大学の実験室――――それは一般人が最も胡散臭い場所と忌避する場所の一つに数えられる。
 曰く、日常生活で見かける事のない用途不明の機材。
 曰く、何を溶かし込んだのか見当も付かない溶液。
 曰く、一年中陽の光を浴びず湿気ばかりを吸い込んで所々が腐敗した机。
 曰く、亡霊が好き好んで居つきそうな、据えた臭いを存分に含んだ空気。
 こう言った負のイメージの集合体がその要因である事は火を見るよりも明らかで、そんな旧世代的な実験室が未だに散見されるのだから、あながち間違いとは言い切れない。
 しかし。【ウェンブリー魔術学院大学】の誇る実験棟はそういったイメージとは程遠い、機能美と開放感を併せ持った近代的な空間として知られている。エントランスを直進した先にあるこの実験棟は全三階から成っており、一階に前衛術科と後衛術科の共同実験室が、二階に結解術科と魔具科の実験室が一つずつ、そして三階には事務室や応接間、学長室などがある。実験室はいずれも十分なスペースが与えられており、最先端の機材が設備されている。特に前後衛の共同実験室はその用途故に大講義室以上の広さを誇り、見学に来る一般人や受験生、他の大学の関係者などをその都度驚かせている。尚、魔具科の実験室は一階西棟にもあるが、こちらは昔作られた部屋なので施設が充実しおらず、現在は利用されていない。
 しかしその素晴らしい実験棟は毎日誰にでも扉が開かれているという訳ではなく、研究室単位で時間分配されている。前、後衛術科にはそれぞれ二つの研究室があり、ミスト研究室の使用可能な時間帯は正午〜十三時の一時間。つまりほぼ昼休みの期間と重なる。
『以前はここに後衛術科のクラフト研究所が配置されていたのだが、私が配置換えを申し出たんだ』
 ミスト助教授の言葉を思い出し、アウロスは口を閉じたまま嘆息した。自分と同等かそれ以下の地位にいる人間であっても、利用するべき点があるならば貸しを作っておいて損はない。その考えは間違いではないが、その皺寄せが来る部下達にとっては余り歓迎できる事ではない。約一名はともかく、他のメンバーには少なからず不満を抱いている――――そう思っていたアウロスだったが、実際には違っていた。
(求心力が大きいのか、単にこだわらない連中だけが残ったのかは知らないが……)
 実験棟の一階廊下にもたれかかって欠伸をしながら、窓越しに他の前衛術科の実験風景を眺める。現在は勤務時間だが別にサボっている訳ではない。課せられた講義や実習などもない特別研究員と言う立場なので、基本的には論文の作成のみが日課となっていて、研究室に篭らなくてはならないという決まりもないので、アウロスはしばしば大学内をうろついていた。その行為には新しい職場の各施設を把握すると言う目的の他にも、気分転換の意味がある。しばしば思考に耽り思考に囚われてしまう事のある研究者にとって、環境をこまめに変化させる事は重要な作業だったりする。
(とは言え、やれる事が少ないこの状況では余り意味はない、か)
 論文の為の研究は主題の決定に始まり、仮説の立案、概念の定義、作業の定義、データ収集、データ解析という流れで行われる。論文が完成したらそれを魔術学会で発表し、優秀な論文と評価されれば、学位や研究経費などを獲得する事ができる。それが研究室のステータスとなり、その長である教授、助教授の株を上げ、その積み重ねが出世へのアシストになる。優秀な論文、優秀な研究者であれば展望だけでも期待感を煽る事ができるが、アウロスはそれには該当しない。結果が出るまでは居候に等しい立場だ。それ故にできるだけ早く実験を行いたいのだが、新米という立場もあって規定の時間内では中々やらせて貰えないのが現状だ。
「おぅ! そこの根暗そうなガキ!」
 作業スケジュールが全て確定してからでないとダメだ、というのがレヴィの言い分だが、その作業スケジュール自体が実験の結果に依存するので確定しようがない。それを何度も説明しても聞き入れない時点で半分は嫌がらせ、半分は自分の実験時間をキープする為の強硬手段だとは気付いていたが、面倒ないざこざは避けなければならないアウロスは指摘できずに苛々を募らせる毎日を送っている。
