料理店【ボン・キュ・ボン】の朝は早い。料理長にして唯一の料理人であるピッツ=レドワンスは毎日午前四時に起床し、専属の荷馬車で片道一時間をかけて中央市場へ赴き、獣肉や魚、野菜果物、ハーブなどを仕入れ、日の出を拝みながら帰宅する。それから店内や店の前を軽く掃除し、仕込みを始める。厨房にて汗だくになりながら獣肉の獣臭や魚の生臭さを取るその姿を眺めている人影が一つ。開店前にも拘らずテーブル席で微睡の視線を揺蕩わせているその人物は――――
「……何故お前がここにいる、ラディアンス=ルマーニュ」
 一階に下りてきたアウロスが訝しげな表情で問いただしたが、ラディの顔色はこれっぽっちも変わらない。単に眠気の所為で感情が鈍っているだけかもしれないが。
「やーねー他人行儀にフルネームで。ラディって呼んでっつったじゃん」
「……」
 ラディの言葉にアウロスは反応せず、こちらも眠そうな目で睨みつける。余り迫力はないが多少は効果があったようで、ラディが微妙に視線を反らす。
「そりゃこんな時間に料理店に来る理由なんて一つよ」
「表には準備中の看板があった筈だが」
「お生憎様。中で待つ許可はシェフから貰ってるし。打ち合わせに来てみたら朝食も頂けるなんてラッキーよね♪」
「……一応言っておくけど、俺の知り合いってのはおあいその免除や割引の効力にはならないからな」
「じゃアンタの奢りね。どこの国の読み物見ても女に貢がせる男なんて大成しないものよ」
「ちゃんと給料から差っ引くからな」
 アウロスの素っ気ない言葉にラディはこっそり舌打ちしたが、しっかりと当人には聞こえていた。
「で、打ち合わせってのは?」
「契約のお話」
 同じ席の向かいに腰掛けつつアウロスが尋ねると、ラディは底意地の悪そうな笑みを浮かべて荷物から何枚かの書類を取り出した。
「各種料金を設定してみたの。チェックして異論があるなら申し立てて。善処くらいはしてあげるから」
 どうせ何言ってもこれで決定だけどね――――明らかにそんな含みを持たせたラディの底意地の悪そうな微笑みに辟易しながら、アウロスは書類に目を通す。しかし不安とは裏腹に、羽ペンで丁寧に記された数字は全て常識の範囲内、相場に照らし合わせても何ら問題ない金額だった。加えて、アウロスの給料から生活費を引いた金額を存分に考慮した形跡がそこかしこに見られる。契約料は分割だし、経費も殆どが基本給与に組み込まれている。
「ま、最初の半年はそんなもんでいいでしょ? 私もプロではあるけど実績ないし、それ程大きな額を要求するのは身の程知らずってモンだしね」
 僅かに水滴の残るテーブルを指でタタン、と叩いて返事を促す。暫く沈黙のまま紙と睨めっこしていたアウロスはそれを合図に顔を上げ、軽く息を吐いた。
「……問題ない。これで頼む」
「オッケー。それじゃ早速仕事カマン。何を調べるの?」
 貧乏情報屋は挑発するように手招きしつつ鼻息を荒げた。やる気マンマンらしい。
「そうだな、まずは……【ウェンブリー魔術学院大学】についてのキナ臭い情報を片っ端から集めてくれ」
「うわっ、いきなり危ない橋渡らせるねー」
 あっという間に及び腰になった。
「自分の身を置く場所の事は良く知っておかないとな。今の所具体的な指定はないが、大学について信憑性の高い噂があれば拾っておいてくれ」
「了解」
「特に生物兵器とか密輸とか、その辺を念入りに」
 アウロスの紡ぎ出す物騒な単語の羅列に、ラディの頬を一筋の汗がツーッと流れ落ちた。
「……何か、初心者大歓迎ってフレコミのお仕事だと思ってたのに、死線を彷徨う未来の私がはっきりくっきり見えちゃうんだけど」
「しっかりな」
 頭を抱えながら自問自答を繰り返す情報屋に何の忠告もせず、アウロスは【ボン・キュ・ボン】を出た。
「やっと準備が終わりましたー。はい、メニューですよー」
「うわすっごいお品目! よーし、お給料も入って来る事だし今日は自分へのご褒美的なノリで奮発しちゃおっと!」
 せめて、祈りを捧げつつ。

