「――――以上。これらの条項に異論がなければ、ここにサインを」
 憔悴し切ったアウロスは、それでも全ての項目にしっかり目を通してから、契約書にサインをした。
 賃金は通常の新米研究員よりかなり良く、試用期間はなし。
 退職手当や雇用保険も充実している。
 取り立てて実績もなく、一度他の大学をクビになった人間に対しての雇用条件としては、破格とも言える内容だった。
「君に対する期待の表れだと思ってくれれば良い。勿論、プレッシャーをかける意味合いも含んでいるがね」
「……これで良いですか」
「結構。これで君は晴れて、前衛術科『ミスト研究室』の一員だ」
 ミストは念願成就といった面持ちではなく、不敵な笑みを携え、握手を求めた。
 あくまでも数ある布石の中の一つ――――言葉とは裏腹に、目がそう語っている。
「期待に応えられるかどうかはわかりませんけど、論文は完成させます」
「良い返事だ。『努力します』『全力を尽します』……そんな言葉には何の価値もない」
 思惑はどうあれ、手は握られた。
 そしてそれは同時に、主従関係の成立も意味する。
「では早速だが、明日から君には色々として貰う事がある」
「出来れば研究メインで行きたいんですけど」
「勿論そのつもりだ。しかし、その為の下地を作らなければならない。助教授は意外と権限が狭いのだよ」
 より良い環境――――それは大きな傘の下で初めて成り立つ。
「つまり、教授になるからそれを手伝え、と」
「そうだ。私が20代の内にな」
「……」
 アウロスは一瞬目を見開き、その後俯いて、縦皺の刻まれた眉間を親指で揉んだ。
「どうした?」
「ああ、すいません。疲労が激しい所為か聴覚がバカになってるみたいで」
「ふむ……では今日はこれくらいにして、詳細は明日にしよう。これから君の住処となる場所を案内する」
 ミストが席を立ち、アウロスもそれに続く。
 部屋を出て大学内を歩く間、アウロスは何度か耳を指で穿った。
「ここから近いんですか?」
「歩いて十分と掛からない。立地条件としては中々のものだ」
 ミストの言葉通り、大学を出て公道を歩き、数分でそこに辿り着いた。
「……」
 訝しげなアウロスの視線の先には、『めし』と書かれたボロい看板がひっそりと立て掛けられている。
 建物自体もボロく、所々修理の痕跡が伺えるが、余り上手くはない。 
 内部に人の気配は殆どなく、貧相な閑古鳥が悩ましげに喘いでる。
 誰がどう見ても、寂れた食堂だった。
「食事を取りに来た……訳じゃないですよね」
「無論だ。ここで食事する愚か者はこの街にはそうそういない」
 ミストはキッパリそう言い切ると、店内にズカズカと入り、カウンターに置いてある金色のベルを鳴らした。
「はいはいーお客様ですかー?」
「申し訳ないが客ではない」
 店の奥から、店員と思しき女性が出て来た。
 ミストの即答にあからさまな落胆の色を見せた店員だったが、すぐに立ち直り、スマイルを浮かべる。
 糸のような目が特徴的な、少しだけふくよかな女性だ。
「あらミストせんせ。妹がいつもお世話になってますー」
「いえいえ。今日は以前話しておいた件でお伺いしました」
「あらー。それじゃ上手く行ったんですね、スカウト。結構な事ですわー」
 ふくよかに笑う女性を尻目に、アウロスは店内をぐるっと見渡した。
 壁にはお品書きがズラ〜〜〜〜〜っと並んでいる。
 テーブルも椅子も新品のように美しく、床にはチリ一つ落ちていない。
 衛生面の問題は何一つとしてなかった。
「アウロス。彼女はこの料理店【ボン・キュ・ボン】の料理長を務める【ピッツ=レドワンス】嬢だ」
「よろしくー」
「アウロス=エルガーデンです。初めまして」
 ピッツ嬢の気さくな挨拶に、アウロスは軽く会釈して対応した。
「ところでミストせんせ、お腹空いていませんか?」
「アウロス君にはここの二階を使って貰う部屋の場所やその他諸々の事は彼女に聞くと良い」
「お腹空いていませんか?」
「では私はこれで失礼するピッツさん後は頼みますでは失敬」
 栄えある【ウェンブリー魔術学院大学】前衛術科の助教授は、捕食されそうな小動物の如き必死さで去って行った。
 ポツンと、取り残される二人。
「……えーと。アウロスくんだったよね? お腹空いてない?」
「はあ、割と」
「それじゃ、今からさっと作るからテーブルに掛けといて! 部屋の事はその後に話しましょう!」
 ピッツ嬢は急にテンションを上げて、調理場へと駆け込んで行く。
 状況について行けず取り残されたアウロスは暫くボーっとしていたが、取り敢えず指示通りに最寄のテーブルに腰掛ける事にした。
(ミスト助教授の言葉が気にはなるが……仮にも料理店なんだ。変な物は出さないだろう)
 ここに住むのであれば、いずれにせよ食事を頂く事になる。
 アウロスは後回しは嫌いな性質だった。

