夢とか、希望とか、そう言うモノを前面に出す事が恥ずかしいとさえ言われる時代。
 それでも、人は誰もが『こうなりたい』と言う幻影を心に抱くもの。
 忍もまた、例外ではない。
 子供の頃に読んだ、一冊の本。
 そのタイトルは【祈りのセシル】。
 その本には、沢山の挫折や絶望、そして夢が詰まっていた。
 主人公セシルは常に苦難に遭い、苦境に立たされ、時に裏切られる。
 それでも人を信じ、仲間を信じ、希望を信じ……そして、かけがえのない友を得て、世界の理を知る。
 そんな、ありふれた物語。
 だが、当時の忍には、その一冊はまさに『パンドラの箱』だった。
【祈りのセシル】は、多くの犠牲者を出しながらも、稀代の悪魔使いを見事打ち倒し、世界に平和をもたらした所で無事完結となった。
 全八巻という、長くも短くもない、美しいフィニッシュ。
 アニメ化もされた人気作だった。
 だが、忍の頭の中では、その物語は完結しなかった。
 悪魔使いが消えたその世界で、セシルは別の冒険に旅立っており、新たな苦難に身を焦がしている。
 偶に死んだ仲間が『実は生きてたんだ!』とひょっこり現れたりしながら。
 そんな事を、小学生高学年になっても、中学生になっても続けていたお陰で、親友なんて一人も出来はしなかったが――――忍の青春時代は、充実したモノになった。
 そしてその想像の果てに残ったのは――――希望。『こう言う物語を、自分も描きたい』と言う希望だった。
 そして、今。
「……ダメだ」
 果敢にチャレンジし続けている忍は、その希望の欠片とも言えるテキストファイルを消し、机に突っ伏した。
『応募作03』の容量は、この日も一向に増えず。
 全く気が乗らない。
 身が入らない。
 自分が、誰かに描かれている――――その感覚は、かなり特殊だ。
 自分の行動や思考全てが、実は全て他人のモノだった……と言うのは、かなりの苦行だ。
 だが、こうも考えられる。
『まるで物語の登場人物になったような気分』と。
 これは何気に、悪い気はしない。
 寧ろ貴重な体験だ。
 忍の、その両方を内包した心は、揺れに揺れていた。
 とても物語を描く気分にはなれない。
 何より、そう言う逃げ道があると、人は能動的に動けない。
 それでも諦めずに、なんとかしようと再びファイルを開いたり、閉じたり。
 その結果、待っているのは――――寝不足。
「忍ちゃん! 遅刻ぅチョー遅刻ぅ! ンもう、罰として今日ずっとエア椅子ーッ」
 結果、空気椅子で授業を受けるハメになった。


 そんなこんなありつつ――――放課後。
「……足痛い」
「こう言うちっちゃい不幸とちっちゃい目立ちポイントも、主人公の必須イベントなの。エラいエラい」
 疲労困憊の忍の前に、今日も朱莉が現れた。
 流石に、こう連続して女子が男子に近づくとなると、クラス中から視線が注がれる。
 様々な呟きが拡散する中、忍の顔からは脂汗が大量に流れ落ちてきた。
「と言う訳で、今日も視聴覚室へGO。あ、そろそろ部の名前も決めないとね。部室の名前も決まらないし。今日はやる事いっぱいよ!」
 なし崩し的に、部室となる予定の視聴覚室に舞台は映る。
 その入口には、昨日忍が作成した回収ボックスが置かれていた。
「さーて、どれくらい集まって……」
 楽しげに中身をひっくり返した朱莉の顔が、一瞬で強張る。
 出てきたアンケート用紙は――――十枚にも届かなかった。
 ピキピキと言う、何処から聞こえて来るのか良くわからない音が、室内に響く。
「いや、こんな怪しげなアンケートに律儀に応えてくれる人間が数名いるだけでも、かなりマシな結果だと思うんだけど」