 第二聖地【ウェンブリー魔術学院大学】ミスト=シュロスベル助教授室の朝は結構早い。ミストはほぼ毎日午前六時に起床し、ベッド代わりの長椅子からすっと立ち上がり、すぐに机に向かって昨日の深夜に寝ながら捻出したアイディアを紙に書き殴る。それと同時に、昨夜考案し書き溜めた幾つかの事項に目を通し、使えないと判断した物に二重線を引いて削除する。それから講義の準備、学生のレポートのチェックなど比較的優先度の低い仕事をこなす事で完全に目を覚まさせる。覚醒直後のニュートラルな脳で発想を、体温の上昇に伴い倦怠感が発生した状態になると流れ作業を行うと言うそのメカニズムは彼自身が自然と身に付けたものだ。
「……大学に寝泊りしてるんですか?」
 大学に着いたアウロスが朝一でミストの部屋を訪れた時、部屋の主は寝癖を放置したまま徒手体操などしていた。
「わざわざ帰宅する必要ないからな。食事も浴場も洗濯もここで事足りる」
 大学には職員・学生共同の食堂や職員専用の浴場があり、清掃業者に頼めば有料で洗濯を引き受けてくれる。大学から出なくても標準的な生活を送るのに支障はない。
「家族は?」
「ない。気楽な一人身だ」
 二十九歳だが外見年齢はその遥か上を行く助教授の目笑にアウロスは対応を迷ったが、取り敢えず小さく笑っておく。
「さて、今日もきびきび働いて貰うが……どうだ、私の研究室には馴染めそうか?」
「馴染むのは限りなく無理でしょうね。元々団体行動は苦手分野ですから」
 アウロスは同室の面々を思い出し、誰か一人とでも相容れる可能性を懸命に模索したが、その絵は全く浮かんでこなかった。
「それは研究員の多くがそうだろう。研究など自己中心的で自らの世界に閉じ篭る人間のやる事だ」
「偏見っぽい気もしますが、実際は概ねそんな感じでしょうね」
「それでも、一人で論文を作り上げる事が困難である以上は共存しなければならない。実験は一人ではできないからな。仲良くする事ができないのなら、せめて忌避されないよう努力するのが社会人の務めだ」
「相手から完全拒否の体制を取られてる場合は?」
「時間が解決してくれるのを待てばいい……と言いたい所だが、無駄に時間を浪費する余裕は許可しない。何とかしろ」
 ミストは寝癖を直しながらキッパリ言い放った。
「それができればここにはいなかったような気もしますが……ま、何とかします」
「よろしい。それじゃ研究室に行きたまえ」
「講習は?」
「今日は昼休みが終わってからすぐ、だそうだ。場所は同じだ」
 その言葉にお辞儀をし、アウロスは速やかに退出した。

 第二聖地【ウェンブリー魔術学院大学】ミスト研究室の朝はそれ程早くない。午前八時半に早朝カンファレンスと呼ばれる会合が開かれ、交代制で決められた議長を中心に、本日のスケジュールの確認、それに伴う人事的配置の調整などを主目的とした話し合いを行う。およそ三十分の意見交換が終了した時点で解散となり、それぞれの仕事に取り掛かる。
「では、今日も一日はりきって頑張りましょう!」
 議長を務めたリジルの能天気な号令を背に、アウロスは扉のすぐ右側にある自分に割り当てられた机に向かった。机は部屋を取り囲むように並べられており、椅子に座ると薄茶色の石壁が視界に入る。全員が背を向けて黙々と羽ペンを滑らせる音やら紙をめくる音やらを奏でるその様子に、アウロスは決していい思い出などない。しかしそこに懐かしさにも似た感覚が浮かんでくる自分の心を睨み、息を落とす。場末の酒場も、料理店の一室も、盗賊に囲まれた山道も、そういった感覚とは無縁だった。この牢獄にも似た不健康で冷然とした空間こそが、自分に最も適した場所なのだ――――改めてそう自覚しつつ、アウロスは長年愛用している羽ペンと作成中の論文が詰まったノートを取り出す。ノートの端の方は手垢で黒ずんでおり、外は日焼けによって変色している。そんな紙の束を捲ると、そこには汚い文字がびっしりと書き込まれていた。
(さて、どこから整理しようか……)
 そう頭を悩ませていると、軽い足音と共に背後から人の気配がした。振り向く事もなくそれがクレールだと悟り、改めて頭を悩ませる。仲良くしたくないと言うのは、単純に仲良くという意味ではなく、深い仲になる気はないと言う意味なのかもしれないとアウロスは一瞬考えたが、そんな事を宣言する必要性を考慮しその案を破棄した。
