朝。
 目が覚めると同時に、まどろみの中で、学校へ行く事のかったるさに、溜息一つ。
 乾いた口の中を潤す飲料水がベッドの傍にない事に、溜息二つ。
 首を回し、肩を回し、肘を伸ばし、背中を反らし、溜息三つ。
 朝食時に顔を合わせる両親の覇気のない顔に、溜息四つ。
 顔を洗い歯を磨き、着替える際の気怠さに、溜息五つ。
 折れた踵を戻す為に屈む無駄な労力に、溜息六つ。
 それでも――――見上げた空は、見事なまでの五月晴れ。
 落とした息の数だけ、宙に浮いて行くような、そんな奇妙な浮遊感と共に、忍は学校へと向かった。


 あれから――――
 絵空は物語の継続を断念。
 3Dブレーカーを出水へ返還し、『インポッシブル・トリニティ』は連載途中で打ち切りと言う形となった。
 それは同時に、『ストレンジ・ストレート』の打ち切りも意味する。
 無論、それ自体、言わば作中作のようなモノだったので、忍に未練はない。
『描いた事が具現化する羽根ペン』の物語は、誰にも手応えを残す事なく、初春の風と共に消え去った。
 そして、あれから一週間。
 忍は今、新しい物語を描き始めている。
『応募作04』と言うファイルに入っているその物語に、今は全力投球。
 タイトルは――――未定。
 出来が良ければ、『第十回 エンジェルフェザー賞』に応募する予定でいる。
 尤も、作品は水物。
 プロットの段階から完成まで、一貫して同じストーリーと言う事は、まずない。
 必ず何処かで変化が生まれる。
 それは、改善となる事もあれば、改悪となる事もしばしば。
 途中で萎んで、凍結してしまうなんて、日常茶飯事だ。
 それでも、完成というゴールを目指す事に、忍は何ら疑いはない。
 それが、シナリオライターと言う夢へ向けての第一歩だから。
 何より、物語を紡いでいる瞬間が、何よりも楽しいから。
 それを思い出す事が出来たのは、あの羽根ペンのお陰でもある。 
『リアライザー』。
 それは限りなく類似する物こそあったが、実際には幻のアイテム。
 夢の道具だった。
 でも、忍の中には、確かな遺産が残っている。
 ずっと、ファンタジーばかりを追ってきた。
 それは、桐生木ノ葉の影響も大きかった。
【祈りのセシル】のような物語を描きたい。
【廻るメルクリウス】の続きを描きたい。
 そう言う気持ちがずっと、少年時代から根底にあった。
 だが、それだけではダメだと、気付かされた。
 例え、ファンタジーであっても、そこには人と人との交流があり、意思の交換があり、想いの交錯がある。
 理路整然としていれば良い訳ではない。
 人は時に理不尽に、不自然に、感情や行動を乱す。
 だからこそ、人は物語を作るし、物語は意義を成す。
 小論文のような物語では、共感も感動も得られない。
 そんな事、理屈ではわかっていても、中々実感できるものではない。
 だが、幸いにも、忍はそれを体感する機会を得た。
 それは、長年自分という檻の中で培って来た価値観を粉砕するには、十分な破壊力だった。
「おはよーございます」
「……ん、おはよう」
 変わった事が、もう一つ。
 忍は登校の際、高確率で女子とエンカウントするようになっていた。
 那由他名夕。
 忍と同じく、物書きを目指している女子。
 彼女もまた、彼女の視点で彼女なりの体験を経て、新たな価値観を得た一人。
 現在は、新作を鋭意執筆中。
 タイトルは、『まぐねっと >< こみゅにけーしょん!』。
 とある隔離された街の物語だ。
 そこには、心に『L極』と『H極』という二つの磁極を持つ人々が住んでいる。
 L極とは、LOVE極。
 H極はHATE極。
 これらは単独では存在せず、必ず両極が共存している。
 ただ、一度に表に出るのはどちらか。
 状況、心境に応じて、二つの極は入れ替わる。
 誰かを好きという気持ちが強ければ、L極。
 憎いと言う気持ちが強ければ、H極が前面に出る。
 この両極には、特徴があると言う。
 二人の異性が居る場合、異なる極は引き合い、同じ極は反発し合う。
 両思いの二人は引き離され、片思いの場合は惹かれていく。
 その為、片思いばかりが形成される、奇妙な街になってしまっていた――――そんなお話だ。
「私、実はラブストーリーって苦手なんですよ。もー毎日毎日、苦労の連続で」
「うん、知ってた。全然知ってた」
「んくっ……どうして!?」
「いや、本当、普通に」
「普通って何!?」
 と、そんな具合で、自身の執筆している作品の進捗具合を報告しながら、茶々を入れ合っている。
 誰に描かれるでもなく、自らの物語を自ら描く、そんな日常。
 そこには、危険もあれば、苦痛だって沢山ある。
 でも、そんなのは当たり前の事。
 何故なら、その方がずっと、楽しいから。
 そう言う物語の方が、読んでも、描いても、楽しいから。
 だから、決して金の卵ではない二人は、今日も語り合う。
 今の物語を。
 そして、未来の物語を。
 そう、これは――――




