それは、残された最後の希望。
 しかし同時に、限りなく絶望に近い。
 少年の手には、一冊の文庫本が掴まれていた。
 もう何度、読み返した事か。
 流石に一語一句違わずに全文章を暗唱できる程ではないものの、話の大まかな内容を余す事なく語る事は余裕で出来る。
 それくらい、何度も何度も読んだ本。
 少年はその薄汚れたカバーを、じっと眺めていた。
【祈りのセシル 第八巻】。
 ヒット作の最終刊として世に出され、多くの人が手に取った、希望と未来の詰まった本。
 刷られた時から、沢山の笑顔と涙を生み出す事が確約された、幸せな本。
 その本の価格――――五〇円。
 中古本ショップの一角に一〇冊ほど並んだ全ての巻が、その値段で売られていた。
 数年前には、各本屋でフェアまで開催され、華やかに、そして大々的に発売された本が、今や350mlの甘い液体の半分以下の金額で、投げ売りされている。
 もしこの光景を作者が見たら、どう思うのか。
 嘆くのか。
 憂うのか。
 或いは――――嘲笑うのか。
 少なくとも、この日。
 そんな憂慮をする必要は、なくなった。
 けれど、この店にいる誰もが、そんな事を知る由もない。
 親に必死でせがむ少年。
 真剣に立ち読みしている少女。
 皆、日常の一頁として、ありふれた時間をここで過ごしている。 
 それが当たり前の事だ。
 当たり前の事なのだけれど――――少年は、そんな光景に、涙した。
 恐らくは、誰も目を向ける事のない、その一角で。
 少年は静かに泣いた。
 限りなく絶望に近い、唯一の希望を手に。
 少年は人知れず、泣き続けた。


「……」
 果たして、何時以来だったのか。
 目覚めた忍の記憶の中には、かつての自分が鮮明に蘇っていた。
 自分が物語を紡ぐ側に立とうと決意してからは、見なくなっていた夢。
 敬愛して止まない作家、桐生木ノ葉がこの世を去ったと知った日。
 まるで夢遊病者のように、忍はフラフラと街を彷徨い、一件の中古本販売店に足を踏み入れ、そして――――現実を見た。
 それは、或る一人の栄光と挫折を移した光景に留まらない。
 自分の未来をも移した景色。
 例え栄光を掴んだとしても、成功を手にしたとしても、待ち受けているのは、こんな結末だと言う――――絶望だった。
「つーか……何で俺、寝てたんだ?」
 そんなモヤモヤした心の霧を晴らすべく、敢えて独りごちる。
 夢の記憶は底に沈め、糸を辿るように、先刻までの自分を思い描く。
 辿り着いたのは、視聴覚室を出ようとしている映像。
 そこから、一切の記憶が途切れている。
 何が起こったのか――――全くわからない状態だ。
 仕方なしに、その糸を一旦断ち切り、忍は現在の状況把握へと思考を切り替えた。
 視界は薄暗いものの、窓から差し込む西日が、その場所を照らしてくれている。
 体育倉庫だった。
 服装は学生服のままだ。
 忍の他には、誰もいない。
 ここにいると示唆された那由他も。
 何より特徴的なのは。
「……うげ」
 手足をガムテープで縛られていると言う状況。
 つまり――――何者かによって気絶させられ、拉致、監禁されていると言う事になる。
 背筋が凍るような異常事態。
 客観的に見て、命の危険に晒されていると考えなければならない状態だ。
 心臓の位置がはっきりわかる程、鼓動を強く、大きく打つ。
 息苦しさが吐き気を生み、全身に寒気を呼び込む。
 一切動いていないにも拘らず、忍は息を切らした。
 カサカサに乾いた唇を潤す事も出来ない。
「誰か……いないのか?」
 その唇を動かし、小さく呟く。
「誰かいないのか!?」
 次は、大きく叫ぶ。
 だが、返事は一切ない。
 人の気配もない。
 完全に一人。
 だが、その方が良かったと言う安心感も、少しだけあった。
 もしそこに、ナイフでも持った人間がいたら、ただでさえ脆い自律神経は完全に事切れていただろう。
 状況は、固定。
 そうなってくると、徐々に動機も収まってくる。
「はぁ……ふぅ……はぁ……」
 痺れるような感覚は残っているものの、深呼吸を数度繰り返し、どうにか落ち着く事が出来た。
 そうなると、少しずつ現状が見えてくる。
 両手は背中の方で、これでもかと言わんばかりに、ガムテープでグルグル巻きにされている。
 だが、所詮はガムテープ。
 拘束力は然程高くはない。
「これなら、いける……かな」
 ベルトと身体の段差を利用し、何度も擦りつけるように摩擦を加える事で、徐々に緩んでくる。
 後は、腕の力を使って広げ――――
「っと!」
 ものの10分程度で、右手が抜けた。
 後は、足の方のガムテープを手で剥がすだけ。
「……はは」
 実にお粗末だった。
 一気に緊張は解れ、息苦しさも消え失せる。
 問題は――――そんな稚拙な拘束を、誰が、何の目的で行ったか、だ。
 忍は敢えてその場に留まり、考えた。
 校内で気絶させられたのは確かなので、自然とそれが出来る人物は限られてくる。
 自分をこのような状況にする事で、利を得る者は誰か。
 最初に頭に浮かぶのは、敵対している構図の生徒会。
 しかし、今まさに交渉が成立した相手に、こんな事をする意味はない。
 まして、今後も情報源として期待した矢先。
 よって、生徒会の仕業ではない。
 次に考えられるのは、直前に出て行った朱莉。