「へー、こんな研究してるんだ」
 そんなアウロスの頭の中身などお構いなしに、クレールはアウロスのノートを勝手に覗き込んでいた。見てすぐに研究内容を理解したらしく、ほーっと声を上げる。それが感嘆ではない事をアウロスは何となく感じていた。
「どんな研究なんですか?」
 リジルが好奇心に満ち満ちた声で割り込んでくる。
「ルーリングの高速化だって。成功させる事ができたら大金持ちね」
「凄いじゃないですか! 大金持ちになったら何か奢ってくださいね!」
「……成功? バカらしい」
 社交辞令すら一刀両断するその一言は全否定の表れに他ならならない。声の主は――――レヴィだった。
「今まで数多の魔術士ができなかった事を、その男ができるとでも言うのか?」
 アウロスの研究テーマであり論文のタイトルでもある【魔術編綴時におけるルーリング作業の高速化】は、その発想自体は真新しさの欠片もない、それこそこのノートのように手垢の付きまくった凡庸なものだ。実際、似たようなテーマを掲げて研究に励んだ人間は魔術史の中に何十人、何百人といるだろう。魔術編綴を高速化する事でもたらされる恩恵は、魔術士でなくとも容易に理解できる。そして、その商品価値が如何ほどかという事も想像に難くない。一つの魔術を生み出すのではなく、現存の、そしてこれから発明される攻撃魔術のほぼ全てに活用されるのだから。しかし、その圧倒的とも言える研究価値を内包しているこのテーマが完成を見た事はない。ある者は理論構築の時点で穴に気付き、ある者は実用に耐え得るデータを得られず、またある者は研究価値そのものに押し潰され――――今日に至る。
「決め付ける事ないんじゃない? もしかしたらひょっとすると或いはどうかするとともすればややもすると完成させる事ができるかもしれないし」
「そうですよね。神様が運の振り分けを大胆に間違って人一億人分の幸運を背負って生まれた人間かもしれないんですから」
「……」
 何か重い物を頭に乗せられたような錯覚を感じ、アウロスは頭を抱える。
「でも、実際どうなの? 自信とか根拠はあるんでしょ?」
「お前らに話す事じゃない」
 しかしそれはまだ人に話せるほど具体的な形を成している訳でもなく、あくまで仮定の段階だ。それを踏まえ、アウロスは自分の研究についての見解や展望を他人に話す事は殆どなかった。
「感じ悪」
「お前に言われる筋合いはないと思うんだが……」
 出会って二日目に仲良くしたくない、などと言われたのだからその主張は正当だと言える。しかしクレールは不満そうだった。
「にしても、何でまたそんな非現実的な研究に手を出そうと思ったの? やっぱり一攫千金?」
「夢とかロマンとか、そんな感じじゃないですか?」
 二人の追及は続く。アウロスはうんざりとした顔で口を開こうとしたが、それより先に閃光のような視線でレヴィが睨みを利かせた。
「無駄口が多いぞ。私語は慎め」
 一喝。
「はいはい、っと」
 強制力を伴ったその言葉にクレールは大人しく従った。研究室内の力関係は年齢や官職に比例しているようだ。もっとも、一人は全くの蚊帳の外だが。
「……」
 黙々と、粛々と。ルインは外見に似合った姿勢で職務に励んでいる。その様子をたまたま視界に入れたアウロスは何となく数秒ほど眺めていたが、特に変化もないその風景に得る物はないと判断し、再び机の上のノートと向かい合った。
(理由、か……)

「……理由?」
 同時刻、ミスト助教授室――――
「ええ。貴方があの子を欲しがった理由。聞かせてくれるんでしょ?」
 窓から射し込む陽光が舞い上がった埃を映し出し、そこに芳香を携えた湯気が混ざる。その湯気を伝った訳ではないだろうが――――琥珀色の液体に微小な塵が一つ落ちるのを見て、ミストは僅かに眉をひそめた。
「あら、言いたくないの?」
 それを自分の発言が原因だと勘違いし、少し不満げにそう呟いたのは――――後衛術科講師セーラ=フォルンティだった。昨日アウロスの講師を勤めた際には身に付けていなかった深緑の宝石が眩しい高価そうなネックレスを触りつつ、言葉を繋げる。
「それとも、言えない? こっちの上司達が噂しているように」
