夜明けと共に、アウロスは小屋の中に戻った。暖かな空気を吸い、それを吐き出す。
  呼気と共に、記憶がまるで亡霊のように身体の周りに広がっている――――
 そんな錯覚が痛々しかった。
  アウロスは余り過去の事を思い出さないようにしている。
 その理由は単純で、良い思い出が一欠片しかないから。
 そして、その欠片もまた、思い出したくない理由の一つだった。
(――――なのに、何故……)
  夢ならば仕方ない部分もある。防御壁がないのだから。
 しかし、無意識に過去の風景を見ると言う事は、最近ではまずない事だった。
「何呆けてるの?」
  そんな思考の乱れを見透かしたかのような、鋭い声。
 眠りの魔女は既に目を開け立ち上がり、帽子もしっかり被っていた。
「起きてたのか」
「この状況で安眠出来る程、無神経じゃないから」
  寝起きではないらしいルインは柄でもない事を呟きつつ、背後の扉を
 目だけで見やった。
「居るのか?」
「例の殺気を放った人間ではないみたいね。少し感じが違う」
  ルインの肯定はアウロスにとって微妙なものとなった。ありとあらゆる負の要素を
 混ぜ込んだかのようなあの殺気の持ち主ではないと言うのは吉報だが、追っ手から
 執拗に狙われている事自体は決して歓迎すべき事態ではない。
「とは言っても、唯の雑兵でもなさそうね。気配の絶ち方が堂に入っている。
 この辺りが街中だったら、私でも感知出来ないかもしれない」
  繰り返しになるが、アウロスは気配の察知を苦手としている。
 しかも現在の大学に来て以来、その苦手意識は増すばかりだ。
 思わず半眼でその元凶を見やる。
「何?」
「いや何も。それで、戦力までわかったりするのか? お前の超能力は」
「そんな大層なものでもないから、人数くらいよ。恐らくは6名」
  十分超能力だった。
「夜が明けても見逃してはくれない粘着っぷりから察するに、相当なモチベーションで
 狙われてるんだな、俺ら」
「賞金首の辛いところね」
  重大事実がコロリと落ちて来た。
「……だから。そう言う事はもっと早く言っておいてくれ。何だよ賞金首って」
「私の首には90,000ユローくらいの値札がぶら下がってるの。私の通り名を聞いた瞬間、
 薄気味悪い笑みを浮かべたあの男は当然それを知っているでしょうね」
「道理で。今頃目を輝かせて吉報を待ってるんだろな」
「どうする?」
  嘆息するアウロスに、ルインは悪戯な瞳を向けて抽象的に問い掛ける。
 口元は少し綻んでいた。
「私を差し出せば、貴方は無傷で帰して貰えるかもしれない。寧ろ、上手く事を運べば
 恩を売る事も可能でしょうね」
  誇りか、優しさか――――ルインの言葉は、皮肉を含みつつもアウロスの保身を
 促すものだった。しかし、その言動はともかく、表情は明らかに作り物だった。
 如何せん、彼女は笑顔が上手くない。
 それを何となく愉快に思いつつ、アウロスは腰を上げた。
「冗談はそこまでにしとけ。さっさと対策を練るぞ」
「……」
  或いは本心だったのか――――アウロスの反応にルインは真顔で沈黙した。
 
いずれにしても、アウロスに真摯に受け止める気はなかったが。
「2対6、更に増援の可能性あり。こう言う状況では、まず逃走経路の確保が第一だな。
 無駄に戦う意味はない」
「……この辺の地理は全くわからないけれど、逃げてはいけない方向はわかっている」
「そうだな。敵の本拠地に突っ込んでも仕方ない。反対側に向かって走るしかないだろう」
  ルインが話に乗ってきた事で内心安堵しつつ、会話進行。
「取り敢えずちょいと捻った感じの封術でここは塞いでるから、今のところ踏み込まれる
 心配はしなくて良い。ただ、出た瞬間の集中砲火は免れないだろう」