『なんかアッサリ交渉がまとまってつまんないから、ついやっちゃった。てへっ』

 性格上、あり得ない事もない話ではある。
 実際、あの場には朱莉がいたのだから、忍がこのような目に遭っている以上、彼女も無事では済まない。
 にも拘らず、彼女の姿はこの体育倉庫の中にはない。
 不自然だ。
 問題は、一般的な体型の女子である朱莉が、一体どうやって忍を気絶させる事が出来るのか、と言う点。
 だが、それも『スタンガン』と言う答えで解決できる。
 盗聴グッズを通販で買うような女。
 スタンガンを同時に購入していても、何ら不思議はない。
 しかしながら、大きな問題もある。
 朱莉が犯人だとしたら、体育倉庫の手前でやれば良い事。
 視聴覚室で気絶させた忍を背負うか引きずるかして、体育倉庫まで運ぶと言うのは、幾ら放課後とは言え、かなり困難だ。
 そこまでしてやる程の悪戯とは、到底思い難い。
 とは言え、第三者が行ったとしたら、やはり不自然な点が多過ぎる。
 朱莉の行方。
 那由他の行方。
 体育倉庫に拘束する理由。
 余りにもお粗末な拘束。
 不自然さばかりが目に付く状況だ。
「……不自然、か」
 そこで、忍はその言葉が妙に引っ掛かった。
 不自然なのは、今に始まった事ではない。
 今日という日、そしてそれ以前にも、不自然な事は山ほどある。
 この甲乙高校に入学してから、ずっと。
 忍はその不自然さを、一から順に追ってみる事にした。