「ほう。君の上司は別の学科の一助教授の動向にいちいち関心を持っているのか。随分と時間を持て余しているのだな」
「皮肉は結構よ。この大学に勤めていて貴方の動向に興味のない者など一人もいないでしょう」
 機嫌が悪そうな物言いだが、セーラの顔には笑みすら零れている。その笑みの意図する所は定かではないが。
「二十代での教授就任……実現すれば、教会の上位者にすらその名を轟かす事が可能なその偉業に、チェック(王手)をかけているのだから」
 まるで駒を動かしたかのような仕草で、ミストの机に指を置く。
「妨害すべきか、援護すべきか、傍観すべきか……誰もが身の振り方に頭を悩ませている。それが現状よ」
「援護か。有り難い話だな。できればそう考えてくれている方を紹介して欲しいくらいだ」
 ミストの言葉には殆ど抑揚がなかった。
「それは無理ね。今の所表立ってそう意思表示している人間はいないし、これからも出てこないでしょう」
「それについては同感だが……」
 言葉の途中で珈琲を口に入れる。砂糖は入れていない為、焙煎によって生成された苦味がダイレクトに口の中を侵食して程よい刺激をくれる。ミストはその味に満足しつつ、カップを机に置いた。
「先程の発言にはそうではない、と言っておこう」
「どっちが?」
「両方だ。理由は既に表明してある通り、友人の忘れ形見を引き取った――――それだけだ」
「私が信じると思う?」
 セーラの顔がミストに接近する。しかしミストには何の動揺もない。日常生活のままの朗らかなその表情に、セーラは眉間に筋目を刻んで遺憾の意を顕した。
「私だけじゃなく、ある程度貴方を知っている人間なら全員、それを鵜呑みになんてしてない。貴方もわかってるでしょうけど」
「心外だな。まるで私が嘘吐きの常習犯のようじゃないか」
「……相変わらず論点の摩り替えがお上手ね」
 今度は呆れた、と言わんばかりに肩を竦める。その様子にミストは眉一つ動かさず微笑を返した。
「まあ、布石の一つとの見方が大半だけど。私も含めてね」
「布石? 何の布石だと言うんだ?」
「惚ける必要性はないでしょ? もう周知の事実なんだから」
 セーラはミストから視線を外し、部屋の壁にかかった絵画に目を移した。花瓶とそれに植えられた花が繊細に描かれている水彩画で、芸術方面に明るくない彼女にはその価値はわからない。しかし、見る物に安らぎを与えるか否かという観点でなら評価はできる。彼女の評価は落第だった。
「……レヴィ=エンロール。二十五歳男性。現在の官名は講師」
 それでもそこから目を離さずに続ける。深い意味はない。ただ、目の前の男から顔を背けたい一心でそうしただけだ。
「第三聖地の大手研究所から天才と称される研究員を強引に引き抜いた話は、裏では有名よ。どういう手を使ったのかは知らないけど」
「何の事だか。彼は私を慕ってくれて、私の元で働きたいと進言してくれただけだ」
「それは真実でしょうね。少なくとも彼にとっては」
「誰にとってもな」
「……その件と、それにあの女もそうね。今回もそうなんでしょう?」
 一つの単語に強いアクセントがあった。ミストはそれに気付いていたが、それとは別の事を指摘した。
「間者の割には随分大胆な聞き方だな」
「……なっ……!」
 セーラの絶叫に近い声が室内に響く。それでも尚ミストの表情は変わらない。
「私をそんな風に見ていたの!?」
「冗談だよ。もっとも、いつもの君ならすぐに気付くだろうがな」
 そして、その顔のまま涼しげにそう指摘した。
「……カマをかけた、って事?」
「慣れない事はするものじゃない。君には似合わない」
 ミストの言葉は肯定を表していた。
「そう予想しておきながら、私にあの子の講師をやらせたの?」
 非難めいた色はなかった。寧ろ、どこかほっとした様子すら漂わせ、セーラは答えのわかっている質問を投げ掛ける。キャッチボールに意味があるように、それにも意味はあった。
「色々と手間が省けただろう」
「……はあ」
 溜息一つ。いつの間にか陽光は雲に遮られ、部屋に舞う埃は肉眼では見えなくなっていた。
「貴方と会話する度、自分が嫌になる。これでも日頃は後衛術科のエースなんて言われてるのに」