「何言ってるの!? 深夜なら万々歳どころか表彰モノの数字だけど、夕方でこれじゃダメなの!」
「お前こそ何言ってるの」 
「アンタの作ったボックスが入れ難いんじゃないの? その所為で、みんな持って来たは良いけど躊躇したんじゃないの? 白ポストみたいに」
「いつ俺が有害図書の受け皿を作った!」
 ごく普通のダンボールをくり貫いて、マジックで『ご協力ありがとうございます』って書いただけのそれに、朱莉は蹴りを入れた。
 しかし、下着はギリギリの所で見えない。
 まるで、何かに護られているかのように。
「ったく……取り敢えず、ボックスは作り直しね。もっとキャッチーに。このアンケートは集計しときましょ」
 落胆の色を隠しもせず、朱莉は薄いアンケート用紙の束を確認し始めた。
 そして、直ぐに結果発表――――
「一番の該当者で、一六八項目中、五四項目。五割以下のシンクロ率じゃ、不適合と言わざるを得ないじゃないの」
「そんなモンだろ」
 アンケートの中には、『普遍的なヒロイン像』要素を排除するチェック項目が多数並んでいるが、そもそもその『ヒロイン像』自体、ある程度はリアリティを考え、現実的な設定が組み込まれている。
 それを悉く外した女子など、そういるモノではない。
「そんな……私の計画が……これじゃ、描かれた物語を演じ続けるだけの人生に……」
 早くも挫折したらしき朱莉は、アンケート用紙の上に突っ伏してしまった。
 一方、忍もアンケート用紙の名前の欄を全て確認し、同様に突っ伏す。
 そこに『那由他名夕』と言う記載はなかった。
 世の中そんなに甘くない。
 二人は、そんなありふれたフレーズを思いっきり痛感していた。
「……なあ」
 一足早く頭を上げた忍は、頬杖を付きつつ、声を掛ける。
「何なの」
「いや、あれだけ自信満々だった割に、えらく簡単に凹むなと思って。てっきり、今日がダメなら明日がある、って感じでケロッとするもんだと」
 そんな忍に軽口に、朱莉が顔を上げる。
 やけに覇気がない。
 横ポニーも心なしか、通常より垂れ下がっていた。
「勝負かけたの。昨日と今日、高校生活最初の二日間に」
 それは――――忍が心の中で何度も呟いたフレーズと似た言葉。
 肉声、しかも女声となって聞こえて来た事に、忍は驚きを禁じ得なかった。
「アンタ、私の事どう思ってる?」
「……は?」
 畳み掛けるように、今度は奇襲。
「いや、そりゃ、まあ……」
「変人、気違い、頭がおかしい。そんなトコでしょ?」
「へ?」
 女性として、と言う事ではなかった事に気付き、忍は固まった。
「……どうして、アンタが恥ずかしがってるの」
「気にしないで続けて下さい」
 忍は、軽い赤面症だった。
 女顔でこれだから、更に男受けは良くなってしまう。
 中学時代、余りにそれが嫌で、本気で坊主になろうと考えたりもした――――が、髪の長さで逃げるのは癪と言う感情もあり、結局は現在の髪型に留まっている。
「この世界は、誰かに描かれた物語に過ぎない……私が最初にそう思ったのは、小学三年の時。ずっと一人で本を読んでる生活を繰り返してる内に、突然。胡蝶の夢を知ったのは、その後なの」
「……普通、そう思ったとしても、否定しそうなもんだけどな。確信なんてないだろ?」
 誰もが、ぶつかる壁。
 突拍子もない発想をしても、それはないと、誰が言うでもなく、自分の中で却下する。
 忍も、ずっとそうだった。
 だから、忍の描く小説は全部、無難な物語。
 得意と自負してるファンタジーにしても、実際には特に目立った特徴はない。
 自己否定を繰り返し、勝手に丸くなる生物。
 それが、遠藤忍と言う人間。
 それが――――今の殆どの若者でもある。
 朱莉はその壁を乗り越えた。