 ――――これは、ただの絵空事。
 
 現実とは異なる、架空の物語。

 だから、何を描いても許される。

 何を想っても、許される。

 だから、描いた。

 小さな小さな願望を。

 一片の羽根に、乗せて――――




「……これで良かったのかい?」
 3Dブレーカーを受け取った出水の顔は、普段のヘラヘラしたものとは程遠い、憂いを帯びた表情だった。
 そんな、かつての怨み人に対し、絵空は小さく頷く。
「理想とは違いました。でも、満足です。目的は果たせましたから」
「確かに、幼馴染みとの再会は果たしたね。でも、劇的なシーンはなかったし、進展も一切なし。ボクにはとても、満足してるとは思えないな」
 今度は呆れ気味に、大きく嘆息する。
 二人以外は誰もいない情報処理教室Cは、パソコンの起動音も空調の起動音もなく、凍っているかのように静まり返っていた。
 絵空のメモ帳に描かれた、小さな文字の小さなストーリーには、大きな目的が描かれていた。


 ――――これは、再会の物語。

 まだ幼い頃、一緒に遊んだ、一つ年上のお兄ちゃん。
 憧れと言うには近過ぎた。
 恋と呼ぶには、幼過ぎた。
 それでも、絵空の胸の中にはずっと、彼がいた。
 けれど、別れの時はやって来る。
 先に小学生へと上がった『お兄ちゃん』と、幼稚園児のままの絵空。
 その一年は、二人の関係を別のモノに変えた。

 それから、暫しの時は流れ。 

 絵空は、行きつけの中古本販売店で、偶然『お兄ちゃん』を見かけた。
 だが、それは全くの偶然と言う訳でもなかった。
 接点は、文庫本。
【祈りのセシル】と言うタイトルの、ライトノベルだった。
 この古本屋とは違う、周囲で最も大きい本屋で、『お兄ちゃん』はその本を買っていた。
 絵空もまた、その本を買おうと、店にやって来ていた。
 反射的に隠れたのは、恥ずかしかったから。
 ただ、そこから新たな、そして一方的な関係が築かれて行った。
【祈りのセシル】新刊の発売日。
 時刻は四時頃。
 学校が終わって、本屋に直行した際の時間。
 その瞬間、『お兄ちゃん』は決まって、そこにいた。
 それはもう嬉しそうに、新刊を手に取っていた。
 絵空はいつも、その様子を遠巻きに見つめていた。
 何故なら――――その光景が、何よりも幸せだったからだ。
【祈りのセシル】の作者、桐生木ノ葉の本名は、億川空斗。
 絵空の実の父親だった。
 絵空にとって、自慢の父。
 友達に自分の親が売れっ子小説家だと話す事はなかったが、アニメ化した際に男子の間で話題になっていた時などは、最高に誇らしかった。
 何より、仕事をしている時の真剣な姿が、大好きだった。
 だから、新刊の発売日には、誰より早く一番大きな本屋へ赴いた。
 その本が手に取られる瞬間を目撃したくて。
 そこで、『お兄ちゃん』の姿を発見した。
 偶然と必然が織り成した、一方通行の再会。
 以降、絵空にとって、新刊発売日は二重の喜びを得られる日となった。
 声をかける勇気はない。
 絵空は内気な少女だった。
 それでも、『お兄ちゃん』が『お父さん』の本を嬉しそうに買っている姿を眺めているだけで、満足だった。