「テメェ何無視してんだ! テメェだよテメェ! 他に人いねえじゃねえかコラ!」
「……?」
 自分に向けられた声に気付いたアウロスは思考を切り離し視界をクリアにした。そこには実験室内から憤怒の表情でアウロスの元に歩み寄って来る小太りの男が見える。頬がやたら赤く、魔術士の模範的外観に習って髪が長い。前髪は上げている。
「何さっきから見てんだコラ。イワすぞ。あぁイワすぞコラ!」
 男は何故かキレていた。
「イワされたいのかイワされたいのか、どっちなんだ! どっちなんだコラ!」
「イワすって何」
「なにコラ! タココラ! 見るなって言ってんだコラ!」
「……悪いけど誰か来てくれ。意思の疎通ができない」
 アウロスは他の研究員に助けを求めた。
「ちょっとスモワーさん〜、勘弁してくださいよ〜」
 ヒョロッとしたメガネの男が駆けつけてくる。如何にも助手という感じの顔だ。 
「うるせぇコラ! 見られて何ボーっとしてんだタコ! はっきり言ってやれコラ!」
「え〜俺? 俺やだよ〜」
 小太りの男に促されたヒョロメガネは明らかにウザそうな面持ちでアウロスの前に立った。
「君見学? 学生が見学するには許可取らないとダメなんだよね〜。事務の人とか適当に捕まえて許可取って来てよ」
「生憎研究員だ」
 普段ローブを着る事のないアウロスは学生や一般人に間違えられる事が多い。新米で外面も年相応なので致し方ない所だ。
「嘘だよ〜。どこの学科?」
「前衛術科ミスト研究室所属のアウロス=エルガーデン。数日前に赴任したばっかだ」
「あ〜。聞いたよ聞いた。へぇ〜あんたが噂のコネコネ君か。あんたズリ〜よ〜」
 初対面の人間に対してこういう露骨な嫌味を言う人間など普通はそうそういない。しかし大学には選民意識が高く、人を人とも思わない言動を平気で投げ付ける輩は結構存在する。そういう閉鎖社会の弊害を幾度となく垣間見て来たアウロスは特に腹も立たなかった。
「で、何で彼はこんなキレてるんだ?」
「あ〜、この人ね、頭煮詰ってるとキレるんだよね〜。さっき出た実験結果がイマイチだったからな〜」
「ハタ迷惑な……ん?」
「まあね〜。あんま関わらない方がいいかもよ」
 全く心のこもっていない忠告を無視し、アウロスは小太り男の顔をじっと睨んだ。
「なんだコラテメェ! なにがやりたいんだコラ! じっと顔見てコラ! なにがやりたいのかはっきり言ってやれコ――――」
 バチコーン!
 物凄くしなった平手が唸りを上げて小太り男の頬を痛打した。
「あいたぁ」
 小太り男は腰が砕け、力なく崩れ落ちる。しかしすぐに立ち上がって喚き出した。
「テ、テメェ今やったなコラ! 出した手引っ込めるなよテメェタココラ。よ〜しわかった。テメェ今出した手、テメェ引っ込めるなよコラタコ! 中途半端なぶったぶたないじゃないぞテメェ。わかったなタココラ! わかったなコラタコ! 本当だぞ。なぁ。噛みつくんなら、しっかり噛みついてこいよコラ。なぁタコ!」
 終始涙目で及び腰だった。
「ちょっ、そりゃないよ〜。傷害は勘弁してよ〜」
「蚊が止まってたんで」
 アウロスはぶっきらぼうに言い放ち、掌を見せる。そこには潰れてたての蚊が一匹、血を出して死んでいた。
「この季節の蚊は伝染病を運んでくる可能性がある。気を付けた方がいい」
「ちっとも優しく感じないよ〜」
「……何をしている」
 メガネがドン引きしている最中、氷の杭のような声が三人を打ち付ける。アウロスは一瞬同じ研究室の嫌味ばかり言う男を想起したが、彼の声ではなかった。
「スモワー、ヤンヤ。実験が終わったのならさっさと後片付けをしろ」
「は、はい! スモワーさん、早く立って早く!」
「いたいの」
「い〜から! あんたも早く帰れよ!」
 妙に慌しいメガネの口調が意味するものは――――
(圧制……か?)