 四月八日。
 それは、三人にとって運命の日。

 高崎久遠(たかさき くおん)。
 月森由羽(つきもり ゆう)。
 柊楓(ひいらぎ かえで)。

 彼等はみんな、幾つかの共通点を持っていた。
 まず、全員が『彩雲学園』の新入生として、この日入学式へ挑むと言う点。
 次に、全員がこの日を境に『変わりたい』と願っている点。
 そして。
 全員が、とある不思議なアイテムを持っている点。
 そのアイテムとは、『リアライザー』と言う羽根ペンだ。
 この羽根ペンは、単なるアンティークグッズじゃない。
 夢のような効果を持っている、秘密道具も真っ青のアイテムだ。
 その効果と言うのは、『描いた事が現実に起こる』、と言うもの。
 何故、そんなアイテムが生み出されたのかと言うのは、わかっていない。
 未来人が発明して、タイムマシンで今の時代に持ってきたのかも知れないし、オーパーツのように宇宙人が落とした物なのかもしれない。
 何にしても、純然たる事実として、そんな効果を持つアイテムが三つ、彼等の手にそれぞれ収まっている。
 けれど、何でも現実になる訳ではない。
 例えば、寿命でもない人を殺したり、突然目の前に宝の山が現れたり、と言った不自然な展開は、一切受け付けられない。
 条件は、『話の辻褄が合っている事』。
 そして、『常識的にあり得る事』。
 宝くじで3億円とか5億円が当たると言うのも、その範疇にはないらしい。
 つまり、『リアライザー』と言うのは、日常を生み出すアイテム。
 自分が願う、こうありたいと言う、不思議な事や突出した事の一切起きない、ありふれた日常を描く羽根ペンだ。
 それぞれの理由で、そんな道具を手にして、独自の方法や理論で検証を行った三人は、共通の願いをそのまま描いた。
 それは、『自分を変える高校生活のスタート』。
 あくまで常識の範囲内で、それでいて今までの自分達を変える、そんな一日。
 それを、全員が同時に描いた。
 三人は、自分以外がリアライザーを持っていると言う事を知らない。
 そして、それぞれ顔も合せた事のない三人なので、それぞれの描いた物語の中に、それぞれが介入した事は一度もない。
 この日、初めてそれが実現した。
 重なり合う『描かれた世界』。
 当然そこには、大きな矛盾が生じる可能性がある。
 誰の描いた物語が、現実となるのか。
 そしてそれを、一体何者が判定するのか。
 全てはこの日。
 彩雲学園の入学式に委ねられる事になった。


「……」
 少女はメモ帳を閉じ、小さく息を吐く。
 そこに描かれていたのは、物語。
 自分が長らく温めていた、大事な、大事な物語。
 私は、いる。
 ここにいて、こんな事をしてる。
 最小限の自己主張。
 そう言う、小さなメッセージを込めた物語。
『インポッシブル・トリニティ』
 そう言うタイトルだ。
 それは皮肉であり、同時に切なる叫び。
 世界の中心でもない。
 この世の果てでもない。
 自分だけの、ミクロな場所。
 今はまだ、そこにある物語。
 その冒頭に今、敢えて目を通した理由は、あるようで、ないようで。
 自分自身にも良くわかっていない。
 少女は思う。
 少女故に思う。
 何をすべきだったのか。
 それは果たして、正しかったのか。
 ペン先をインクで浸す度に、自問自答は繰り返された。
 しかし、答えは全て、闇の中。
 一片の羽根があっても、飛ぶ事は出来ない。
 当然の事だ。
 少女は祈る。
 静かに祈る。
 この物語の、優しい結末を。
 そして、未来を。
 祈り終え、そして――――

 ゆっくりと、立ち上がった。




「……こんなトコか」
 思い出せる限りの、様々な『不自然』を回想し、忍は静かに息を吐いた。
 まず、初日。
 入学式の時点で、それは無数にあった。
 オカマ担任の登場。
 それ自体は、特異ではあっても、不自然ではない。
 オカマが教鞭を執る事など、今の時代には珍しくもないのだから。
 問題は――――その担任と、忍自身のやり取り。
 余りにも、攻撃的過ぎる。
 忍は本来、人見知りの激しい性格。
 それなのに、教師という立場にいるオカマを相手に、初対面でいきなり暴れると言うのは、寧ろ破天荒。
 不自然だ。
 自分自身が違和感を明確に覚えるのだから、間違いない。
 この『人見知りなのに、やけに攻撃的』と言う傾向は、高校入学以降の学校生活において、デフォルトとなっている。
 その為、現在はそれに引っ張られるように、やや能動的な行動も増えた。
 だが、元来の忍の性格ではない。
 恋人を作りたい、だからポジティブになりたい、と言う思いはあったが、だからと言って入学初日からの急な性格改変など無理だ。
 次に、刹那朱莉の存在。
 全てが不自然だ。
 創造上のヒロインには、こう言ったエキセントリックな性格の女子は良くいる。
 現実にも、もしかしたらいるかもしれない。
 或いは、そんなヒロインに憧れている可能性もある。
 ただ――――行動にまるで一貫性がない。
 彼女は、『この世界が描かれている』と主張していた。
 しかし、『描かれている』という前提があって、それに反逆するのなら、まずはこの行動が必須だ。

