その日、空は澄み渡るような青空が広がっていた。
 それはこの上なく平凡な空。
 一年で最も多い天候の象徴たる風景に過ぎない。
 そんな空をありがたいと思う人間を、子供時代のセシル=ハイドンは受け付けられなかった。

 自我というものが備わって、どれほどの年月が流れたのか。
 セシルはその日々の中で、一度として晴れた空に心を動かされた事はない。
 同時に、自分の性格が決して一般的に好まれるものではないと自覚していた。

 しかしそれは、仕方のない事だとも思っていた。
 性格は持って生まれた素養と環境とが複雑に絡み合って作り出される。
 ならば、天才と言われる両親の元に生まれ、毎日毎日起伏の激しい旋律と落ち着かない律動を耳と頭に叩き込まれる生活を強制された自分に、およそ"平凡"が入り込む余地などない。
 平凡――――つまり一般人と相容れる事は、到底あり得ない話だった。

 故にセシルはごく自然に、周囲から疎まれ、嫌われ続けた。
 妬まれ、訝しがれ、煙たがられた。
 音楽国家ホッファーで確かな地位を築いた両親の富と才能を生まれながらに用意された彼女にとって、それは必然だったのだろう。
 それでも、セシルは気に留める事なく生き続けた。
 音楽国家に生まれた天才児としての自分の役目を果たすべく、毎日奏で続けた。

 心の支えだったのは、家で飼っていた猫。
 妙に狩りが上手く、よくセシルの前に自分が仕留めた獲物を持ってきては誇らしげにしていた。
 決して明度は高くなかったが、セシルにも光は在った。
 
 転機となったのは、15歳となった日の翌日。
 その頃には、彼女が演奏できる楽器の数は優に100を超えていた。
 それだけの楽器を揃えるだけでも相当な費用を必要とするが、当時のセシルにはその理屈はわかっていても、理由は理解できていなかった。

 何故、そんな異常な数の楽器を試さなくてはならなかったのか。
 答えが判明する半年ほと前、セシルは王城へと招かれた。
 ただ、そこは決して光の射す事のない、重厚な壁と扉に囲まれた『暗室』だった。

 そこに山ほど積まれた楽譜は、いずれも15種類以上の楽器を使用するという、通常の交響曲ではまず見られない構成のものだった。
 凡人ならば、何が書かれているかを理解するのにも相当な時間を要するほどの複雑怪奇な楽譜。
 一流の演奏家であっても、思わず吐き気を催すようなそれを、セシルは毎日眺め、そして覚えていった。
 楽譜の暗記は苦痛どころか億劫ですらなかった。

 セシルは――――その非凡な日々を楽しんでいた。

 楽譜群が魔曲を演奏する為のものだとセシルが知ったのは、その半年後。
 更に半年後、彼女は人知れず家を、そして国を出た。
 そうする事で解決する問題は決して多くはなかったが、それ以外の選択肢はなかった。
 
 旅立ちの日。
 陽の落ちた空はそれとは無関係に紅く染まり、熱を帯びたセシルの肌からは大量の雫が滴り落ちていた。
 過去は灰と化し、残されたのは未来への広い広い道。
 しかしその道は余りに暗く、両親や愛猫の待つ実家にも繋がってはいなかった。
 光がなければ現在地すら掴めない、ちっぽけな人間。
 セシルはその日、前を向いて歩く事の難しさを初めて知った。

 


「まさか、本当に来るとは思っていなかったであります」

 滑稽な軍人口調とは裏腹に、ナユタ=ティオフは不敵な笑みを浮かべ、そう告げる。
 ゲシュペンスト大聖堂の広大かつ厳粛な礼拝堂の空気には溶け込まない、異物そのものという彼女の目を、セスナは無表情で眺めていた。
 
「自分から招待状を渡しておいて、随分な言い方っしょ」

 しかし、決して心の中は無とは言い難い。
 その発端となった、クシャクシャになった紙を右手から離し、床に落とす。
 微かに広がったその紙には『明日の演奏会 一人で来るべし さもなくば仲間に厄災が降りかかる』と記されていた。
 昨夜、ナユタが休憩室に押し入り握手をした際、こっそり手渡したもの。
 マニャン語で記されている為、仲間の誰かに見られたら、直ぐにそれとわかる脅迫状だった。