 アウロスはその要因である声の主に視線を移した。魔術士は髪が長いと言う通説を具現化したかのような、膝まで伸びた黒髪とやたら凶悪な目つきが特徴的な男だ。気難しげな雰囲気を惜しげもなく発している辺りがレヴィを彷彿とさせる。
「そこのお前」
 そのイントネーションもよく似ていた。
「見ない顔だが……ちゃんと申請して許可を得て見学しているのか?」
「ガルシドさん、こいつ最近ここにきたばっかの研究員だそうですぜ〜」
 太鼓持ちの口調でメガネが献言すると、ガルシドと呼ばれた超長髪の男は何やら薄く呟き、目で誰何して来た。
「ミスト研究室のアウロス=エルガーデンだ」
「ほう、レヴィの部下か……」
 アウロスはその呟きに対し、密かに眉をひそめた。レヴィを知っている事自体は別段おかしくはない。当然と言える。が、研究室のシンボルであるミストではなくレヴィの名前を敢えて出した事に意味を見出すとすれば、そこには同じ大学、同じ学科の研究員以外の何かがあると言う事になる。似たようなタイプ同士の人間関係は二つに一つ。共鳴か、対立か。いずれにしても強く意識してしまうのが人間の性だ。
「それはさぞかし苦労しているだろうな」
 どうやら後者のようだった。
「こうやって同じ大学の同じ前衛術科として対峙したのも何かの縁だ。困った事があれば何でも相談に乗るぞ。何、気にするな。別にレヴィにいびられた事への愚痴を零すくらい構いはしない。ヤツへの怨みつらみなど心の内に沈殿させておくものではない。表現すべきだ。多少誇張が入ろうと誰も君を責めまいよ。そこに弱みや失敗談など入れば余計にな。遠慮する事はない。君の為にいつでも扉は開かれているのだから……な。ではまた会おう、アルロス=エンガーデンヌ」
 言いたい事を言うだけ言って、ガルシドは去った。
「……要はレヴィの悪口や弱点を募集中、って事か」
「ウチのジュニア、そっちのレヴィ講師をバリバリ意識してるからさ〜。相手されてないけどね〜」
 いずれにせよ、ロクに名前も覚えられていない相手に何かをしてやる気になる筈もない。それよりもアウロスはメガネの補足説明に対し興味を抱いた。
「ジュニア?」
「あの人、ウチのライコネン教授の息子なんだよね〜。だからあんたも逆らわない方が身の為だよ〜」
 一連のやり取りで最も有益な情報がそこには転がっていた。最も、今は何の活用法もないが。
「忠告どうも。さて、怖い人に睨まれた事だしお暇するか。騒がせて悪かったな」
「ホントだよ〜。もう係わり合いになりたくないよ〜」
「テメェ中途半端なぶったぶたないじゃないぞ。わかったなコラタコ……いったぁい」
 すっかり存在感の薄れた小太り男は何とか最後までキレていたが、アウロスが背を向けた刹那に異様に腫れ出した頬を押さえてうずくまった。

 その日の夕方。
「ではカンファレンスを始める」
 ウェンブリー魔術研究大学では早朝カンファレンスの他に、毎週七の倍数日に総合カンファレンスが行われる。これは今週の研究成果の発表、来週のスケジュールの確認などを目的とし、個人の研究成果はもとより研究室全体としての進行具合やチームワークを調整する為の会議だ。通常はその研究室の長である教授、助教授も参加するのが恒例なのだが、ミストは殆ど顔を見せない。自分の影響力の大きさを理解している彼は、敢えて自主性を重んじる環境を作っている。緊張感はレヴィが作り出すので問題ない。その方面に対するレヴィへの信頼は非常に厚く、レヴィもまたその信頼を粋に感じ悦に浸っているのであった。
「フッ……まず現在の研究状況について各々発表して貰おう。それでは、僕から」
 レヴィの抱えている論文は【緑魔術の乗数効果に関する研究】というタイトルで、既に完成間近の段階まで来ている。魔術には属性と呼ばれる特定の性質を付加させる事ができ、その系統は火を象徴とする【赤】、水の【青】、土の【黄】、風の【緑】という四つに分類される。属性を持った魔術は特性を得るだけではなく純粋なエネルギー量も増加するので、既存の攻撃魔術にはほぼ例外なく属性が付加されている。緑の攻撃魔術は疾風、竜巻、気流といった現象による殺傷力で攻撃する形態が一般的だが、術者が編綴した魔術によって周辺の風圧を増加させると、その制御の為に消費する魔力が増加し、魔力を増加させる事によってさらに風圧を増加する――――という効果が発生する。それが緑魔術の乗数効果である。レヴィのこの研究は乗数効果の数式化から応用法までのあらゆる面を網羅しており、比較的層の薄いとされる緑の前衛術を強化する論文として期待を寄せられている。
