その日の夜。
「お帰り」
  料理店【ボン・キュ・ボン】は相変わらず夕食時でも客足が鈍く、今日に至っては
 一人しかいない。その一人で、今や文句なしの常連であるラディアンス=ルマーニュが
 怒気を含んだ顔でフレッシュハーブのサラダを頬張っていた。
「左遷されたって本当? 本当だと仮定して罵らせて貰うけど。この役立たずの
 甲斐性なし! 恥知らず! あんたの所為で夕食のグレード大幅ダウンよ
 コンチクショー! でも美味しいから良いけど!」
「情報屋の癖にそんなガセネタ掴まされるな」
  アウロスは至極冷静にメモ帳を取り出し、『慰謝料』の欄に数字を書き足した。
「あれ、違うの? お給料はキープ!? それならシェフ、
 コスタ産鴨フィレ肉のロティー追加!」
  はいー、と言う間延びした返事が厨房から聞こえて来る。それを満足そうに聞きながら
 残りのハーブを口に入れるラディをアウロスは訝しげな目で眺めていた。
「お前、週一でここに来てるよな。まだ大丈夫なのか……?」
「何が? お金? それとも、こんな美味しい料理食べて他の店で満足出来るのかって
 意味? まあ大丈夫じゃないと言えなくもないけど、週一なら何とか。
 これどっちだったとしてもオッケーなナイス回答だから、誉めて。さあ誉めて」
「……」
  アウロスはその的外れな答えを一切誉めず、ゆっくりと瞑目した。眉間を摘み、軽く揉む。
  ラディがあの臨死体験を経験していないのは明白だ。つまり、三分の一の確率を未だに
 引き当てていないと言う事になる。月四回訪れているので、三ヶ月で十二回。その全部で
 三分の一に当たらない確率は一%未満だ。
「……人間の生まれ持つ幸運の量は決まっていると言う説がある」
「いきなり何」
「お前は……いや、何も言うまい。強く生きろ。他人の不幸は蜜の味と言うし、沢山の虫に
 蜜を与える花とか樹木のような生き方も悪くはない筈だ。俺は嫌だけど」
「だから何の話? その同情に満ちた目も意味わかんないし」
  アウロスは答えず、透明色の吐息をふーっと漏らした。
「で、何か新情報は?」
「……ま、良いけど。今の所大した情報はないねー。後衛術科の助教授が離婚しそう
 だとか、その奥さんが前衛術科の研究員とデキてて修羅場寸前だとか、前衛術科の
 研究員が夜の歓楽街に度々出没してるとか」
「下世話な話ばっかだな」
「ぺーぺーに調べられる事なんてこの程度と思われそうで癪なんだけど、これが現状。
 大学の教授って権力も財力もあるから情報のプロテクトが徹底してるのよね。
 あんたの上司なんて顔と同じでガッチガチよ」
  情報の流通を管理している諜報ギルドと教育機関の最高峰である大学は、表向きには
 繋がりはないとされている。しかしそれはあくまで機関同士の話であって、個人レベルだと
 話は別。ある程度の権力を持っている教授クラスなら、個人情報の保護や優秀な
 情報屋の優先的な斡旋など、当然のように諜報ギルドを有効利用している。
 教授、助教授にとって情報の収集や操作は重要事項だし、諜報ギルドにとっても羽振りの
 良い彼らは上質の客に他ならない。この両者間に蜜月の関係が築かれるのは
 必然と言える。
「じゃ、引き続き調査を頼む。俺は明日の準備で急がしいからもう行く」
「あいよー」
  左遷疑惑の原因である派遣の事は一切言わず、自室へ向かった。


「……いる?」
  旅支度を整えるアウロスに弱いトーンの声がかかる。その主を見る事なくアウロスは
 作業を続行した。
「無視する事ないでしょ? 支度手伝いに来たんだから」
「手伝って貰う程の事でもない。そもそも馴れ馴れしくするなと言ったのはそっちだ」
「これくらいの会話が馴れ合いになる訳ないじゃない。気にし過ぎ」
  そう言いながらアウロスに近付いたクレールは、包装された箱をずいっと差し出した。