 しかし、楽しい時間は終わりを迎える。

 実は。
 実は――――絵空が心を壊した原因は、3Dブレーカーによるループ現象ではなかった。
 実際に、ループは体験した。
 だが、繰り返しの日常の中で、言葉を失くす事はなかった。
 本当の理由は別にあった。
【祈りのセシル】終了後、桐生木ノ葉は、変わった。
 変わってしまった。
 余裕と情熱を程よく兼ね備えた、雄大で優しい父は、常に顔を歪め、物を破壊し、奇声を上げる『バケモノ』へと変貌した。
 ヒット作に恵まれながら、安定しない生活。
『娘の体験談』を参考にしたにも拘らず、鳴かず飛ばずに終わり、酷評される新作。
 心ない担当の言葉。
 全てが、彼を傷付けた。
 生物は、自分より弱い者を虐げる。
 彼がその対象に選んだのは――――娘だった。
 目を剥いて、歯茎が見える程に口を開いて、顔中の血管を浮かび上がらせて。
 弱い存在を、虐げ続けた。
 その虐待こそが、絵空の言葉を失う原因となった。
 絵空の母親が、彼女を連れて家を出るまでに、そう時間は掛からなかった。

 そして、また時は流れ。

 大好きだった父の名残は、記憶からは消え、嗜好だけが残滓のように、日常の中で残っていた。
 小説を読む事。
 それは――――『お兄ちゃん』が楽しそうに本を手に取っていた事と、無関係ではなかった。
 本を読むのは、楽しい事。
 そう頭の中にインプットされていたから。
 絵空はその通り、読書に明け暮れた。
 言葉を失い、過剰な気遣いや心ない言葉に嫌気が差していた事もあって、自分の世界に閉じ籠っていた。
 そんなある日。
 絵空は、父親の訃報を知った。
 しかし、母親は通夜への出席を拒否した。
 二人は既に、他人となっていたのだから、不思議ではない事。
 絵空はいつも通り、学校へ通った。
 そして、その情報処理教室で、ちょっとした作業を行い、下校。
 街中の本屋を巡った。
 立ち読みをするフリをして、ライトノベルのコーナーをチェック。
 だが、誰もそこへ近寄ろうとはしない。
 どの本屋でも、結果は同じだった。
 最後に辿り着いたのは、中古本販売店。
 だが、そこも同じ。
 誰も、桐生木ノ葉に触れようとしない。
 見ようともしない。
 そう諦めた最中――――視界に、一人の少年の姿が映った。
『お兄ちゃん』。
 最後に見た日から、また少し容姿を変え、背を伸ばしたた男子。
 紛れもなく、『お兄ちゃん』だった。
 彼は――――泣いていた。
 そして、その手には【祈りのセシル】の最終巻が握られていた。
 その姿に、絵空は驚きよりも、違う感情が芽生えている事を自覚し、暫し立ち尽くした。