「対処法は?」
「ただ単に結界を張るだけでは難しいな。6人も居るんじゃ2人の結界では手に余る。
 敵の裏をかく必要がある」
  魔術士の綴る結界は万能ではない。6種類の魔術を防ぐには6種類の結界が
 必要――――と言う程融通が利かない訳ではないが、基本的には個々の攻撃魔術に
 対応した結界でなければ完璧には防げない。熱に弱い結界もあれば風圧に脆い結界も
 ある。それに、範囲の問題も無視出来ない。360°対応の結界は魔力の消費が激しく、
 仮に囲まれてしまった状況で集中砲火を浴びると、あっと言う間に魔力が底を
 付いてしまう。特にアウロスのような燃料の少ない魔術士であれば尚更だ。
 それらの理由から、この小屋の出方には気を使う必要がある。
「投降したフリとか?」
「命狙われてるのにそんな事してどうする。要は、一斉攻撃をさせなきゃ良いんだ。
 ある程度のタイムラグさえあれば何とでもなる」
「何とでもなるの?」
「ま、何とでも」
  ぶっきらぼうだが淀みはない。それを感じ取ったのか、ルインは疑惑の視線を止めた。
「それじゃ、具体的な作戦について俺の意見を述べる」
  窓から差し込んでくる日光が明るさを増し、床に落ちている埃が徐々に視界に
 入って来る。アウロスは暫くそれを見つめ、視線をルインの目へ向けた。
「分担作業だ。お前は退路を見つけろ」
  ルインの顔がピクッと動く。それを確認し、続けた。
「俺は敵を足止めする。市街地なり公道なり逃げられそうなサインを見つけたら、
 頃合を見て音か何かで合図してくれれば良い」
「……それは、貴方が囮になると言う事?」
「ああ。俺はお前のように気配は消せないから、2人同時に逃げるのは得策じゃないし、
 2手に別れても同じ事だ。ならお前に逃げる方向を検索して貰って、その間に俺が
 囮になるのが一番効率が良いって訳だ」
  穏やかに説くアウロスに、ルインは冷たい笑みを浮かべた。
「それなら、私が囮になる方が貴方には都合が良いでしょう?」
  冷たい瞳、冷たい微笑――――
「私が一人出て行けば、連中は貴方の事など眼中から外す。標的は私なのだから。
 幾ら気配を悟られても、そうなれば貴方は確実に逃げられる筈」
  決して暖かではない口調で紡いだ言葉の内容は、
『自分が足止めをするから貴方は逃げて』
と言う、古典的な自己犠牲論だった。
 尤も、このような事態に巻き込んだ事への落とし前としてはこちらの方が正論ではある。
 ルインにとって、アウロスの提案はある意味屈辱的だったのかもしれない。
「お前、複数の敵と戦り合った経験はどれくらいある?」
  しかしアウロスはそんなルインの意見を跳ね除ける為の作業に取り掛かる。
「それはもう。星の数程の……」
「嘘吐け」
  再びバッサリと否定。すると、ルインの顔に微かな狼狽が浮かんだ。
 正確には、アウロスにはそう見えた。
「殺し屋は滅多に多人数で行動しない。徒党を組む事はあっても、仕事を行う際には
 単独を好む。特に暗殺者は一人でなければ何かと行動し難い」
  殺し屋の精神は、ほぼ例外なく故障ないし欠落している。
 死の概念を把握出来ていない者、常日頃標的の亡霊に怯える者、そして
 悦楽を覚える者――――いずれにせよ、隣に仲間を置けるような人間ではない。
「そんな連中を狩って来たのなら、当然一対一が主な戦闘状況だった筈だ。
 よって多対一には余り慣れていない。違うか?」
「……貴方は慣れていると言うの?」
  疑問を疑問で返す。通常は会話のペースを乱したり主導権を奪う為の手法だが、
 それは裏を返せば攻め込まれている事の証。アウロスは事実上の肯定と判断した。
「何十人もの敵の中に突っ込んで、一人でも多く道連れにする。