「どうせ手土産とかも用意してないんでしょ? 持って行きなさい」
「手土産?」
  派遣経験のないアウロスには手土産と言う発想が全く頭になかった。
 無論仕事で行くのだから身体一つでも問題はないが、印象を良くするに越した事はない。
「どうしたの?」
「……いや。どうも」
  そう判断し、感謝の意を告げ受け取る。
「ま、そんな長い期間じゃないんだし、良い経験だと思う事ね。何の仕事か知らないけど、
 派遣員を死にそうな目には合わせないでしょ」
「恐らく警護だろう」
  アウロスのその言葉にクレールが止まる。
「恐らくって……聞いてないの?」
「ああ」
  実戦経験に長けた者と言う指摘は聞いたものの、任務に対する具体的な言及は
 なかった。主目的を探索と実験に置いている事もあり、任務内容に対する関心は
 皆無に等しい。いずれにしても行けばわかる事だ。
「呆れた。それじゃ準備はどうするの?」
「必要な物は現地調達で十分だ」
「ま、貴方がそれで良いんなら構いはしないけど」
  何となく面白くなさ気な顔でそう言いつつ、クレールは部屋を出た。
「あー、あのね」
  一秒で首だけ帰って来る。
「私へのお土産は食べ物以外で宜しく」
「……それが目的か」
  アウロスが呆れたように呟くと、クレールはニカッと笑って首を引っ込めた。
 彼女の笑顔は中々に絵になる。しかし大学でそれを見せる事は余りない。
 職場での彼女は常に危機感のような切羽詰った何かを背負っている――――
 そうアウロスは感じていた。特にここ数日は時折憔悴し切っているかのような覇気のない
 表情も垣間見える。しかしその理由を聞く事は本人から拒否されている為に出来ない。
 力になりたいと言う明確な意思がないにしろ、元気のない同僚をただ眺めるだけと
 言うのは余り気分の良い事ではなかった。
「アウロスちゃーん!」
  そんな思考を吹き飛ばす一言が鼓膜を叩く。
「……ちゃん?」
「アウロスちゃんにお客さんですよー」
  クレールと入れ違いで入って来たピッツは、アウロスの敬称を唐突に変化させていた。
「や」
  その後ろから唐突に来訪したのは、今日の昼間も顔を合わせているウォルトだった。
「今日の内に渡しておこうと思って」
  そう言いながら白銀比の長方形の書物を手渡してくる。
 表紙には【知られざる可搬型記憶媒体】と記されてあった。
「……もう調べ終わったのか? 凄いな」
「と言っても、この一冊しかないから。取り敢えずこれを見れば君なら理解出来ると思うよ。
 僕が説明するよりそっちの方が良いと思う」
「了解。わざわざありがとな」
「お礼は要らないって。それじゃ、出来るだけ早く読んでおいて」
「ああ。暫く旅に出るから、その間に全て理解しておく」
「……旅?」
  アウロスは夕方の出来事を掻い摘んで説明した。
「それはまた災難か僥倖か微妙なとこだね」
「効率を考えればプラスだと思う……ようにしてる」
「それが良いかもね。それじゃ僕は僕で色々調査してみるよ。心当たりがある訳じゃない
 けど、もしかしたら糸口くらいは見つかるかもしれない」
「頼む」
  爽やかに去って行くウォルトの背中に論文を持った右手を振って、感謝の意を送る。
 それをピッツが微笑ましく横目で眺めていた。
「アウロスちゃん、明日旅に出るんですってねー」
  やはり接尾はこれで固定らしい。若干の戸惑いはあったアウロスだが敢えて
 口にはせず、くすぐったさを噛み殺すように口を歪めた。
「一週間程仕事で【パロップ】の方に」
「お土産は何でも結構ですよー。食べ物以外でも構いませんからー」
「……今初めてあんたらが姉妹だと心の底から納得した」
「?」
  旅前日の夜は無駄な精神的疲労を抱えつつ終わった。


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