 だが、越えたからこそ、生じる悩みもある。
「結構、色んな人に話したの。同級生、先生、親、従兄妹……誰一人、真剣には聞いてくれなかったけど。だから、最初の一年で悟ったの。これは、他人に話しても意味がないコトなのかな、って。だから、もう話すのを止めたの」
「なら、益々追い込まれそうなもんだけど」
「追い込まれたの。病気になるまで」
 ――――それは。
 気軽に聞いていた忍にとって、まるで背後から金属バットか何かで殴られたような、そんな不意打ちの告白だった。
「……病気って、精神的な?」
「当然。毎日眩暈がしたし、吐き気もしたし、満足に立てなかったし、もう最悪だったの」
 そんな事を、こんなにあっけらかんと話せるものなのか――――寒気すら覚え、忍は思わず肌を泡立たせた。
 実は、忍もまた、自律神経を少し乱してる。
 とは言え、それは大した程度ではなく、ふとした時に眩暈がしたり、時々やたら首が凝る程度。
 一方、朱莉の『立てないくらい』と言うのは、相当な重症だ。
「でも、直ったんだよな?」
「ええ。話すのを止めるのを止めたら、ね」
 横ポニーが揺れる。
 その隣にある女子の顔は、何処か達観していた。
 自己抑制によるストレス――――それ自体は、良くあるもの。
 それで、精神的に病むと言うのも、良くある事。
 結果として、その治療法、考え方の転換は間違ってない。
 ただ――――それは『幼少期の自分の突飛な思いつきを、大人になっても肯定し続けなければならない』って言う縛りでもある。
 忍は、ふと理解した。
 お前は、壁を越えてる訳じゃないんだな――――と。
 どこか遠くに、電波のように精神を飛ばしている人間じゃなく、寧ろ、着地出来ずにずっと宙を漂っている、大きくなれない小鳥――――そう言う人間なのだと。
「私は、描かれた人生を変えてみせる。凡庸な小説家の描いた脚本なんて、私が絶対に描き換えてみせる。ずっとそう思って、ずっと構想を練って……でも、小学校にも、中学校にも、私の理想とする、私と一緒に物語を変えてくれるようなキャラクターはいなかった」
「で、高校で勝負をかけた――――か」
「大学では、無理だと思うの」
 その頃には、もう常識が揺り動かせないくらい固まってる。
 高校がリミット。
 寧ろ、中学でそう言う連中と巡り会えなかったのが致命的だったのかもしれない。
「私が奇人変人って噂を立てられるまでが勝負、って思ってたんだけど……負けちゃったみたい。そう甘くない、ってコトね。残念」
 朱莉は、色々わかってる。
 本当は、この世界は誰にも描かれてはいないと。
 自分の言う『理想のキャラクター』ってのも、既存の作品を繋ぎ合わせただけの単なる記号の集合体だって事も――――忍は、そう理解した。
 不恰好でも、水を掻き続けないと、心は沈んでしまう。
 だから、藻掻く。
 足掻く。
 バカをやって。
 入学初日にオカマの担任と揉めるクラスメートに対し、何かしらの非日常を感じて。
 そこに――――救いを求めて。
 忍には、この感覚が理解できた。
 同時に、自分に少し似ているとも感じた。
 忍の場合は、良く偏頭痛がした。
 気圧が低い日、湿気が高い日は、鈍痛が襲って来た。
 けれど、何かを描いている時は、それが消えた。
 その時だけは、何も考えないで、自由でいられる気がした。
 だから。
 だからこそ――――
「俺は……」
「って言う、物語を考えたの」
「……は?」
 感情移入しまくった挙句にスカされると言う、残念な結果が生まれたのでした。
「どう思う? これで何人か引っかかってくれると良いんだけど」
「……どうしたの? じゃねぇよ! 何なんだよ! 今までのクダリは!」