「二年前みたいに、尻尾を巻いて逃げるとばかり思っていたであります。誰にも告げず一人で〈魔曲軍〉を抜け出した時のように」

「久々に再会した幼なじみの古傷を抉ってくるあたり、すっかり外道に成り果てたっしょ。ナユタ」

 礼拝堂の祭壇の前に立ち、それでいて教祖とは程遠い敵意を帯びながら語りかけてくる幼なじみ。
 セスナはそこに幼少期の面影を探していた。
 といっても――――ナユタのではない。
 セスナが探していたのは、かつての彼女の目に映っていた、かつての自分自身の姿だった。

「不肖ナユタが外道に堕ちたのなら、セシルは人として落ちぶれたのであります。その姿、その話し方……才能と自身に溢れた少女の面影が微塵もないであります」

「余計なお世話っしょ。それに今はセシルなんて名前じゃないっしょ。その名前はもう、あーしのものじゃないっしょ」

「国を捨て、音楽を捨て、名を捨て……これ以上生き恥を晒してどうするでありますか?」

「……」

 セスナは言い返す事が出来ず、逃げるように視線を周囲へと泳がせた。
 礼拝堂には二人の他、ナユタを除く〈ヴィーゲンリート交響楽団〉の全員が壁を背に室内をグルリと取り囲むように配置されている。
 そして、もう一人――――

「さ、さっきから一体何を訳のわからない事をゴチャゴチャ話しているんだ! それより、"演奏会"をはまだなのか!? ここまで来て中止などと言うのではあるまいな!」

 楽団が催す予定の演奏会に招かれたマニャンの要人、ピリージ=ベルハルムは憤怒の表情で礼拝堂の席を立つ。
 年齢は46。
 中立国家という立場上、非常に優秀な人材を揃えているマニャンの外交官において、そのトップに立っている外務長官だ。

「もしこの僕を蔑ろにするというのなら、正式にホッファーの王家へ苦情を入れてもいいのだぞ!」

「やれるものならやってみるであります。その度胸が貴公にあれば、の話でありますが」

「ぐ……」

 しかしナユタは、その招待客の抗議をまるで意に介さない。
 彼の弱味を握っているからだ。
 表向きは人格者として通っているピリージだが、外交官として世界中を飛び回った彼には別の顔がある。

「違法植物収集家……中立国家の外務長官が、随分と腐った趣味をお持ちでありますね」

「なっ……き、貴様! 無闇にそのような事を口にするな!」

「心配無用であります。この礼拝堂の中にいるのは、決して秘密を口外しない者だけなのであります。外部からの侵入者は、貴公の連れて来た屈強な護衛が排除するであります。それに……」

 ナユタの大きな目が急激に面積を狭め、鋭さを見せつける。
 瞼の動きを完璧に制御している。
 神経が極限まで研ぎ澄まされている証だった。

「演奏会は予定通りに行うのであります。開始予定時刻まであと六分。大人しく待っているであります」

「そ、そうか。ならいいんだ。なら何も問題はない」

 落ち着きのない様子で、ピリージは再び椅子へ腰を下ろす。
 カタカタと身体を揺すり、やや乱れた呼吸はそのままに、右手親指の爪を噛み不気味な笑みを浮かべるその姿に、セスナは思わず不快感を覚えた。

「貴女に他人を観察している余裕はないのであります、セシル」

「だから、その名で呼ぶなっしょ!」

「そうはいかないであります。不肖ナユタにとって、貴女はセシル以外の何者でもないでありますから。貴女が既にこの世の者ではないのなら、話は別でありますが」

「……ここで発生した幽霊事件だったら、もう解決済みっしょ」

 セスナはそんな軽口に応えつつも、ナユタがどれだけ自分の事を調べているか、あらためて理解した。 
 今回の演奏会が、自分を巻き込むのを前提に計画されたものだという事も。

「あーしを招待した目的は、魔曲の楽譜っしょ?」

「……確かに、貴女が〈魔曲軍〉を抜け出した際に全て燃やした楽譜については、どうにか復元したいと考えているであります。貴女の頭には全ての楽譜が暗記されている筈なので、貴女だけが復元可能なのであります」
 
