かつて――――大学には明確な学舎がなかった。
 魔術の基礎を学び、魔術士の資格を得た者の中でも特に優秀な生徒を教会が呼び寄せ、教会堂の空き部屋などを利用し、更なる高等教育を施したのがそもそもの始まりで、極少数の集い故に学舎は必要なかったのだ。
 しかし、探究心に飢えた若者が増えるにつれ、より広く、より高度な教育環境が求められ、ついには教会主導の下に専門職の強い教育機関が誕生した。
 優秀な人材を求める教会は、大学の運営に力を入れ始め、その結果生徒数は年々増加し、それに比例して教師の数が不足して行った。
 その解決策として、研究を進める一方で教師を育てると言う役目を大学に担わせた。
 これにより、現在の大学のシステムが構築された。
 しかし、問題もあった。
 教師の給料をはじめとする大学の運営費は、全て教会が受け持っていたので、講義の内容や教師の思想は教会のそれに傾倒し、教会も生徒の教育に過剰介入すると言う流れが生まれたのだ。
 その結果、講義内容や研究への介入に不満を抱く生徒や教師が続出し、反旗を翻すと言う事態に陥った。
 一部の大学では、莫大な富を持つ領主などに後援者を集い、教会からの独立を目指す動きが見られるようになった。
 強大な権力を有する教会であったが、最先端の技術を多数抱える存在にまで成長を遂げた大学を強引にねじ伏せるのは困難極まりなく、しかしながら国家の屋台骨を担う優秀な人材の宝庫を手放す訳にも行かず、検討に検討を重ねた結果、妥協案を提示。
 大学側としても、これまでの運営費を全てまかなって貰っていた手前、これを拒否する事は出来ず、事態は収束へと向かっていった。
 以降――――
 一応の主従関係は成立したものの、大学と教会の間には常にある種の緊張状態が続いており、支配と独立の狭間で揺れ動いている。
「我々教会にとって、大学は人材の採掘場。採掘権は設立当初から運営をして来た我々にある。当たり前の事だ」
【ウェンブリー魔術学院大学】一階、旧実験室。
 現在使用されていないその場所に、さながら蝙蝠の群れのような薄気味悪さで、薄黒い声が響いている。
 時は深夜。丁度この日のような、窓の隙間から漏れる月明かりもない空であれば、虫の鳴き声だけが暗闇と戯れる時間帯。
 そこに、二人の男が互いの姿を光もなく睨み合っていた。
「しかし……教会が支配してしまっては、健常な研究は出来ません。健全な研究は、健全な環境でなくては」
 その内の一人、ウォルト=ベンゲルの声が苦痛に歪む。
 その表情は、誰の目にも見えてはいないものの、誰の目にも明らかな程に、容易に声から想像出来た。
「……どうも君は、度々自分の立場を忘れてしまう。だからこそ間者として適切なのかもしれんが、な」
「くっ……」
 もう一人の、やたら目つきの悪い男――――ウェバー=クラスラードの皮肉に対し、ウォルトは甲斐甲斐しくも呻いてしまった。
 その反応が期待通りのものであった事に充足感を抱いたのか、ウェバーの口が饒舌になる。
「君が一介の研究者としてここに残りたい気持ち。わからんでもないよ。しかし、君は逆らえる立場にない。その気持ちは殺すしかないんだよ」
「わかって……います」
「わかっていないのだよ!」
 演劇口調で全否定を叫ぶ。
 ウォルトにとって、その大声一つが大きな負担になる事を知っての、計算された行為だった。
 何しろ、この場面を大学関係者の誰かが目撃すれば、その立場は微塵も残さず崩れてしまうのだ。
「だから、ワタシがこうやってわざわざ出向かねばならん。君が一度首を縦に振るだけで、その労力はなくなると言うのにだ」
「それは……」
「口答え、言い訳は一切言わない方が良いな。その気になれば、ワタシはこの場で直ぐにでも、君を消せるのだよ? 無論、物理的な意味で」
 実力行使に出る気はないがね、と付け加え、せせら笑う。
 ウォルトはそれを、俯きつつ聞くしかなかった。
「尤も――――君は自分が消される事よりも、両親に危害が及ぶ事を気に病むタイプだがな」
「……両親には手を出さない約束の筈です」
 声が震える。
 それは恐怖や緊張によるものではないが、相手に与える印象は似たようなものだった。
「それは君次第だと通告している筈だよ?」
 ウォルトの反論を軽くいなし、ウェバーは指を躍らせた。
 光沢のない指輪は沈黙のままに舞い、暗澹とした空気が喝采を送る。
 それもまた、心理的圧力の一環だった。
「君が今後もこちらの要求する通りに動いてくれれば、何ら問題はないのだ。君は研究に打ち込める環境を持続出来、我々はリスクなく大学内部の動向を掴める。皆が幸せになれる筈なんだがねえ」
 眉をひそめ、大袈裟に首を振る。
 それは例え闇の中でも、ウォルトにとって不快に感じる所作だった。
「それに、この大学には既に我々と懇意にしている者もいる。これはもう流れなのだよ。時代の流れ。わかるかい? それを踏まえて、君の意見を聞こうか」
「……」
 ウォルトの沈黙は、常闇の如く続く――――


