忘れん坊の男の子 鈴も持たずに何処行くの
  そっちは蔵よ お家は向こう
  忘れん坊の男の子 靴も履かずに何処行くの
  そっちは村よ お家は向こう
  忘れん坊の男の子 服も着けずに何処行くの
  そっちは山よ お家は向こう


「……ん? 何か言いましたかね?」
  暗澹の中を揺蕩う歌声に、男が反応を示した。
 その男は濃い紫のローブを身にまとい、右手には木製の杖を、左手にはランプを
 所持している。魔術士の中において、紫色のローブは教会の人間しか身に付けては
 いけないと言う暗黙のルールがあり、彼はそれに該当する身分だと推測される。
「いえ、唯の鼻歌です。お気になさらず」
  そう返した男はランプを持っていなかった。教会の人間と思しき男の持つ光源とは
 数メートル程離れた場所におり、その姿はかろうじて輪郭のみがわかる程度しか
 見えない。声は闇にこそ隠れないが、水の流れる音と反響の影響でノイズがかった
 音になっている。
「ふむ。それでは早速だが、交渉の続きと行きましょうか」
  教会関係者は『交渉』と言う言葉を用いた。これは彼が使者である事を表している。
「とは言っても、こちら側が条件を下げる事はありません。つまり、貴方がた教会の
 裁量次第、と言う事になります」
「しかしそれでは交渉になりませんね……」
「あれの脅威は、誰よりも貴方がた戦争体験者が理解しているでしょう。
 であれば、その価値もまた然り。決して――――」
 意図的な間。それは次に繋ぐ言葉の強調を意味する。
「悪い条件ではない、と確信しています」
「む……」
  それが伝わったらしく、使者は思案顔で顎に手をやる。老人と言う程ではないが、
 それなりに年齢を重ねた肌がオレンジ色に染められている様は、落陽に照らされた
 古木のようだった。
「しかし、我々にはメンツと言うものがある。このような過去の遺物にしがみ付くのも、
 そう言うしがらみがあるからなのですよ。この条件で成立となると、余り良い顔を
 しない者も多いでしょう」
  使者は魔具の杖でコツン、と石の床を叩き、肩を竦めながら訴えた。
 困っているような素振りだが、その表情にはゆとりがある。こう言った場面は
 何度も経験しているらしい。
「こちらとしても、それを無視するつもりはありません。教会内部において立てどころを
 誤るのは、道を誤るに等しい行為でしょう。ですから、こうして何度も機会を設けている。
 必要な時間を提供している」
  それに対し、あくまで強気な言動に終始するもう一人の男の声にはゆとりはない。
 と言うより、感情が篭められていない様な話し方だった。
「……金額に関しては……まあどうとでもなるでしょう。漏洩防止の徹底や
 事業提携に関しても問題はない。しかし……」
  今度は使者が間を溜める。
「教会内の人事情報の提供及び人材の定期流通。これは難しいですね」
「しかし、こちらとしてはそれこそが最重要項目」
  扉を閉める音が聞こえて来そうな程、ピシャリと断言した。
「教会の情報規制は徹底している。不定期に風説の流布を行って各情報ギルドの信憑性を
 落としたり、密告者に対しては本人だけでなく血縁者まで罰したり……
 とてもじゃないが、私の権力では目を瞑れない」
「では、今日も交渉は不成立、と言う事で。次の日取りを決めましょう」
  予めそうなる事がわかっていたかのような、逡巡なき判断。
 交渉は決裂、と言う事だ。
 しかし次を設定する事で、糸が切れる事はない。
 そして、切れない限り糸は必ず緩む。
 双方が引っ張っているのだから。
「……見た所まだお若いのに、駆け引きの妙を心得ている。大したものですよ、貴方は」
「そんな事はないですよ。僕は唯……いえ、何でもありません」
  何を言いかけたのか――――使者はそれに関心を示す素振りもなく、
 年季の入った苦笑を浮かべていた。
「ではまた後日。進展がある事を祈って」
「この縁に主の御加護があらん事を」
  それぞれの決め科白を背中で吐いて――――巨大な密室での交渉は終わった。

(……何だか、なあ)
  その様子を一部始終壁死角から覗いていたアウロスの口から嘆息が漏れる。
 離れて行く二人の内、素性のわからない方の一人はアウロスの戻る方向へと
 歩を進めている。つまり、大学の関係者である可能性が高い。
 よってこの交渉は、大学の人間と教会関係者との間で行われた、謂わば闇の取引
 であると推測される。以前ウォルト=ベンゲルとウェバー=クラスラードとの間で
 行われていたものと似ているが、こちらは双方合意の中での行為。大学、教会共に
 こう言った個々の接点は基本的に認めておらず、どちらにとっても契約違反の行動だ。
 距離を取っていたのは互いの身の安全を保障する為と思われる。
 よって、初対面ではないが慣れ親しんだ関係でもない、と言えるだろう。
 そんな二人がどう言った取引をまとめようとしていたのか――――先程盗み聞きした
 やり取りからある程度の推測は可能だが、それを組み立てた所で何がどうなる訳でも
 なく、アウロスは考えるのを止めた。
(だが……)
  一つ引っかかる事があった。
  しかしそれが何なのか――――アウロスは結局自覚出来ないまま、
 暫く闇の中で静かに佇んでいた。


 

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