「だから、少しでも理想に近い女子を探す為の手段パート2。現実的に考えて、適合者が見つかったとしても、何かしらの理由がないと、私の話を鵜呑みにしないと思うの。だから、感動路線。感動路線はどんなジャンルでも、どんな破綻や矛盾があっても、大体上手く丸め込めるの」
 忍は愕然とした。
 人生で、ここまで愕然とした経験はない。
 それくらい、愕然とした。
「あの……アンケート、持ってきました」
 だから、お目当ての女子――――那由他名夕がおずおずと入室して来ても、喜べる心境になかった。
 得てして、タイミングと言うのは重要なものだ。
「あら、ありがとう。一年生?」
「はい。那由他名夕と言います」
「採用! セカンドヒロインおめでとう!」
 今ここに、二人目のヒロインが誕生した。
「早っ! えっ、早っ! 名前聞いただけで即決かよ!」
「だって、見てよこの字。こんな名前、もう既にヒロインじゃないの! それにホラ! チェックがいっぱい! ツインテールでもないし、金髪でもないし!」
「そりゃ、現実でそう言う髪の奴なんて見たコトないけどさ……」
 頭を抱える忍を無視し、朱莉はにまーっと笑み、チョロチョロ動き回って名夕を値踏みし始めた。
「ちょっと童顔だけど、ま、許容範囲。ジュブナイルなお話のヒロインなんて、大体童顔だものね」
「拘れよ、そこは……」
「私が良いって言ったら良いの! さて、なゆなゆ。貴女にはこれから、やって貰いたいコトがあるの」
「……?」
 早くも愛称まで決まってしまった、なゆなゆこと名夕は、突然の事に、ただただ狼狽えていた。
「貴方には、どこぞの三流小説家が思い浮かべるヒロイン像を全部覆す、アンチヒロイン的なヒロインとして活動して貰うの。大丈夫、みんな味方だから。貴女は覇権を握る子。私の元で伸び伸びやりなさい!」
「あの……一体、何がどう言う」
 その視線は、自然と忍の方へと向く。
 当然――――それは、助けて欲しいと言うメッセージ。
 ヒロインが主人公の好感度をアップさせる、典型的なシチュエーションだ。
「刹那君、取り敢えず、落ち着いたらどうだい。彼女、怖がっているじゃないか」
 忍は、乗った。
 このビッグウェーブに。
「……何キャラのつもり?」
「キャラとか、訳のわからない事を言うんじゃないよ。ゴメンね、えっと……那由他さん。彼女、君が余りに自分の理想と一致していたから、舞い上がっているんだ」
 本当に何のキャラなのか良くわからない物言いで、忍は取り敢えず場を収める事に成功した。
 そして説明。
 先程、朱莉が延々と宣った嘘設定も踏まえ、『この世界は誰かに描かれている』、『それを超える物語を自分たちで作る』、『その登場人物として迎え入れたい』と言う主旨を簡潔に伝えた。
 結果――――
「感銘を受けました」
 だ、そうな。
「良い感性してるじゃない。改めて、私達は貴女をセカンドヒロインとして迎え入れるの。おめでとう」
 名夕は、その意味不明な祝福に、薄く微笑んだ。
 余りに圧倒的な順応性。
 忍はそんな恋人候補に、若干引き気味に目を合わせる。
「あの……もしかして、『なんか良くわかんないから、適当に話合わせて、隙を見て逃げよう』とか思ってるんじゃ……ないよね?」
「いえ。正直に言いますと、アンケートに答えている時点で、ちょっと好奇心を擽られていました」
「そ、そうなんだ……」
 受け答えはしっかりしている。
 顔は可愛い。
 しかし――――感性は明らかに異常。
 そんな女子を恋人にする自信は、忍にはなかった。
 とは言え、完全に候補から消してしまう勇気もなく。
 結果、『保留』の欄に彼女の名前は移った。
 ちなみに、そこには朱莉の名前もある。