『描かれているストーリーを明確にする』

 その上で、自分が描いたストーリーで、その斜め上を行く。
 それなら自然だ。
 しかし刹那朱莉は、自分のストーリーの事ばかりで、『名もなき小説家』の描いたストーリーの具体的な検証を一切しなかった。
 頭の中にはあるのかもしれないが、自ら『主人公』と位置づけた相手に隠す理由はない。
 不自然だ。
 二日目以降も、不自然な点は多数ある。
 ヒロイン集め自体は、特殊な行動とは言え、おかしい訳ではない。
 問題なのは、その後の行動。
 何故、会社設立などと言う行動に打って出たのか。
 伏線はあった。
 常道から外れると言う意味で、指針の候補に挙げていた。
 だが、変わったヒロインを集めて、これから何をしようかと言う時に、会社を作ると言う発想は、不自然だ。
『サークル』に拘っている点も、明らかに不自然。
 発想が学生ではない。
 大学生、社会人のそれだ。
 それでも、例えば『会社の社長になるのが夢だったのよ』とでも一言説明していれば、十分に解消できる問題だった。
 だが、それすらない。
 刹那朱莉という人物には、常に『背景』が見えない。
 ただ変わった事をしようとしているだけで、動機付けがない。
 だから、必然的に不自然が多くなる。
 出水が登場し、サークルを会社にすると決まってからは、更にその傾向が如実になった。
 会社としての指針などは一切語られていない。
 目的も見えない。
 その曖昧さが『刹那朱莉らしさ』だとしたら、入社式や就任式の段取りを把握していた几帳面さは、明らかに不自然だ。
 そして、最も不自然なのは、とてもわかりやすい『唐突な変化』。
 口癖だ。
 忍の記憶の中では、生徒会にケンカを売る前日までは、『〜なの』を連呼していた。
 しかしそれ以降は、ごく普通の喋り方になっている。
 これは、どう考えても不自然だ。
 一応、『自分達が描かれている事に気付くイベント』の成立の為、と言う事で成立はする。
 当初、忍はこれを『名夕がその日のシナリオを描かなかった為、素の朱莉の喋り方になった』と思っていた。
 要は、そう忍に作中で思わせる為のギミック、と言う事だ。
 しかしながら、その為にわざわざメインヒロインの口癖を消去する等、普通はあり得ない。
 あるとすれば、そこに何らかの主張、メッセージが込められる場合のみ。
 つまり、描き手は、未熟ながらも、そう言うメッセージを込めた可能性がある。
 では――――そんな一連のストーリーを描く可能性のある人物は、誰か。
 浅い描写しかされていない朱莉は、消える。
 忍と絡んでいない面々も同様。
 残るは、二人。
 既に忍は一度、その一人をほぼ犯人扱いしていた。
 那由他名夕。
 問題は、その那由他がどうしてこの『忍拘束』と言う状況を描いたか、だ。
 それがわかれば、確定となる。
「もし、俺なら……」
 幸い、名夕も自分も、同じシナリオライター志望。
 自分に置き換えて考える事は、出来る。
 西日が徐々に消え行く中、忍は苦心しながら、シナリオを練った。
 この、どうにも不自然でツギハギだらけの物語。
 それが何処へ向かっているのか。
 着地点は一体、何なのか。
 それさえ一致すれば、その道程も自ずと見えてくる。
 普通に考えれば、初志貫徹こそがゴール。
 女顔の主人公が、恋人を作ると言うのが、それだ。
 その為に配置された主要登場人物は、四人。
 エキセントリックなメインヒロイン。
 色んな属性を付加されたセカンドヒロイン。
 中学生、失語症と言う、他とは違う特性を持つサードヒロイン。
 そして、同じく女顔の、ミステリアスな介入者――――
「……ん?」
 そこで忍は、二つの不自然な点を新たに見つけた。
 一つは、女顔。
 二人もそんな特徴の男がいると言うのは、偶然としてあり得ない訳ではないが、物語として考えた場合、不自然。
 3Dブレーカー(リアライザー)の特性上、演者はキャラクターの性質に近しい人物が選ばれる。
 例えば、『シナリオライター志望』と言う性質は、後付けでエピソードでも作れば、どうにでもなる。
『高校入学前に偶々読んだ本に感銘を受けた』とでもすれば良い。
 だが、顔は身体的特徴なので、どうにもならない。
 まして、この物語は、『女顔の主人公が、コンプレックスを払拭する』と言う骨子がある。
 忍が選ばれたのは、間違いなく女顔という特性故だ。
 それは――――果たして偶然なのか?
 そして、もう一つの不自然。
【主な登場人物】だ。
 刹那朱莉が先に掲げたこのサークル。
 部員は、五名。
 忍、朱莉、名夕、絵空――――そして、もう一人。
 しかしその一人は、忍の見ている限り、殆ど発言もしなければ、目立った行動も起こしていない。
 そこにはいる。
 だが、まるでいないかのように、ずっと黙って、存在を消していた。
 忍がその人物の声を聞いたのは、たった一言。