 つまり――――セスナに彼女自身の手によって失われてしまった魔曲の楽譜を復元させる事。
 それがヴィーゲンリート交響楽団〉の、すなわち〈魔曲軍〉の目的の一つ。
 ホッファーの楽団がアクシス・ムンディに依頼をしてきたとユグドに聞かされたその時から、セスナはそれを感じ取っていた。

 であるならば、自分は一体どうすべきか。
 決して得意ではないが、セスナは必死で対応策を考えた。

 もし素直に依頼を受ければ、自分は必ず狙われる。
 場合によっては他の隊員も巻き込まれる恐れさえある。
 保身の意味も込め、ユグドに依頼を断わるよう訴えたが、それは却下された。
 自分の過去を洗い浚い話せば結論が変わった可能性もあったが――――それは出来なかった。

 なら次善策は何か。
 考えた結果、セスナは魔曲の軍事利用の話をし、更に〈魔曲軍〉の名前を出す事で、ユグド達に魔曲への警戒心を植え付けた。
 そうすれば、無闇に足を突っ込む事はなくなる。
 どのタイミングで楽団が自分に接触してくるかはわからないが、隊員を巻き込まない形にどうにか持っていきたい――――その一心で、向こうから接触してくる前に自分から乗り込む算段すら立てていた。

 なので、脅迫という形で一人呼び出されたのは幸いだった。
 セスナの意思だけで乗り込めば、ピリージの護衛から止められていたかもしれない。
 尤も、例え望んだ形での対峙であれ、してやったりの心境になれる筈もないが――――

「あの『暗室』に集められた楽譜は、ホッファーでその存在が確認されている魔曲の七割強を占めていたであります。それが全部失われたのは大損害であります。セシル……貴女の行いは死罪に値するのであります!」

 声を荒げているというのに、ナユタの目は嗤っている。
 セスナは幼なじみの姿から目を反らしたい衝動に駆られ、視線を下げた。
 こみ上げて来る想いは果たして、誰の為のものなのか――――

「けれど、もし貴女が記憶してある全ての楽譜を復元して戻ってくるならば、刑罰は最小限に出来るであります。既に上とは交渉済みであります」

「そんな必要はなかったっしょ。洗脳効果のある魔曲の一つくらい、まだ残ってるっしょ? あーしを捕まえてそれを聴かせれば、確実に復元できるっしょ」

「……所詮、天才に我々凡人の苦悩はわからないでありますね。魔曲を演奏する事がどれだけ難しく、大変か」

 ナユタの声には、発言内容とは裏腹に妬みや呆れは含まれていない。
 そこにあるのは――――セスナの才能に対する信望と執心。

「演奏に失敗すれば、どんな負の作用が襲って来るかわからない……そんな中で普段通りに演奏できる者などホッファーの中にも殆どいないであります。貴女の"魔曲を演奏する才能"は例外中の例外であります。貴女が抜けた事で〈魔曲軍〉は弱体化の一途を辿ったのであります」

「大げさっしょ。あーしが一人抜けたところで何も変わらないっしょ」

「それは貴女がホッファーにいないから言えるのであります」

「……?」

「ホッファーは……音楽国家としての誇りを失いつつあるのであります」

 その言葉の意味を、セスナは理解できなかった。
 そもそも、セスナは故郷を音楽国家だと強く意識した事はない。
 必要がなかったからだ。
 生まれた時から常に音楽が傍にあった。
 それは彼女にとって、国家の冠でも看板でもなく――――日常だった。

「かつて貴女を中心に編成された〈魔曲軍〉は今、他国の遺産を頼りにせざるを得ない、国家の誇りを欠落させた部隊となりつつあるのであります」
 
 そのナユタの述懐は、紛れもなく自嘲だった。
 それも自分だけではなく部隊全て、引いては国家をも否定するような発言。
 であるにも拘らず、他の楽団員達は何ら感情を発しない。
 一種異様な、不気味な雰囲気が漂っている。 

「その"音楽国家の誇り"とやらを傷付けるのが、これなのだな」

 ここに長居すべきではない――――そう判断したピリージは、やや強引に二人の会話への介入を試みた。
 外務長官という地位に登り詰めるまでに何度も危ない橋を渡り、それなりの数の修羅場を経験してきた人物。
 その嗅覚"だけ"は、未だ健在だった。