「――――以上だ。何か質問は?」
 そんな研究の佳境段階の成果に対し、質問は全くない。一つもない。皆無だ。
「……では、次はクレール」
 若干の寂寞感が議長の声に混じっていた。
「はい」
 クレールの論文は【属性による魔波吸収率変化の分析】。
 魔術を編綴する為に必要な魔具には【魔石】と呼ばれる人間が体内に持つ魔力を引き付ける石が備えられてあり、その魔石が魔力を引き付ける際に発生する力の場を【魔界】という。そして、空間中を伝播する横波の魔界を【魔波】いう。魔波には特定の周波数があり、周波数が低いほど伝搬損失は小さく遠くに届く。よって、周波数は魔術の効果範囲に多大な影響を与える。周波数が一定以上に高い場合、進行方向にある障害物に吸収されて化学反応や発熱などの相互作用を生じる事がある。この吸収率の属性による変動を分析し、魔術の開発に利用しようというのがクレールの研究だ。
「質問良いか?」
 その研究に対しアウロスが食い付く。クレールは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにそれを打ち消した。
「ええ。何?」
「実験サンプルの数量が標準よりかなり多いみたいだけど」
「多い分には問題ないでしょう?」
「そりゃそうだが……ま、いいか」
 淡白に引く。例の忠告以来、アウロスはクレールに対し微妙に接し難くなっていた。距離感と言うものはハッキリと線を引かれると意外にこんがらがる場合が多い。
「それじゃ、次は僕が」
 そんな微妙な空気など知る由もないリジルの論文は【生命体に与える魔界の影響についての研究】。
 魔界は空間内の力の分布を差し、空間全体における力の向きを表す概念だが、強力な魔界の中では様々な物質が影響を受けるとされている。その影響について特に生命体に関して調査しているのがこの研究だ。相手との距離が近ければ必然的に魔界の影響は受けるし与える。その影響を調べる事で、前衛魔術をより実戦的にカスタマイズする事が目的だ。
「次、ルイン」
 名前を呼ばれたルインは極めて機械的に、棒読み口調で事前に用意したらしき文面を読み出した。
 彼女の論文は【魔術の即効性に関する研究】。そのタイトル通り、魔術の即効性を様々な面からアプローチして解析し、研究しているとの事だ。前衛魔術に最も必要とされる速度について積極的に取り組んでいるのだが、特別研究員と言う立場にも拘らずその論文の進行速度は然程でもない。
「後は俺か」
 そして最後にアウロスが発表する。テーマは勿論【魔術編綴時におけるルーリング作業の短縮・自動化】。だが発表と言っても、ここ数日はずっとノートの整理ばかりを行っており、成果と呼べるものはまるでない。それでも実験の為の実験――――要は以前の大学とこの大学の実験施設の差異によって生じる誤差の調査――――を行えば、その部分だけでも解説は可能なのだが、先に概念を示せだの全体の説明をしろだの約一名の研究員からギャーギャー言われ、実験をさせて貰えていない。そんな理由から、適当な説明でお茶を濁す格好となった。
「質問だ」
 しかし、そんな誰も意見しようのない発表に対して当然のように噛み付く者が約一名。
「そんな説明では納得ができないな。成果がないならないで他にやる事はなかったのか?」
「……何度も言っている事だが何度でも言う。実験させて貰えなければそれは無理だ」
「実験は後回しでいいだろう! まず主題を決め、仮説を立て、概念を組み立て、スケジュールを練り、そして実験データを取るのが研究の基本的な流れだ!」
「いや、だからな――――」
「何を――――」
 不毛な議論は既に研究室の風物詩になりつつある。それを暫く眺めていたルインが無言で席を立った。
「それじゃお先」
 続いてクレール。
「お疲れ様でしたー」
 そしてリジルも、それぞれ明日の準備を行い帰宅の途に着く。
 一方、二人の議論は――――
「いいか、攻撃魔術で最も美しいのは【妖精の息吹】だ! これは決定事項なのだ!」
「そんな気持ち悪い名前の魔術のどこに壮美がある。大体あれ、肉眼では見えないだろ。風だし」
「黙れ小僧!」
「小僧って」
 口論となってあらゆる方向へ逸れまくり、外が暗くなるまで続いた。





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