「その評価は正しい。君は後衛術科の魔術士の中で最も才能ある研究員だ」
「言っとくけど、これっぽっちも嬉しくないからね」
 負け惜しみのようにそう吐き捨てながら、セーラは踵を返した。退室の合図だ。
「講習は続けるから。後二日彼を観察して、そのありのままを上に報告する」
「構わない。それは君の権利だ……それと、一ついいかな」
 それまで椅子に座っていたミストが立ち上がり、待ったをかける。セーラのそれに対する反応は微笑ましいくらいに敏感だった。
「……何?」
「そのネックレスは良く似合ってる」
「……余り年上をからかわないで」
 セーラのそれに対する反応は、微笑ましいくらいに素直だった。
 彼女の姿が扉に隠れると、ミストは再び椅子に座って珈琲の入ったカップを右手に持つ。やや冷めた黒色の液体は、それでも尚芳しい。
(どうやら私は天才収集家と見なされているらしい……愚かな事だ。天才など一人しかいないと言うのに)
 ミストの右手小指に光が宿る。そして、カップを持ったまま小指だけ立てて、器用に七つの文字を綴った。
 その文字が消えると同時に――――小さな赤い点がカップの上に発生し、ゆっくりと珈琲の中心に落ちて行った。
 
「珈琲飲みますか?」
 研究室の午後は、午前中と比較して人口密度が低い。部屋には講習から戻ったアウロスの他二名しかおらず、緊張感のない軽い空気が充満していた。
「ありがと。でもこう言うのって普通新入りの仕事じゃないの?」
 にっこり微笑みながらカップを受け取ったクレールが半眼でアウロスの背中に視線を送る。睨まれたアウロスは無表情で首を回し、三秒ほどして無言のまま首を元に戻した。
「アウロスさんもどうぞー」
「サンキュ。そこに置いといてくれ」
 顎で使うかの如く。しかしリジルは一切不満げな顔はせず、アウロスの机にカップを静かに置いた。
「……つくづく、どっちが新人なんだか。それ以前にどっちが年上なんだかって感じもするけど」
「まあ、色々ありまして……」
 リジルは苦笑しつつそう呟くと、その顔を思案顔にシフトして自分用のカップをじっと眺め出した。
「どうしたの?」
「いや、この珈琲を魔術で暖める事ってできるのかなー、などと」
「無理よ。そんな魔術どこも教えてないでしょ?」
 口の中を苦味で満たしたクレールが至福の表情で答える。
「ま、攻撃魔術の専攻ですからね、僕達」
「結解術科や魔具科でも教えないと思うけど。飲み物を温める魔術なんて」
「アウロスさんはどうです? 使えますか?」
「試した事すらない」
 背中越しに素っ気ない返事を放り投げたアウロスは、湯気が薄くなったカップにようやく手を伸ばした。
「ですよねー。でも、そういう魔術があれば便利なのに」
「そうでもない」「そうとも限らないんじゃない?」
 混声の否定。それに何となく不満を覚えた両者が睨むように視線を合わせる。
「お二人とも呼吸ピッタリですね」
「……」「……」
 その視線が揃ってリジルに向けられると、リジルは怯えるように後ずさりした。
「新入り、説明」
「何で俺が……別にいいけど」
 アウロスはようやく身体を反転させ、カップを持ちつつ先輩の指示に従った。
「魔術の規模や殺傷力と魔力の消費量は比例する。だが魔力の消費量が少なくても、制御が面倒な魔術は疲労が大きくなる」
「カップに入った珈琲を、カップに大きな負荷や過度な熱を与える事なく、尚且つ珈琲の質を損なう事なく適度な温度に暖めるなんて、面倒な作業だと思わない?」
「確かに……」
 任せた割にアウロスの説明よりも若干大目の補足を入れたクレールが苦笑気味に息を落とす。
「ま、そんな事を日常生活の中でしれっとできる人は天才でしょうね。レヴィならやれるかも」
「あいつ天才だったのか」
「そりゃ、二十代半ばで修士号取って講師になってるんですもの。一般的には天才って言うんじゃない?」
 魔術大学の職階は、研究論文を認められる事で学位が与えられ、その学位に応じた官位に就く――――と言うシステムになっている。講師になるには修士の学位を取らなければならず、この習得にはかなり高度な研究で成果を上げなければならない。通常の場合、三十歳までに習得できればエリートだと認識されるだろう。