「そろそろ六分だ。いい加減確かめてくれたまえ」

 そう捲し立てたピリージが、足元に置いてあった大きいケースを開ける。
 中から取り出したのは――――角笛。
 楽器とは思えないほど豪華な装飾が施されたその紅い角笛に、セスナは思わず目を疑う。
 通常の角笛と異なり、捻れた構造のそれは、到底笛としての役割を果たす形状ではなかった。

「どういう……事っしょ?」

「察しの通り、あれは楽器と呼べるシロモノではないのであります。しかしあれこそが、我々がここへ来た目的。〈魔曲軍〉の敗北を意味する物であります」

 敗北。
 ハッキリとそう、ナユタは告げた。
 
「魔曲の軍事利用で最も大きな関門となっていた事……セシルは当然、知っているでありますね」

「……戦争時における利用方法っしょ」

「そうであります。魔曲の正体が国外に一切漏れていないならまだしも、実際は噂程度なら他国の一般人すら聞き及んでいるのが現状であります。緊張感の高い状況では警戒され、使い物にならないのであります」

 もし、他国がホッファーと戦争を始めた場合、真っ先に気を付けるのは魔曲だろう。
 一つ間違えば、一軍全滅という可能性すらあるからだ。

 ただ、魔曲演奏は時間にしろ効果範囲にしろ、とにかく融通が利かない。
 加えて一流演奏家でも手を焼く程の高難易度とあっては、演奏しながら敵の攻撃を回避するという器用な真似も到底できないだろう。
 当然、戦時中に敵国の演奏会に招かれる阿呆はいない。
 どのような方法であっても、魔曲を使って敵を倒すのは難しい。

 仮にそれを可能とする方法があるとすれば、お手軽に魔曲を相手へ聴かせる事が出来る場合のみ――――
 
「そこで取引という訳だ。これ一つで魔曲が奏でられるという幻笛ギャラルホルンと、ホッファーでのみ栽培している〈レヒツ草〉。さあ、"演奏会"を始めてくれたまえ」
 
 最早一刻の猶予もない――――そんな面持ちのピリージが使用している演奏会とは、取引の隠喩だった。
 セスナの存在を気にしながらも許容しているのは、あくまでも演奏会という体を前提としているからなのだろう。

 しかしながら、違法性の高い取引を行う現場に、例えどのような理由があっても部外者を同席させるのは、本来ならばあり得ない事。
 明らかにピリージの思考は正常ではなかった。
 外務長官という、国家を支える柱の一つに数えられる人物が、それに気付かない筈がないのだから。

 そしてそれが違法植物の摂取による思考障害だという推測も容易に立てられる。
 要は依存症による過剰摂取で起こった弊害だ。

 紳士然とした衣服に身をまとい、優しい中年男性という顔立ちのピリージ。
 中立国家の外務長官という肩書きもまた、清潔感、健全性を示している。
 しかしその実像は、新たな違法薬物の入手を目前に控え、肩を揺らし興奮する犯罪者。
 そしてその姿は、魔曲によって精神を破壊された人間とよく似ていた。

 かつて、自分の"失敗"によって壊れた人間と――――

「セシル。これが最後であります」

 唐突なナユタの宣告に、セスナはふと我に返る。

「楽譜の復元を約束し、〈魔曲軍〉への復帰を果たすならば、貴女の過去を全て水に流すであります。もしその意思がないのならば……」

「いい加減、クドイっしょ」

 しかし答えは決して"ふと"でもなければ思いつきでもない。
 最初から決めていた事。
 楽譜を燃やし、過去を灰にすると決意をしたその時から。

「あーしの名前はセスナ。セシルなんて人間はもういないっしょ」

「……了解であります」
 
 ナユタは暫くの間沈黙し、やがてピリージの足元のケースに収納されていた幻笛ギャラルホルンを手に取る。
 そして、その遺産が果たして本物か否かを確かめるべく、そして己の目的を果たす為――――

「これより〈ヴィーゲンリート交響楽団〉主催、特別演奏会を開催するであります」

 思い切り、息を吸い込んだ。









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