 男なんて、そんなもんだ。
「それじゃ早速、次の……」
「ちょっと待て。その前に、一つ聞きたい事がある」
「ないの」
「人の行動を勝手にひっくり返すな! お前の『この世界が描かれている』説への疑問だよ」
 話の腰を折られて、露骨に不機嫌な顔になった朱莉だが――――その疑問に対しては『答えたい』願望が強いらしく、口をニッと横へ広げた。
「百歩譲って、その説を受け入れるとして……どうやって描いてるってんだ? そもそも、一人の小説家とやらが全部を描いてるのか? 流石に無茶過ぎるだろ、それ」
 勿論、疑問はコレだけじゃない。
 でも、取り敢えず一番聞きたいのは、コレだ。
 なにせ、この世には七〇億人もの人間がいる。
 その人生を全部描くとしたら、そりゃ当然、神様くらいの万能な力が絶対要る。
 名もなき一人の小説家さんに、どうこう出来る問題じゃない。
「そうね。いい機会だから、なゆなゆも聞いておきなさい。私のカンペキな自論を」
 自信タップリに、朱莉はコンプレックスの膨らみを張る。
「可能性は二つあるの。まず、一人の何者かが、途方もない年月をかけて描き上げた場合。もう一つは、無数の名もなき小説家が、分担で描いている場合。日本的発想だと、後者が妥当なのかしら」
「それってつまり……神様ってコトじゃん」
「神様って言うのは、人間が作った偶像なの。本当にいるかどうかは、知ったこっちゃないけど、少なくとも私達が子供の頃から目や耳で触れてきた神様は、あくまでも発想の産物なの。私の言う『小説家』は、別に人間を作った訳でも、世界を作った訳でもないの。作ったのは、ストーリー。それも劣悪な、ね」
 いつの間にか、朱莉は人差し指を立てた右手を頬に寄せていた。
「と言っても、余り神様について自論を唱えると、色々な所から苦情が来るから、この辺にしとくの」
「世知辛い世の中だな……ま、聞きたい事はなんとなくわかった」
 納得している訳ではないが、忍は一つ溜飲を下げた。
 そして同時に、目をキラキラさせて朱莉の話を聞いている名夕に気付く。
 現実は往々にしてイタい。
「それじゃ、今日はなゆなゆ加入記念パーティーを開きましょ。主人公、ジュース買ってきなさい」
「主人公って、お前の物語の中ではパシリの事を指すのか……?」
 首を捻りつつも、忍は売店へと走った。
 そして――――フルーツ系のジュースとコーヒー牛乳を購入し、帰る途中。
「廊下を走るヤツはクズだ!」
「クズだにゃーっ!」
「学生手帳持ち歩かないヤツはチリダニだ!」
「チリダニだにゃーっ!」
 デモ行進でもしているかのような、威勢のいい掛け声が廊下に響き渡り、思わず瞼を半分落とす。
 入学したての忍に、この四月のマーチが何の意味を持っているのか、どんな連中がやっているのかを知る由もないが、一つ言える事は――――
「この学校、大丈夫か……?」
 自分がこれから帰る場所にいる女子二名も含め、色々心配せざるを得ないと言う事だった。
 そんな懸念を抱えつつ、視聴覚室へと戻ると――――
「うんうん。やっぱりコレが一番ね。時代に迎合する髪型より、時代を作る髪型。なゆなゆは今、時代のメインストリームに立ったの」
 机の上に、幾つものウィッグが並んでいた。
 かなり不気味な光景に眼球周辺の筋肉を引きつらせつつ、忍はそれを集めたと思しき当事者に目を向ける。
「コレ……何なんだよ」
「遅かったのね。こっちはもう第二フェーズに移行中よ」
 朱莉は不敵に微笑みつつ、名夕の頭に一つのウィッグを乗せていた。
 その髪型は――――お団子頭と呼ばれる、シニヨンだ。
「なゆなゆには、今後この髪型で行って貰う事にしたの」
「え……? 髪型、変えさせるのか?」