『どうも』

【主な登場人物】の所信表明を朱莉が行う直前、見知らぬ男子がそう告げた。
 彼もまた、【主な登場人物】の一人。
 その筈が――――まるで物語に関わってこない。
 何故、彼は何もしないのか。
 そもそも、何故彼はそこにいたのか。
 いる必要があったのか。
「まさか……」
 ふと、浮かぶ一つの仮説。
 この物語を描いている人物は――――
「遠藤さん!」
 不意に、忍を呼ぶ大きな声が、倉庫の向こうから聞こえてくる。
 扉は閉まっているらしい。
 それすらも確認していなかった忍は、思わず自嘲の笑みを浮かべた。
 そして、そのままの顔で呼ぶ声に応える。
「ここにいるよ。俺はここにいる」
 その声に反応し、扉の向こうで鍵を開ける音が生まれた。
 そして、次の瞬間、横開きの扉が開かれる。
 既に光は薄く、後光が射す事もない。
 その人物は、はっきりと忍の目に映った。
「良かった。ここにいたのか」
「……やっぱりな」
「え?」
 そこに映っている――――見覚えのある男子は、驚いた様子で顔を曇らせていた。


 午前〇時を回った瞬間、その国では日付が変わる。
 同時に、3Dブレーカーによって描かれたストーリーは終わり、支配は解かれる。
 もう何度となく繰り返してきた行為。
 尤も――――今、校門の前で背中を付けて待っている二人の女子の中の一人、那由他名夕の場合は、その名称は『リアライザー』ではあったが。
「ほい」
 その名夕に対し、忍は自動販売機で買った缶ジュースを差し出す。
 だが、奢りであるにも拘らず、名夕の目はジトっていた。
「……何だよ。リクエスト通り、野菜ジュースだぞ」
「そうじゃなくて。私を疑ってたって、ホントですか?」
 忍の顔が、ぷいっとそっぽを向く。
「私、ちゃんと言いましたよね。黒幕っぽくしてたのに、実は違ってて恥ずかしい……って。そこまで恥部晒け出して、それでも疑われるって……」
「いやー、ゴメンすまん悪いゴメン」
「そんなテキトーに謝られても、許しませんよ。私がここ数日、どれだけ苦しい夜を送ったか……」
 ジト目が徐々に邪眼に以降する中、忍はひたすらヘコヘコと頭を下げていた。
 そんな二人のやり取りを、もう一人の女子――――億川絵空は、沈痛な面持ちで眺めている。
「あっ、ゴメン。はい、億川にはコーヒー。って言うか、コーヒーでホントに良かったのか?」
「はい。好物なので」
 晴れない表情のまま、それを受け取る。
 その様子を名夕は不思議そうに眺めていた。
「本当に話せるようになったんですね。良かったです」
「あ、ありがとうございます……」
 割とそこそこの時間を共にしてきた先輩と後輩だが、忍が見ている限り、殆ど会話らしい会話は交わされていなかった。
 それも、その筈。
 意図的にそう言うシナリオにしていたのだから。
「それで……あの、ホントに彼女が?」
「ああ。俺とお前に作中で『リアライザー』を持たせて、自分のストーリー通りに動かしていた、『世界を描いている人物』ってのは、億川の事だ」
 忍の紹介を受け、絵空は名夕の方に身体を向けて、深々と頭を下げた。
「すいませんでした。貴女の人生を弄ぶような事をしてしまいました」
「いえ、あの、その……」
「後輩にまで人見知りを発揮するなよ」
「そうは言っても……あの、大丈夫ですよ。私的には、貴重な体験をさせて貰ったと言うか、今後の参考にさせて貰うと言うか、そう言う感じだから」
「すいませんでした……」
 それでも、申し訳なさそうに絵空はもう一度頭を下げる。
「謝るのはもう良いから、聞かせてくれよ。億川の描いた物語の顛末を」
「私も興味あります。一応、登場人物の一人ですし」
 小さく手を挙げる名夕をチラっと眺めた後、絵空はコクリと頷いた。


