アウロスの疲労しきった身体が、一瞬硬直状態に陥る。それは混乱を意味していた。
(まさか……)
  混乱には二つの理由が在る。一つは、決して常軌を逸した動体視力を有している訳では
 ないアウロスの目に、何故これ程はっきりと落下する人間の姿を捉える事がで出来たのか
 と言う疑問。
 そしてもう一つは、その女性の顔。それは確実に見覚えのある顔だった。
  しかも――――
(……笑ってやがった)
  一つ目の謎は、女性が着地する直前に解けた。彼女の周りには凄まじい勢いで
 旋風が発生しており、それが重力をある程度相殺していると推測出来る。
 当然魔術によるものだが、こんな事は普通出来ないし、やらない。
 緑魔術で強力な風を発生させ空を飛ぶと言う実験は魔術史の中で腐る程
 行われているが、成功例は皆無に等しい。これまで多くの人間が負傷、若しくは
 命を落として来た。しかし、アウロスの眼前にはそんな犠牲者を嘲笑うかのように、
 優雅に、そして上品に地面へと降臨する女性の姿がある。勿論空を飛んでいる
 訳ではないのだが、それに近いインパクトはあった。
  それを見届けたアウロスは視界を切り、一階へ下りる階段めがけて全力で疾走した。
 等間隔で設置された高級松明の光が徐々に輪郭を帯びる中、息を切らして
 一階の中庭向かう。
  そして、辿り着いたアウロスを待っていたのは――――やはり、見覚えのある女性だった。
「……何故、ここにいる」
  腰まで伸びた黒い髪、猫のように少し寂しげな目、病的に美しく整った顔立ち、
 すらりとしたしなやかな体型、そして頭を覆う三角の帽子。
 初めて会ったあの日と何ら変わらない、魔女と呼ぶに相応しい姿だった。
「あら。奇遇ね」
  そして、初めて会ったあの日と何ら変わらない、人を見下したような、或いは
 目の中に入っていないとでも言わんばかりの口調でアウロスを迎えた。その傍には
 うつ伏せで倒れているラインハルトの姿がある。ピクリとも動かないその身体に、
 アウロスは生命の有無を判断しかねた。
「殺したのか?」
「……」
  ルインは口頭では答えず、妖艶な薄ら笑いを浮かべたままラインハルトの身体を
 蹴った。その衝撃に、一瞬だが確かに指が動いた。命はあるらしい。
「……他にも聞きたい事は山程あるが、教えてはくれないんだろうな」
「試しに聞いてみたら? 血まみれのその顔を涙でクシャクシャにして跪けば、
 もしかしたら答えが零れてくるかも知れないでしょう?」
  表情は笑みを浮かべたまま、まるで他人事のようにそう述べる。アウロスは
 小馬鹿にされていると判断したが、怪我の痛みと疲労によって頭が働かないので
 放置を決め込んだ。しかしそれすらもルインには滑稽に映るのか、笑みは絶えない。
「この男の身柄は私が引き取るから、ギルドの方には貴方から宜しく言っておきなさい」
  右手の人差し指に髪の毛を絡め、弄ぶように動かしながらそう宣言したルインの姿が
 月明かりに照らされ、アウロスの目を侵食する。美しい花には棘があり、良薬程
 口に苦い。それが世の常ならば、この女性もまたその理の中に身を置いていると言える。
「その言葉に強制力は?」
「どうでしょうね。従わなければ、その消耗し切った身体が搾りカスのように
 萎びるかもしれない、と言っておきましょうか」
「あんた、サキュバスだったのか」
「……誰が淫魔ですって?」
  ルインの右手人差し指が怪しく光る。
「冗談くらい言わせてくれ。獲物を横取りされて苛立ってるんだ」
  アウロスは若干ルインの戦闘力に興味を惹かれたものの、身の安全を優先した。
 無論、言葉は本音ではない。
「哀れなものね……ま、良いでしょう。特別に許してあげる」
「そいつはどうも。ついでに理由も教えて欲しい所だが」
「フッ」
  鼻で笑う。
「そうね。貴方の働きで楽ができたのだから、御礼くらいはしておきましょうか」
  意外なその答えにアウロスは一瞬戸惑いを覚えたが、表面に出ないよう取り繕う。
 その様子を見抜いたルインは終始嘲笑いを浮かべたまま、髪から指を離した。
「死神を狩る者」
「……?」
「私は極一部の人間からこう呼ばれている。それがそのまま理由になるでしょう」
  そう告げると、話はこれで終わりと言わんばかりにアウロスから背を向け、
 再び指を光らせた。そして、まるで名のある指揮者のような指捌きで魔術を編綴する。
 綴られた八つの文字が消えると同時に、ルインの右手がぼおっと赤く光った。
 その手を天に向けてかざすと、光は花火のように遥か上空へ打ち上げられ、
 小さな爆発が発生する。
「何かの合図、か」
「用は済んだでしょう? 早く消えなさい」
  これ以上ここにいればどうなるか――――笑みの消えたルインの瞳がアウロスを
 恫喝する。それに反抗する程の体力も魔力も精神力も残っていないアウロスは、
 暫くルインと睨み合い、大きく息を吐いて――――中庭を後にした。
 去り際に何かの物音が聞こえたが、それを確める気力は残っていなかった。
「少年!」
  フラフラになって一階の廊下を彷徨うアウロスに少し野太い声がかけられる。
 乱雑な足音と共に向かって来たのは、顔を上げるまでもなくグレスだと理解できた。
「無事だったか……いや、無事ではないな」
「大した傷じゃない。で、オルナは保護したのか?」
「ああ、あの後骨を……加勢に行こうとオーナー室に引き返したら、
 ちょうどオルナ様がそこに」
  予想とはかけ離れたものを拾ったらしい。
「それで、どうなった? まさかお前が奴を?」
「生憎逃げられた」
  事実と然程変わりない嘘を吐く。グレスにそれを看破する材料などある筈もなく、
 納得と驚愕の入り混じった微妙な表情で感嘆の声を漏らした。 
「そうか。それにしても良く生きていたな。魔崩剣の使い手を相手に」
「世の中に俺より強い奴が何人いようと、俺は生き延びなきゃならない……」
  それは使命でも約束でもない。まして意地や願望などでもない。
  ただの意思だった。
「……少年? おい、少年!」
  そして、その表示を最後に――――アウロスは思考と意識を閉ざした。


 

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