 その部屋と壁一枚を隔てた外側。
(以上、これまでのあらすじでした、って感じ?)
(この手の小悪党は、大体の事情を会話の中で勝手に喋ってくれる。お約束だ)
 アウロスとラディが盗み聞きしつつ、筆談でコミュニケーションを取っていた。
 夜の大学への侵入は、そう難しくない。
 少なくとも、普段から大学に滞在している人間にとっては、造作もない事だ。
 そうでない人間ですら、悠々と進入して脅迫などに興じているのだから。
(で、どうすんの? 目論見通り、悪の取引現場を押さえられた事だし、この場に踏み込んで双方を脅す?)
『そうでない人物』がアウロスの隣にも現れた。
 嘆息しつつ、安物の羊皮紙に羽ペンを走らせる。
(脅すか。と言うかお前、俺が極悪非道な人間って設定で話すの止めろ)
(でもねー、基本的にあんたって目的の為なら手段を選ばないタイプっぽいし)
 ラディの半眼がアウロスを射抜く。
(間違っちゃいないけどな。現状では)
 これは文字にせず心中でのぼやき。
 実際、そう言う生き方を選んでいる事に後悔はない。無論、それとこれとは全く別の話ではあるが。
(取り敢えず、ウォルトが両親を盾に間者の役割を強要されている事はわかった。俺の研究に協力しないのもその所為なんだろう)
(どーゆー繋がり? 単にあんたが嫌いなんじゃないの?)
 アウロスの筆が止まる。
(そ、そんな事はない。他の科の研究チームに入る事で、素性を探られたり時間を取られたりするリスクが発生するのを忌避してるだけだろう)
(どーだか。話に聞く分だと、あんたの研究ってあんまり評判良くないんでしょ? そんなのに関わってられるかこのヘドロ! お前口も性格も最悪なんじゃボケ! ってのが本音だと思うなー)
(それはお前の本音だな。給料日を楽しみに待っていろ)
(彼はきっと助けを求めてるのよ。願わくば、あなたのような正義の味方に……ね)
 無駄に間を表現する所も含めてウンザリなその駄文を、アウロスは完全放置した。
(にしても、返事遅くない?)
 ラディが羊皮紙をヒラヒラさせながら、壁の方を指す。
 実際、ウォルトが沈黙してから5分以上経過している。深夜と言う環境が体感時間を緩やかにしている事と関係なく、明らかに長い。
(ここまで引っ張ってノーだったら、相手の男ブチ切れそうじゃない? そうなったらどっちの方向に逃げる?)
(逃走を前提に語るな。その時は――――)
「はあっ!?」
 アウロスの羽ペンを遮るように、これまでとは質の違う絶叫が窓を揺らす。
 外の二人は筆記用具を置き、覗き見を再開した。
 その視界には――――大袈裟な身振り手振りで驚愕を表現し、直ぐに冷静さを取り戻している男の姿がぼんやりと見えた。
「おっと失礼。ついつい大声を出してしまったよ。どうもワタシは耳が悪くていかんな。申し訳ないが、もう一度ちゃんと答えてくれ」
「……受け入れられません。これ以上、自分を評価してくれている教授を裏切れません」
「はっはーーーーーーっ!!」
 今度は狂気。計算なのか地なのか微妙になってきた。
「これは驚いた! 嗚呼驚いた! その判断! その科白! 凄いね君! 今君は教会を敵に回したのだよ!?」
「覚悟の上です」
「御両親に悪いと思わないのかね!? 君を生んだ、君を育てた御両親を破棄すると言うのかね!? 人道に背くのかね!?」
 怒涛の勢いでまくし立てるウェバーの迫力以上に力を込め、ウォルトは顔をしかめていた。
 その唇から一滴、赤い液が床に落ちる。
「……わかって、くれる」
「くっはーーーーーーっ!!」
 ウェバー三度目の絶叫は、額に手を当て『こりゃ参った』と言うポーズを取りつつ発せられた。
「君は自身以外の心が読めるのか! これは驚いた! 嗚呼驚いた! 君のその物差しには全人類共通と書かれているのか! 何たる事! それは世界最高のアイテムじゃないか! きっとどんな大富豪も持っていないよ!」
 見てる者の魂を暴圧しそうな熱弁の後、ウェバーは果てを越えたかのように静かになった。
 次に発する声は、とても重要な言葉を含んでいると言わんばかりに。
「人が人である最低限の定義は、親を敬い子を慈しむ事。それすら出来ないと言うのなら、君は人ではない。いや、生物ですらない」
 指が光る。魔術士なら誰でもわかる、明確な攻撃の意思。
 両者の間にある5メートル程の空間に、硝煙のような殺気が漂う。
 それに当てられたウォルトは、思わず半歩下がり、反射的に生唾を飲み込んだ。
「……殺すのか」
「言葉は正確に使うべきだな。殺すのではない、壊すのだよ。幾らでも代わりのある駒を一つ、ね。兄にも許可を得ている」
 明確な殺意を露わにした事で、場の空気が一気に冷え込む。
 こっそりと覗いていたラディもその気配を感じ取り、惨劇の予兆に怯えた。
(ちょっ、これ本当にヤバいんじゃない!? どうすんの!? 一か八か飛び込んで――――ええっ!?)
 この期に及んで筆談を続けていたラディは目を丸くし、その光景を眺めていた。
 飛び散る破片。
 折れる窓枠。
 人工的な風圧によって破壊された痕跡を踏みつけ、脆弱な少年は室内へと入った。
「なっ……」
 突然の来訪者に吃驚する二人と一人。
 その中で最もお約束をわきまえた男が、具合の良いイントネーションで誰何する。
「何者だ!?」
「正義の味方……と言いたい所だが、ちょっと違う」
 炎を灯した指でウォルト=ベンゲルを指し――――アウロスは悠然と宣言した。
「そいつの味方だ」

 

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