「当然でしょう? 髪型は、ヒロインを表す記号の代表格。中には、髪型だけでキャラを書き分けてる漫画家やイラストレーターもいるくらいなの。髪型は個性の入門編なの」
 要らぬ敵を作りそうな朱莉の発言に、忍は引きつつも一定の感銘を覚えた。
 髪型は、個性の入門編。
 確かにそうだ。
 だが、自分の創作物の中の登場人物の中には、どんな髪型をしているのかすら描写していないキャラもいる――――そんな反省が脳裏を渦巻く。
「それはわかったけど……なんでお団子? セカンドヒロインの髪型じゃないだろ?」
「フフン、さすが主人公。良いツッコミよ。そう言う指摘が欲しかったの」
 心底解説したいと言う感情を隠す事なく、朱莉は人差し指をピン、と立てた。
「もう何度も言ってるように、私が目指すのは『凡庸な脚本を越える物語』。その為には、ヒロインがありきたりの髪型をしてちゃダメなの。でも、奇抜なだけでもダメなの。例えば、アフロとか文金高島田とか、そう言う狙い過ぎなのは、ヒロインとして成立しないの。王道は外して、それでいて斬新すぎない、ギリギリのラインを、私は模索したの」
 お団子頭と言うと、大抵は『2〜3番手のヒロインの友達』くらい、かなり本筋から外れた脇役がする髪型だ。
 若しくは、中華娘。
 そこを敢えてセカンドヒロインの髪型にするのは、確かにギリギリ。
 ただ――――
「でも、那由他さんはそれで良いの……? そんな、いきなり今日知り合った女から命じられて、髪型変えるなんて……」
「あ……はい。刹那さんは、私の意志も尊重してくれていますので。文金高島田は却下してくれましたし」
「本命だったのかよ! さっき悪い例に入れてたじゃん!」
 暴露された事が不本意だったのか、朱莉はこっそり舌打ちしていた。
「って言うか……お前のその蝶々結びポニーも、そのギリギリ狙いの髪型ってコトなのか?」
「当然。どう? 自分では会心のアイデアなんだけど」
 忍は黙秘権を行使した。
「……コホン。取り敢えず、なゆなゆの髪型はコレに決定。次は……属性ね。魔法少女とか、未来人とか、実は男とか、そう言うのはナシなの」
「元々不可能なのばっかじゃねーか。つーか、属性ってそう言うモンだったか?」
 そんな忍の呟きは無視され、朱莉は一人うーんうーんと唸り続けた。
 一方――――玩具にされている那由他は、そんな事など気にも留めない様子で、朱莉の発言をワクワクしながら待っている。
「あの……一つ、案を出しても良いですか?」
 ついには、自ら提言し始めた。
 ノリノリだ。
『描かれている世界』と言う朱莉の狂った主張を、本気で受け入れている。
 忍はその様子を、思いっきり嘆息したい心持ちで眺めていた。
「勿論。最終決定は私がするけど、アイデアはドンドン出してくれて良いの。で、何?」
「殺し屋……とか」
 瞬間、視聴覚室の空気が凍った。
「そ、それはちょっと、流石に……審議が必要なの」
 初めて狼狽した姿を見せる朱莉にも驚いたものの、それより何より、唐突に物騒な設定を自ら切り出した那由他にドン引きしつつ、忍は明日以降の身の振り方を本気で考え始めた。
「あ、すいません……冗談を、言いました」
「じょ、冗談? そ、そりゃそうだよな。殺し屋は、流石になあ」
「そ、そうよね。殺し屋はないと思うの。それがアリなのは、硝煙の薫りがする人だけだもの」
 場は混沌とした空気に包まれた。
「本当は、文学少女が良いで」
「ダメ却下」
 それは音速並に速いツッコミだった。
 実際、声だけれど。
「文学少女は、ヒロインの常套。常套なの。絶対に回避しなくちゃいけないの」
「そ、そうですか……それなら、病弱で」