 絵空の描いた物語『インポッシブル・トリニティ』は、ちょっと変わった学園青春ストーリー。
 主人公の高崎久遠、ヒロインの月森由羽と柊楓は、三人とも描いた事が現実となる羽根ペン、『リアライザー』を持っていた。
 その三人、三人とも高校入学と同時に自分を変えたいと願っていた。
 当然、それぞれが理想とする高校生活を事前に描く。
 リアライザーによって描かれた物語は、条件面で最も近い人物を、作中の登場人物として『支配』し、ストーリー通りに動かす。
 問題は、この『支配制度』だ。
 三人が描いた物語は、それぞれ他の二人の登場人物と被っていた。
 例えば、久遠が描いたのは、『自分が恋人を作って、甘い学園生活を送る』と言うもの。
 そのヒロインとして抜擢したのが、『風変わりで明るい女の子』と、『内気で物静かな女の子』。
 一方、由羽は『自分は何者かに描かれていて、それを脱却する為に風変わりな日常を送ろうと奔走する』物語を描いていた。
 その登場人物の中には、『狂言回し役の男子』と『ロリ顔でひんぬーの女子』がいた。
 そして楓の物語は、『人見知りな少女が、自分と良く似た男子と結ばれるラブストーリー』。
 登場するのは、『シナリオライター志望の男子』と、『アンチテーゼポジションの明るく破天荒なサブヒロイン』。
 結果――――それぞれのリアライザーは、他の持ち主二人を登場人物に選定。
 だが、干渉し合う三つのシナリオがそれぞれ矛盾なく進行する事は不可能。
 結果、リアライザーは故障してしまう。
 自分のシナリオ通りにいかず、焦る久遠と楓。
 一方、由羽はそんな事を臆面にも出さず、エキセントリックな行動に突き進む。
 だが、着実にリアライザーの故障は進行していた。
 ある日、シナリオとは無関係に、登場人物が奇行に走る『バグ』が発生する。
 生徒会の暴走により、拉致される楓。
 自ら『ヤンデレ』化し、突然主人公を襲い出す由羽。
 そして楓もまた、閉じ込められた事で過去のトラウマ(子供の頃、誘拐された経験ありという設定)によって、心の闇を色濃くしていった――――