「そして、その後キミは、かつて手元にあった『描いた事が具現化する羽根ペン』を再び拾い、物語を描き始めた。タイトルは『インポッシブル・トリニティ(不可能な三位一体)』」
 窓の外を眺めながら、出水はゆっくりと、嘆息混じりに話す。
「これは経済用語の一種で、安定した為替相場制度、独立した金融政策、自由な資本移動は同時に実現しないと言う意味だ。だが、この物語における意味は、少し違う。表向きは、三人の描いたストーリーは共存できないと言う意味があるけど、本当は……」
「……」
「本当は、こうじゃないのかな? キミと、彼と、父親。理想の三位一体が不可能となった事を指している。つまり……キミはこの物語で、彼に全てを打ち明けようとしていたんじゃないかい?」
 絵空は答えない。
 沈黙は長く続かず、同じ声が連なった。
「キミは最初から、彼を主人公にする予定だった。彼が選ばれるような設定で、物語を書き続けた。そして、主人公となった彼と再会を果たす。作中では、幼少期に彼と遊んでいた事を忘れている設定にして、より劇的な再会を果たす為に……そうだよね? 桐生木ノ実サン」
 それは、『インポッシブル・トリニティ』に登場する、最後の主要キャラクターの名前。
 そして、作中における絵空の名前。
「っと、これは意地悪かな、流石に」
 身を竦める中学生に、出水は苦笑を浮かべた。
「まだキミは、書き手としては未熟だ。人生経験も少ない。だから、部活動の描写や、男に関する描写、家族の描写も圧倒的に不足してたね。だから、それらは極力省略していた。自覚はあったんだろうね。だから、会社とかサークルとか、背伸びした描写でその穴を埋めようとした」
 更に、付け加えるなら。
 絵空は、会社と言うものに対し、思う所があった。
 もし、父がごく普通の会社員だったら――――
 そう言う気持ちが、ストーリーの中に紛れ込む事になった。
「で、最後のオチ。あの『ミスリード』に関しては、ちょっと笑っちゃったよ。結局、あの予防線の『本命』はどっちだったんだい?」
 絵空に、ボーイズラブの趣味はない。
 にも拘らず、それを想起させるような幾つものフェイクを作中に忍ばせていたのには、相応の理由があった。
 一つは、『物語に対する』予防線。
 一つは、『ヒロイン達に対する』予防線。
 出水は、そのどちらが本命かを、率直に尋ねた。
「それは……」
 答えは――――出ない。
 或いは、出していないのか。
「ま……そうだと思ったよ。そう思ったからこそ、ボクは協力したんだ。3Dブレーカーの影響下にないボクは、自由に動けるからね。明確な敵を設定して、キミと彼が近付きやすい環境を作った。それでも進展がないから、ボク自身が敵になってみたりもした。でも……キミは、好機を活かそうとはしなかった」
「勇気がないんです、私は」
 ポツリと、虚空へ向けて絵空は呟く。
「昔からそうでした。遠くから見ているだけで、満足だと思い込んでいました。だって……それで、十分に幸せでしたから」
「そしてその後、今度は近付くのが怖くなった。違うかい?」
 その指摘には、絵空は反応を示した。
「そう……かもしれません。大切なものは、遠くにある方が良いのかな」
「それは違うね。絶対に違う」
 出水は羽根ペンを器用に回し、宙へと放り投げた。
 世界を揺るがしかねない程の効力を持った『兵器』を。
「違い……ますか?」
「キミに足りないのは、勇気じゃない」
 落ちてきたそれをキャッチし、そのペン先を絵空へと向ける。
「コレだよ、コレ」
「3Dブレーカー?」
「違うよ。こっち」
 そう言いつつ、出水はクルリと羽根ペンを一八〇度回した。
「……羽根、ですか?」
「そ。羽は空を飛ぶ為の物。でも、単体では成立しない。羽根が幾重にも重なって、初めて空を飛ぶ為の翼になる。キミに足りないのは――――その、一つ目。一歩目だ」
「だから、それを踏み出す勇気が……」
「勇気じゃないよ。キミはもう、『あの決断』をした時点で、一歩踏み出してるんだ。それは立派な勇気なんだよ」
 再び回転。
 羽根ペンのペン先が、宙に文字を描き始める。
 無論、そこにインクは付着しない。
 だが、絵空には、その綴りがわかった。
「私に、足りないのは――――」




 ――――――――


 ――――


 ……




「おっはよーさーん!」
「あたっ!」
 忍の背中に、衝撃が走る。
 尤も、『あの時』のような、痺れるようなものとは種類が違う。
 やったのは同じ人物だが。
「刹那……朝っぱらから元気だな、お前は」
「ま、私くらいになると、ペース配分しなくても一日中テンションが持つからね」
「長時間取りのお笑い芸人じゃねーんだからさ……」
 もし、この日常が『絵空の描いた物語』の中であったなら、この後に返ってくる言葉は、『そう、それ! それでこそ主人公よ!』。
 しかし、これは現実。
 デフォルメされた掛け合いは、現実には必要ない。
 露骨な口癖も。
 それは、物語の中でだけで良い。
 物語だからこそ、そこに意義がある。
 だが、人って言うのは、どうにも厄介なもので、そこでは生きていけないらしい。
 その方法は、少し前までは、確かにあった。
 だが、待っているのは結局、予定調和の日々。
 作られた刺激は、読んだり観たりして楽しむモノ。
 体感していく上では、そんな要素はなくていい。

 現実は、現実。
 物語は、物語。

 その区別を頭でもない、心でもない、別の部分で出来たその時。
 そこに、最高の日常が待っている。

「あ……あれって」
「中学の制服じゃない。あ、近付いて来るわよ」

 ありきたりで。
 そして、かけがえのない。
 そんな最高の日常が。

「おはよう。でも時間良いの? ここからそんな近くじゃないよな、桜並木学園って」
「大丈夫じゃないの? いざとなったら、サボっちゃえば良いし」
 無責任な朱莉の発言にジト目を向ける忍に対し絵空は、はにかみながら微笑む。
 そして、そっと右手を忍の顔に近づけ――――人差し指でその唇に触れた。




 main characters.




「あれ? なんか口に付いてた?」


 Sinobu Endou (Hero)




「わざと食べカスくっつけて、無邪気キャラでも演じてたんじゃないの?」


 Syuri Setsuna (1st.Heroine)




「男の人がそれやっても、あんまり絵にならないと思いますよ……?」


 Nayu Nayuta (2nd.Heroine)




「いえ、何にも付いてないです。だから、これは――――」


 Esora Okukawa (3rd.Heroine)


 


 Realizer




「ただの間接キスなの」








 This is a ...

 






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