「却下、却下、きゃーーーーーーっか! それも王道! 王道なの! ダメ、全然ダメ! なゆなゆは何にもわかってなーい!」
 朱莉は突如、噴火した。
 と言っても、何処か演技じみているのは、実際そうだからに他ならない。
「良い? 私が目指しているのは、王道、常套、本命、月並み、ノーマル、ありきたりを排除した設定なの。でも、型破り過ぎるのもダメ。この絶妙なバランスで天下を取るの」
「何の天下だよ」
「兎に角、やり直し。なゆなゆ、考えて。きっとある筈よ。貴女だけの、トバし過ぎない属性が」
 忍の呟きは完全無視し、朱莉は催眠術でも掛けるような目で、名夕に迫った。
 それに怯えつつも、名夕は思案を練る。
 そして――――
「……では、メイドで」
 結果、割と微妙なのが出た。
「メイドは……ダメなの。メガネと同じで、メジャーな割にはマイナーなの」
「どっちだよ、と言いたい所だけど、何となくわかる自分が悲しい」
 嘆息する忍と、名夕の視線が合う。
 明らかに助けを求める目。
 忍の中で、再び彼女に対する評価が再燃した。
「なら、『和み系引き籠り』なんてどうだろう」
「……和み系引き籠り。それはつまり、ほわーっとしてるけど、引き籠りの女子ってコト?」
「いえす」
「成程。和み系引き籠り……良いの。良い方向性。でも、ちょっと長いから、和み系とニートを合わせて和みーとでどう?」
「肉じゃん。それダメな方だろ」
「で、では、ほわ籠り、略して『ほわこも』でどうでしょうか」
 恐る恐る進言する名夕に、朱莉の首がキュッと反応する。
「それ! それで決定! なゆなゆ、良い仕事したじゃない!」
 自分の『ほわーっと』が骨子となった為、ご機嫌だった。
 忍はそんな気の利いた名夕の提言に、思わず感心を覚える。
 尤も、そこまで深く考えていない可能性も大いにあるが。
「ってコトで、なゆなゆは『ほわこも』。元々ほわーっとしてるから、適当に引き籠ってて頂戴。主に部室に」
「わかりました」
「そんな安請け合いして大丈夫……? なんか体よく入部させられてるけど」
「えっと……大丈夫です。でも、なんて言う部活なんですか?」
 名夕は入部する事に抵抗はないらしく、寧ろ積極的に情報を得ようとしていた。
 一方――――部の発起人である筈の朱莉は、その疑問に暫し硬直。
 考えていなかったらしい。
「ちょっと待って。じっくり考えさせて。部の名前は大事なの。これで、物語の方向性が決まるの。とっても大事」
 何かの重圧に押し潰されているかのような物言いで、朱莉は思案に耽る。
 結局この日はそれ以上何も決まる事なく、夕方を迎えた。
「明日には考えておくから! 大々的な発表会をするから、遅れちゃダメよ!」
 と――――まるで負け惜しみのような弁を置き土産に、朱莉は部室を出て行く。
「ふぅ……全く」
 程なくして。
 そんな呟きを、名夕が口にする。溜息交じりに。
「……あれ?」
 それまでとは全く異なる、何処かアンニュイな印象すら与える語調に、忍は思わず顔をしかめた。
 明らかに、朱莉が去った事で、被っていた猫を剥いだと言う展開。
 だがそこには、根本的な疑問が浮かび上がる。
 上級生でも、目上の人間でもない相手に、何故猫を被る必要があるのか――――
「それでは、私達も帰りましょうか。遠藤さん」
「ああ……って、え? なんで俺の苗字、知ってんの? 名乗った……っけ?」
「いえ。刹那さんに聞きました。さっき、ジュースを買いに行って貰っている時に」
 それは、特に矛盾のない、優等生的な回答。
 だが、忍は更に疑念を深めた。
 あの状況で、朱莉が忍の名前をわざわざ教えるような会話の流れになると言うのは、考え難い。
 となると、自ら聞いた事になる。
 ならば、その理由は――――?