「だ、だから私、やけに心が荒んでたんですね、今日……」
 たはー、と溜息を落とす名夕の隣で、忍はオレンジジュースを飲み干し、空の缶を額に当てた。
「俺を気絶させたのは、由羽……つまり、刹那か」
「そうです」
 高崎久遠は、忍。
 月森由羽は、朱莉。
 柊楓は、名夕。
 そして――――
「億川さんは? 貴女も、作中に登場してるんですよね?」
「はい。私はご存じの通り、脇役です」
『インポッシブル・トリニティ』というタイトルの通り、本作の主要人物は、上記の三名。
 絵空は蚊帳の外という事になる。
「ちなみに、作中での名前は?」
「……それは黙秘で」
「隠すような事か? いや、別に無理して話さなくても良いけどさ」
 苦笑する忍に、絵空は身を小さくして、恥ずかしがっていた。
「でも、脇役って言う割には、今日は結構目立ってたよな。俺……久遠目線では。って言うか、堂園は3Dブレーカーの支配にないんだから、ストーリーには関与しないよな。あれ、素で襲……やったって事か?」
「そ、それは……」
 ここも沈黙。
「やったって、何を?」
「いや何でも。お前には関係ない事」
「ふーん……そうやって仲間外れにするんだ……」
 そこには、ダークサイドを目で表現するヒロインがいた。
「怖えーよ! お前、日中の嘘トラウマ引きずってるだろ!」
「いいですよーだ。この疎外感を今後の作品に活かしてやるもん」
「鬱モノはやめとけって。描いててホントに鬱になるぞ」
 再び口論する二人を、絵空は沈んだ顔で眺める。
 その顔は、何処か――――年齢不相応な憂いを帯びていた。
「あ、そういえば……億川さん」
「は、はい。なんでしょうか」
「結局、このお話の結末って、どうなるんですか? この人が刹那さんに襲われたトコロまでは知ってるんですけど」
 その質問に、絵空の顔が小さく引きつる。
「え、えっと……それは、その」
「それに関してだけど、俺はなんとなく想像付いてるんだよな」
「あ、そうなんだ。なら教えて下さいよ」
 名夕のリクエストに、忍は思案顔を作り、視線を絵空へと向ける。
 その顔は――――明らかに困っていた。
 忍の心の中に、ふつふつと悪戯心が芽生える。
 ナイフで襲った場面は、彼女の将来に影響しかねない問題なので、口外する事は躊躇われたが――――
「あくまで予想だけど、アレだろ。ボーイズラブENDだろ、これ」
 その件に関しては、色々振り回された憂さ晴らしも兼ね、暴露する事にした。
「………………………………………………………………ぼ?」
 結果、名夕の思考が停止した。
 無理もない話ではある。
 これまでの流れからは、想像も出来ないような超展開だ。
 だが、忍はほぼ確信していた。
「入学当時の久遠……要するに俺なんだけど、確かに女子に興味持ってたんだ。でも、中盤辺りからはなんか淡泊っつーか、『彼女作りたい』って言うのが全然見えなくなったっつーか、あんまりそっち方面の感情が湧かなかったんだよな」
「そ、それがどうして、ぼ……ぼーいずらぶなんて事に?」
「最初に引っ掛かったのは、女顔の俺が敢えて主人公に選ばれた事。それって偶然なのかな? ってのが、引っ掛かった」
 忍の問いに、絵空は明確な返事はしなかった。
「で。次に、【主な登場人物】の、俺以外の男子部員」
「あ、あの人……私、一言も話した事ない」
「だろ? 俺だってそうだ。それって流石に妙だと思わないか? 幾らなんでも、一言くらいは話すだろ」
「確かに……」
 何十人もいる部員やクラスメートなら、そう言う事は普通にあり得る。
 だが、五人しかいない部員の中で、そこに毎度いるのに、殆ど喋らないと言うのは、あり得ない。
 いや――――現実にはあり得るかもしれない。
 しかし、創作物の中では、それは絶対にあり得ない。
 言葉が話せなかった絵空ですら、それなりに絡んでいると言うのに。
「あ、それってアレじゃないですか? 主人公の親友ポジジションだけど、別にいなくても良いって言うキャラ」
「それなら尚更、俺とは会話するだろ」
「んくっ」
 二の句が繋げない名夕に、忍は畳みかける。
「そいつの存在を改めて考えて……と言うか、3Dブレーカーの支配下にない今日の俺だからこそ考えられたんだろうけど、そうすると、一つの可能性が浮上した訳だ。『あいつってもしかして、今後重要キャラになるんじゃないか?』って」