「レヴィさんは凄い人ですよ。ちょっと融通が利かないとこありますけど」
「ちょっとどころじゃないって、アレは。病気よ病気」
「生憎、僕は健康だ」
 途端――――空気が変わる。その原因である声の主が扉を閉めると同時に、クレールとリジルは頬に冷や汗を滲ませていた。
「あ、あら。もうお勤め終了のお時間だったの」
「仕事中に私語は慎め。まして陰口などもっての外だ」
「か、陰口なんてそんな! たまたま話題に出ただけですよー」
 そんなリジルの必死の弁明を無視し、レヴィはアウロスの席までツカツカと歩み寄った。
「……」
「何だ?」
「フン」
 これ見よがしに鼻であしらい、睨みつける。睨むと言っても、それがアウロスに対するデフォルトの目つきなのだが。
「ミスト助教授がお呼びだ。早急に助教授室へ行け」
「……またか」
 アウロスが嘆息するとレヴィの目がカッと見開かれ修羅のような形相になったが、アウロスは平然と無視して腰を上げた。後ろの方で怒号とそれをなだめる声、非難めいた叫びが上がったがこれもシカトして扉を閉、開、閉。
「講習はどうだった?」
 太鼓一番、ミストは昨日と同じ問いかけを投げ付けてきた。机の上の飲みかけの珈琲が暖かそうに湯気を立てている。
「昨日より幾分雰囲気が柔らかかったですね。後は特に」
「そうか」
「まさか用件はそれだけ、じゃないんでしょうね」
「無論だ。これとこれと……そうそう、これだったな」
 ミストから差し出された封書を受け取る。中には数枚の紙が入っているだけのようで、重さは全くない。
「この書類を持って、魔具科のクールボームステプギャー教授の所に行け。用件は伝えてある」
「俺には伝わってないですけど……それより何よりその教授とやらは人なんですか?」
「クールボームステプギャー教授は魔具の軽量化と高い携帯性の実現に多大な貢献をされた、我が大学の誇りとも言うべき御方だ。粗相のないようにな」
「……」
 何かに納得できないアウロスはロクに返事もせず退出し、同じ階の魔具科教授室に向かった。魔具科は一つなので教授違いと言う事はないが、そんな事はどうでもいい様子で扉にかかっている表札をマジマジと眺める。
【ールボームステプギャー教授室】
 最初の文字がかすれて消えていたが、ほぼそのままの名前で実在していた。
 何かに怯えるような、奇妙な心持ちでノックする。
「どぅーぞ」
 地響きが起こりそうなしゃがれた声が入室の許可を伝えて来た。
「失礼、します」
 アウロスが真剣な顔で指輪を光らせつつ入室すると、そこに待ち構えていたのは――――大量の白い毛だった。
「ちっ、やはり罠だったか!」
「……どぅーゆー意味じゃ」
 臨戦態勢のアウロスに地獄の底から鳴り響いて来たかのようなシワガレ声が向けられる。それと同時に白い毛がもぞもぞ動く。アウロスは意を決して宙に文字を――――
「待たんかい! ワシを妖怪か何かと勘違いしとるだろ貴様!」
「どっちかと言うと生物兵器の方向です」
「同じじゃ! 名前と見た目で人を判断するでないわっ!」
 危険物は皆そう言う――――と指摘しようとしたアウロスだったが、落ち着いてみると四肢や鼻と思しき部位が視覚的に確認でき、どうやら本当に人間だという判断を下さざるを得ず、編綴しかけた魔術をキャンセルした。
「全く……ミストの小僧、恐ろしいガキを連れてきおってからに……ちょっと待っとれ。そこにでも座っとれ」
 あの顔を小僧呼ばわりするクールボームステプギャー(正式に人名と確認)にすさまじい脅威を覚えつつ、アウロスは言われた通り接客用の長椅子に座った。安物なのか、臀部と背中に当たる感触は余り柔らかくない。そもそもそれ以前に、この部屋は人を受け入れる体制が整っておらず、床には金属片や虫食いだらけの古本があちこちに散らかっているし、テーブルの上にはよくわからない物体が明らかに正式な置き方じゃない格好で転がっている。唯一癒し効果を期待されて置かれた筈の花瓶には黄土色の何かがアメーバ状にへばり付いていて、それに挿されている花は食虫植物だった。
「これでよし、と。待たせたの」