 30分後――――

「はい、どうぞー」
 料理長が満面の笑みで持って来たのは、想像を超える豪華な食事の数々だった。
 澄んだ象牙色のスープ。
 陶製の容器に入った色とりどりの野菜。
 上品な香草の匂いがする鶏肉。
 パイに包まれて香ばしく焼かれた魚。
 そして新鮮なフルーツ。
 高級レストランのフルコース並のメニューがズラリと並ぶテーブルに、アウロスは度肝を抜かれた。
「凄……」
「お口に合いますかわかりませんけど、遠慮なく召し上がってくださいなー」
 食事と言うものは、味覚のみならず、視覚、嗅覚も満足させる事が重要だと言われている。
 この料理の数々は、既に3分の2を満点でクリアしていた。
(この外見で不味いとは考え難い。ミスト助教授の言葉は、恐らく大衆食堂にあるまじき高級感と量の多さに起因するものなんだろう。このコース料理だったら相当な値段だろうしな)
 だが、御馳走して貰う分には問題ない。
 そう判断したアウロスは、ピッツ嬢の言葉通り、遠慮なく頂く事にした。
「では、頂きます」
 まずスプーンを取り、スープに手を付ける。
「……」
 カラン、と言う擬音と共にスプーンが落ちた。
「…………………………」
 沈黙。
「あ、あの」
「……………………………………………………」
「もしかして、と言うか、やっぱりお口に合いませんでしたか?」
「………………………………………………………………………………う」
「う? ああっ! もしかして、美――――」
「う……迂闊……だった……畜生……俺はこんな……所で……ラードの塊になるのか……」
 アウロスは呪いを受けた人間の末路のような呟きの後、死んだ。
「えええっ!? 死、死んではダメです! 私殺人罪で起訴されたくないですよー!」
「……死ななくても立派な殺人未遂って罪だこれは」
 あっさりと蘇った。
「ああっ、よかったー! 危うく業務上過失致死になるとこでしたー」
「だから、致死が付かなくても犯罪だっての……つーか薬……まず薬を俺に……」
「ああ、私ってどうしてこういつも……」
 ピッツ嬢は、アウロスの叫びにならない叫びを無視し、一人自虐モードに入った。
 と同時に、入り口の扉がゆっくりと開く。
「ただいま……え、嘘お客さん? 止めといた方が良いよここは……って、もう遅いみたいね」
「お帰り、クレールちゃん。あのねー、お姉ちゃんまたやってしまったみたいなのー」
「見ればわかるし。取り敢えず施療院に連絡入れとこっか」
「薬……薬を……劇的な効果のあるお薬を……ぐふっ」
「あ。死んだかも」
「え゛」
 アウロスは3度目の生命の危機に瀕し、さすがに意識のブレーカーを落とした。



 


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