 それが俺の戦闘経験の大半だったからな。道連れとはならなかったが」
 目を伏せながら、呟くように。
「そう言う訳で、合理性の見地から囮に適任なのは俺。わかったか?」
「わからない」
  再び顔を上げたアウロスに、ルインは吐き棄てるように反論する。
 その表情は苛立ちや不愉快さがありありと見て取れた。
「そりゃ、戦闘の専門家相手に俺の力を信用しろとは言えないが……」
「そう言う事ではないのよ!」
  鋭さのない叫びがアウロスの鼓膜を圧迫した。
「何故貴方は率先して危険な役割を担おうとするの? 女性崇拝家を気取っているのなら、
 それは大いなる勘違いよ?」
  言葉は相変わらず攻撃的。だが、そこに魔女と恐れられ【死神を狩る者】と畏怖される
 女性の顔はない。それは意外でもあり、当然でもある。
 アウロスは彼女の事を良く知っている訳ではないのだ。
 であれば、今見ている彼女の方が風評や普段の外面からのイメージよりも
 本質に近いと言う可能性は決して低くはない。
「……それこそ大いなる勘違いだ」
  少々言葉に詰まりつつ、アウロスは作業を続ける。
「それなら尚の事!」
「良く考えてみろ。狙われてるのはお前。しかし飛び込んで来たのは標的ではない方の男。
 この場合、敵はどう動く?」
「それは……」
「連中にとって、俺の首は何の価値もない。だが、戦力として未知数の敵を無視は
 できないだろう。適当に人数を割いて、残りはお前の方を追う形になる筈。
 しかし、お前は気配を消す達人だ。幾ら相手が追跡のプロでも、視界が限定される
 森の中でお前を見つけるのは困難だ。初動が遅れれば、更に追いつける可能性は
 低くなる」
「……」
「まず俺が出て行く。すると、相手は肩透かしを喰らいつつも警戒する。警戒しながら
 お前の所在と動向を探るだろう。恐らく俺には一人か二人しか付かないだろな。
 だが、その一人二人で逃走の負担は一気に減る。そうなればある程度退路は
 見つけ易くなる。退路さえ確定すれば、逃げ切
るのは難しくない。
 重要なのは、多対一の数的不利な戦闘を出来るだけ最小限に抑える事。お前が
 囮として飛び込んで行ったり、二人同時に逃走したら、それが困難になる。簡単な理屈だ」
  感情論を排除した、機能的な理論――――実は全くそうではないのだが、その体を
取った
 怒涛の説明ラッシュに、ルインは納得出来ていないながらも反論できず、ただアウロスを
 睨んでいる。
「反論がないならこれで行くぞ」
  アウロスはその視線を振り切るように、半ば強引に作戦会議を打ち切り、扉の前に
 立って指を光らせ、施していた封術を解いた。これで小屋は材質のみの防御力になる。
「そっちに回った敵が追い付いて来た場合は自力でどうにかしてくれ。油断するなよ」
  敢えて挑発的に問う。その意図に沿うように、ルインは表情を変えた。
 いつもの彼女に近いそれに。
「言われなくとも、自分の身くらい自分で護れるのよ、私は。これまでもそうして来たんだから」
  昨日の言葉同様、彼女のこれまでの生涯を表す発言。
「……そうか」
「ええ」
  ある意味剥き出しとも言えるその物言いに、アウロスは――――今度は表情を
 崩す事なく受け止めた。
「じゃ、行ってみようか」
「集中砲火の件はどうするの?」
「それに関しては、考えがある。敵の大体の位置を教えてくれ」
  アウロスの問いに、ルインは扉の少し右の壁を指差した。それを見たアウロスは
 小さく頷き、指輪を光らせた。
  宙に舞う滑らかな文字。
  それは、逃走開始の合図だった。


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