 白い毛から四肢を生やした生き物がもぞもぞと動いてアウロスの対面に座った。どこからが髪でどこからが眉でどこからが髭なのか判別が付かない、感情の読みようがない顔を向けて来る。
「話はミストから聞いとぅる。書類は持ってきおったか?」
「はい……ああ、そうか。そういう事か」
 アウロスはここでようやくミストの意図を理解した。アウロスの研究は魔具科と密なリレーションがなければ成果が上がらない。ルーリングシステムの変更は、ルーリングを制御する魔具の改良も必要とするからだ。その為の訪問と言う訳だ。
「何じゃ?」
「いえいえ何でも。これが書類です」
 それをいちいち報告する必要もないので、さっさと封書だけ渡す。
「大学の備品を使わせるにもいちいち許可を出さにゃならん。面倒じゃのう」
(毛の手入れの方がよっぽど面倒そうだが……)
 声は心に留め、視線だけ送った。書類は幾つかあり、それぞれ【備品使用許可書】【魔具持出許可書】【魔具科実験室使用許可書】【魔具科資料室使用許可書】などと書かれている。それに魔具科の教授であるクールボームステプギャーが印を押す事で、定められた期間はそれぞれの許可が下りる事になる。つまり、魔具科の様々な施設や備品を扱えるようになると言う訳だ。
「ほれ、これをミストに持ってけ」
 アウロスは印を押された全ての書類を受け取り、頭を下げてそれを仕舞った。
「ところで。貴様の研究は長年に渡って成果が出てない、ある意味禁忌と言われとる研究じゃ。勝算はあるんか?」
 勝算――――つまりは誰一人成し得なかった先人の優秀な魔術士とアウロスとの相違点は――――ある。ルーリングと言う作業は単純に魔具でルーンを綴るだけでなく、文字に込める魔力の調整を行わなければならない。実はこの調整が曲者で、魔術をしっかりと使う事ができるかどうかはこの部分にかなりの比重が置かれている。例えば十の文字が必要な魔術を編綴する際、知識として必要なのはその十の文字と並べる順序だけだ。しかしその一つ一つの文字に込める魔力の量は千差万別で、理想値こそ推奨されているものの、実際に全ての文字にその値と全く同じ魔力を込められるかと言うと、それは不可能に近い。何故なら、魔力を込めるその作業は感覚的なもので、これという決まった方法がないからだ。それ故に、同じ魔術であっても、威力・規模・射程範囲・速度などは編綴する人間によってそれぞれ微妙に異なり、当然消費する魔力量も変わってくる。それらのバランスを上手く取って、少ない魔力の消費で有効的な魔術を編綴する事が、優秀な魔術士の条件と言えるだろう。アウロスはこの部分も余り得意ではなく、魔力の節約を優先してしまうあまり、仕留めるべき所で仕留め損なう経験が何度もあった。しかし、その部分こそが勝算の重要な要素でもある。
「儂の研究室とて人材に余裕はない。実りのない木に水を撒くなんてまっぴらじゃぞ」
「甘い果実をご所望なら、期待には応えられるかどうかはわかりません」
 アウロスの即答に、クールボームステプギャーの毛……もとい、顔が一瞬引きつる。しかしアウロスは構わず続けた。
「ただ、誰も見た事のない、毒か薬かすらもわからないような未知の生成物を見たいのであれば、その願いを叶える事は可能です」
 キッパリとそう答えたアウロスに対する魔具科教授の反応は――――
「ぐぉぉぉぉぉぉぉ……」
 奇声。アウロスは指輪を光らせつつ重心を下げて後ずさりした。
「面白い。魔術大学の教授を口説く文句とぅしては最高の返事じゃ」
「今の、笑い声だったんですか……」
 余りに奇妙な感情表現に、半眼で苦笑いを浮かべつつ本日二度目の魔術キャンセルを施行した。これだけでも結構疲れたりする。
「若いのを一人貸す。要望や発案があればそやつに言え。貴様の望む魔具を作らせる」
「ありがとうございます」
 爽やかに礼。
「ぐぉぉぉぉぉぉぉ。若いとは素晴らしき事じゃのう」
 地震でも誘発しそうな笑い声に不安を抱きつつも――――取り敢えずアウロスの研究環境は一歩前進した。






 前へ                                                     次へ