「ま、まさか……」
 一瞬、忍の胸が弾ける。

『まさか――――自分に興味を持っているのでは?』

 そんな期待で。
 実際、それならば、色々と辻褄が合う。
 朱莉に強引なくらい話を合わせ、入部に対し一切の迷いなく受け入れた事も。
 そして、朱莉に対して猫を被っていた事も。
 この空間に留まる事を許される為……と言う御都合主義的推論が、忍の頭の中で一気に重量を上げた。
 しかも、自然に一緒に帰ろうと誘って来た。
 間違いない、彼女は俺に興味を示している――――期待は、特に明確な証拠もないのに確信へと移行していた。
「どうかしましたか?」
「いや! 何でもない。それじゃ……帰ろっか」
「はい」
 その返事と、笑顔を見て――――忍は認識を改めた。
 彼女は、那由他名夕は変人じゃなく、健気な女子なのだと。
 猫を被ってまで、自分と一緒にいたい健気な女子。
 しかも可愛いとなれば、それは最早、夢だ。 
 そして、並んで下校。
 彼女を作ると心に決めた日から、女子との下校はベスト一〇に入る程の夢。
 まさに、夢心地だった。
 更に――――夢はまだ終わらない。
「あの……何処か、二人だけでお話し出来る場所に行きませんか?」
「……へ?」
 視聴覚室を出た直後に、突然そんなお誘いの言葉が、名夕の口から出てきた。
 だが、ここで忍は我に返る。そう、夢は夢。未だその全容が明らかになっていない、実態なき幻。
 余りにも、出来すぎている。
 もしかしてコレは、アレじゃないか。
 さっき言っていた『殺し屋』って言うのが実は伏線で、本当は気になってたんじゃなく、標的にされてるんじゃないか――――そんな懸念が、忍の頭中で渦巻き始めた。
「は、はい。行きましょう」
 が、所詮は男。
 危機感を抱きつつ、甘い誘いに乗り――――辿り着いたのは、屋上。
 余りにもベタだが、この学校の屋上には人気が一切なく、都合良く鍵も壊れている。
 絶好の『二人きり』スポット。
 そして同時に、自殺者が出てもおかしくないスポットだ。
「何から話しましょうか……」
 手すりに触れつつ、名夕は意味深な『語り』を始める。
 期待は既に三〇%を割り込み、大半は命の危険に怯える心境で、忍は言葉を待った。
「遠藤さん」
「は、はい」
「貴方は……この世界が描かれていると、思いますか?」
 ここに来て、出て来たのは朱莉の『この世界が描かれている』説。
 ますます不安を募らせつつも、質問の意図を色々と考え――――
「思わない、かな」
 そう答えた。
 それが本音かと言うと、そう言う訳でもないのだが。
 それに対し、名夕の対応は――――
「そうですか」
 特にどうと言う事のない、平坦なもの。
 忍は選択肢を誤ったような心持ちで、更に冷や汗の量を増やす。
 だがそれは、直ぐに消えた。
「あんなご都合主義のアイテムを使っておいて、そう言いますか」
 人間、本当に驚いた時、汗は引く。
 代わりに滲むのは、言いようのない圧迫感。
 そしてそれは、やがて――――
「……あ、あんなアイテムって、何の事かな?」
「惚けないで下さい……と言いたい所ですが、そう言う訳じゃないんですよね」
 具体的な痛みとなって、心の蔵を叩く。
「これにも、今は見覚えがないですよね?」
 その言葉と同時に、眼前に掲げられたのは――――羽根ペン。
 だが、『現在の』忍は、それが何なのかわからない。
 それを承知している様子で、名夕は薄く笑う。
 忍は、そんな意味のわからない状況に、加速する動悸を抑えられず、吐き気を催した。
「それなら、覚えておいて下さい。今日が終わるまで。この羽根ペンと、次の言葉を」
 夕日が、空を染める。
 赤く。
 朱く。
 紅く。
 まるで、ジワジワと血を滲ませているかのように。
「この世界を描いているのは――――貴方ではありません。私です」







                                   1st chapter  "where's heroine?"

                                       fin.



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