 それは、シナリオライター志望だからこその発想だった。
 現実には幾らでもいる、『ぼっち』キャラ。
 無論、それは創作物にも同様に多数存在する。
 だが、創作物上の『ぼっち』は、『ぼっち』である事を売りにしたキャラ。
 若しくは、使いどころがなくなって、徐々に空気化していくキャラ。
 後者の場合は、最初は十分な出番が与えられる。
 が――――『彼』は最初からいないも同然の登場人物だった。
 なら、そこには作者の明確な意図がある。
 それなら、その意図とは何なのか。
「なんか今日、妙に疎外感って言うか、女性陣が周りから引いていく雰囲気を感じたんだよな。これまでは団体行動が主だったのに、初っ端から刹那とお前はいないし。億川も保健室行きになっちゃったし」
「……」
 絵空は沈黙のまま。
 忍はその様子を暫し眺めた後、話を続けた。
「確信したのは、俺を助けに来たのがあの男子だったってトコ。何で俺、あんな場面で監禁される必要があんのか……ってずっと考えてたんだけど、要はあの場面を描きたかったのかな、と」
 それまで一切物語に関わって来なかった男子が、主人公を助ける。
 これだけなら、余りに唐突だ。
 だが――――もし、それまでに『彼視点の物語』が別途進行してたら?
 或いは、導入が挟まれていたら?
 忍には知りようのない、並行して描かれている『もう一つの物語』が本編と交わる、待ってましたの瞬間だ。
 ある意味、その場面こそが、本編の始まりなのかもしれない。 
「これは蛇足かもしれないけど……ウチのクラスの担任のオカマ。あれも、男に目覚めた主人公の相談相手として配置したキャラ、じゃないのか?」
「……遠藤さんの担任、オカマなんですか?」
 微妙に引く名夕を尻目に、忍は至って真面目に問い掛ける。
「結構、良い線行ってると思うんだけど……どうだ?」
 もし外れてたら、余りにも小っ恥ずかしい推論。
 忍の額に、汗が滲む。
 結果は――――
「そう……です」
 ポツリと、小さい声で呟かれた。
「ほ、ホントにボーイズラブENDなんですか?」
「はい」
 驚きを隠せない名夕に対し、絵空は静かに結末を語った。
 由羽も、楓も壊れてしまった中、久遠は恐怖に晒される。
 リアライザーに異常が来している事は確実。
 次は、自分が壊れる番。
 その足音に怯える毎日を送る中、心の支えとなったのは、体育倉庫からの救出以降、急速に親しくなった、箕輪龍二だった。
 時に励まし、時に覇気のない久遠を怒鳴りつける彼に、久遠は次第に友情以上のものを感じていく。
 女性のような容姿の男子と、少し野性味のある男子。
 見た目も相性バッチリ。
 そこに芽生えるのは、愛。
 性別を超えた、愛。
 純粋な――――
「ストップ。もういいです」
「え。でも、まだ序盤で……」
「いいです。もうホントいいですから。促しといてアレだけど、勘弁して」
 忍は強制終了を執行した。
「驚きました。億川さんに、そんな趣味があるなんて」
 一方、名夕はまだ目を丸くしている。
「軽蔑……しますよね」
「とんでもない!」
 その目が、爛々と光り出した。
「女子なら誰もが通る道です!」
「嘘を教えるな嘘を」
 呆れる忍を無視し、名夕はいかにBLが女子にとって特異ではないかを、切々と語っていた。
 それは、彼女なりの優しさ――――だと良いなあ、と思いつつ、主人公は静かに夜空を仰ぐ。
 満天には程遠いが、そこには確かに、星空があった。
 いつでも見る事の出来る、なんて事のない、平凡な星空。
 にも拘らず、忍がそれを目にしたのは、随分と久しぶりの事だった。
「リアライザー。描いた事が現実になる羽根ペン……か」
 そんな旧友に向かって、小さく呟く。
「夢だね、そんなの」
 そして、もっと小さく笑った。


 

                                    5th chapter  "a castle in the air"

                                        fin.




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