒーピャ親子の笑い声が会議室に響く。
  そんな浮ついた会話に終止符を――――アウロスは心中で高らかにそう告げた。
「では、お教えしましょう」
  あくまで、平然と。
「ミスト助教授は、貴方の教会との癒着について調査しています」
「やはりか……。しかし、まだ核心には触れていないのだろうな」
 そして、さりげなく。
「ええ。ですから、貴方の部屋が空になるのを心待ちにしていました」
「!」
  提示した情報に、それまで脱力していたガルシドの顔が引きつる。
「ま、まさか……このガキ……」
「落ち着け。私の部屋には常に封術を施してある。他人が侵入する事は出来ないのだ」
「普通ならそうですね」 
  ライコネンの眉がピクリと動く。
「高レベルの封術は、認証コードを知らなければまず解除は出来ない。
 逆に言えば、認証コードさえ知っていれば簡単に解除出来る」
「だが、その認証コードは私と極一部の者しか知らない。大学の管理も行き届いている。
 ミストが知る事は出来ない筈だ」
「ところが」
  アウロスは予め机の下に置いていた書類を拾い、それを掲げて見せた。
「そ、それは……!」
「俺の論文……オリジナル原稿だとおっ!?」
  動揺は広がる。隣のクレールも唖然としていた。
「この大学でも上位の機密空間である保管室に保管されているこれを持ち出せる……
 この意味、わかりますよね?」
  アウロスがそう問い掛けると、それまでずっと大物の顔だったライコネンが
 唯の初老の男へと変貌した。歳こそ離れているが、やはり親子。仮面を取ったその姿は
 どこか似ている。
「く、くそっ! 罠か!」
「親父っ!」
  混乱する息子に構う余裕すらないライコネン教授は、飛び落りるように席を立ち、
 その勢いのまま会議室を出て行った。
「くそったれがっ!」
  負け犬の遠吠えを残し、息子も退散。
  敵は眼前からいなくなった。
「……ふぅ」
  全てを終え、アウロスは一つ息を吐く。その顔は安堵感に満ちていた。
「これが……狙いだった?」
  良くわからないと言った面持ちでクレールが問い掛ける。しかし目の前の敵が
 消え去った事もあってか、直ぐに冷静さを取り戻した。
「……え、でも何かおかしくない? 認証コードを知ってるなら、わざわざ私達が
 おびき寄せなくても、夜間とか出張中に忍び込めば良いんだし」
「鋭い」
  その指摘にアウロスが満足気に微笑む。
 認証コードを知っている訳ではないが、アウロスは何時でもライコネン教授の
 部屋に忍び込める技術を持っている。わざわざ自分が囮になる必要など全くない。

「それに、時間稼ぎが目的なら、真実をバラしはしない。
 世間話やらヨイショやらで拘束時間を伸ばすさ」
「じゃあ、一体……」
「目的は、それ」
  アウロスは人差し指で『それ』を指し示す。
「あ」
  そこには――――クレールを救う唯一の存在である、薄っぺらい紙があった。
「失礼します」
  クレールがその紙を手に取った瞬間、査問委員会の二人が戻って来た。
 その顔には若干の狼狽が見て取れる。
「あの、ライコネン教授がすさまじい剣幕で走って行ったのですが……何か問題が?」
「いえ。実は休憩中に話が進みまして、会議は滞りなく終了しました。
 次の予定が差し迫っているとの事でしたので、それで急いでいたのでしょう」
「そうですか」
  アウロスの淀みない物言いに納得したのか、或いはこれ以上この場所に
 拘束されるのが嫌なだけなのか、二人はあっさりと納得した。
「これを提出します。今回の件の認諾調書です」
  当然のように、それを渡す。
「捺印は全て成されていますね。はい、確かに受理しました。では失礼します」
  そして、それを当然のように受け取った査問委員会の記録員二名は、
 笑顔でその役割を終えた。
  その二人が去り、会議室にはアウロスとクレールの二人だけが残る。
「……私、これで、助かったの?」
「元々公になってはいない騒動だ。知ってるのは身内だけ。罰せられなきゃ
 直ぐに風化する。その程度のものだ」
「連中が幾ら取り消しを訴えても?」
「当人の口から出た言葉の通り、誰もその決定を覆す事は出来ない」
「ミスト助教授を騙さなくても良いの?」
「あの書類はあくまでお前が罰を受けなくて良いってもので、連中の要求に応える事を
 
約束したものじゃない」
「私……ここにいられるの?」
「別件でクビにならなきゃ、な」
  アウロスの冗談に、クレールの顔が崩れる――――
「……っく、あはっ……あははっ……」
  止めどなく流れる涙を気にも留めず、泣きながら笑った。その顔は、アウロスが見た
 彼女の顔の中で最も不細工で、ようやく見せた本当の顔のように思えた。
 それだけで、妙に得した気分なる。
「ま、これでお前の呪いとやらも解けたんじゃないか?」
「えぅ……?」
「多分、近い内にわかる。恩人や想い人には呪いなんて掛かってない。
 栄光の道を直走ってるってな。と言うか、お前がそれを……いや、やっぱり良い」
  含みを持たせた言葉で締めて、席を立つ。何時までもここにいる意味はない。
「じゃ、俺は研究室でちょっと寝る。お休み」
  左手で椅子を戻し、アウロスは扉の方へ向かう。
「あ、あのっ」
  右肩を固定した痛々しい後姿に向かって、クレールは心からのお辞儀をした。
「ありがとう……」
  それに言葉で答える事はなかったが――――アウロスは左手の小指でポリポリと
 頬を掻いていた。
  その仕草は、雲の隙間から僅かに覗く朝陽に少し似ていた。


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