大海原。
 それは何時の時代も、何処の世界においても浪漫の源泉だ。

 人はどうしてここまで海に憧れるか。
 その答えを知る術は、今も無限に広がっている。
 ただ、その愚かしいほど青く透き通った世界に身を投じればいい。
 人間など及びもつかない、渺茫たる存在が待っている――――

「お、落ちたーっ! あの鎧娘、甲板から落ちたーっ!」

 しかし、幾ら懐深く無辺際の海原と言えど、人体の数倍の重量を持つ金属の塊を優しく受け止めてくれるほどは慈悲深くない。
 鎧娘――――そう呼ばれた少女、チトル=ロージは着水と同時に何の抵抗もなくあっという間に沈んでいった。
 それはまるで、悪夢が一瞬で消え去り目覚めた瞬間の朝の風景に似ていた。

「ど、どうするんですか!? もう助ける助けないの次元じゃないですよアレ!」

 とはいえ、旅客船スキーズブラズニルの広い甲板の上は今まさに悪夢真っ直中。
 左舷のハンドレールから身を乗り出し、仲間の高速沈降を目の当たりにしたユグド=ジェメローランの悲痛な叫びが響きわたるも、冷静に応える相手はいない。
 何故なら――――

「こっちは今それどころじゃねぇよぉー! お前がなんとかしろよぉー!」

 現在、甲板は右舷に隣接している海賊船からワラワラと侵入してくる海賊との戦闘が勃発中。
 自分の身を守るので精一杯だからだ。

 ユグドの声に応えたアクシス・ムンディのリーダー、シャハト=アストロジーも次々と斧を振りかざしてくる海賊達から逃れるのがやっとで、まともに考え事をする余裕など一切ない様子。
 だがユグドは納得いかず、声を張り上げた。 

「オレ泳げないんですよ! っていうか、あの沈む速度に追いつけるような泳ぎの達人なんて、この世にいない気がします!」

「だったらもう手遅れじゃねぇかよぉー! どうしようもねぇなら諦めろよぉー!」

「アンタそれでもリーダーですか! ただでさえ面倒臭い存在なのに部下への愛もなく役立たずじゃ生きてる価値ないですよ!?」

「そんな全力で萎えること言わねぇでくれよぉー! こちとら今戦意喪失したら確実に死ぬ状況なんだからよぉーうわーっとっとぉー!」

 正面と背後からほぼ同時に振り下ろされた斧を、シャハトは足をもつれさせながらも右側に転がるように回避し、事なきを得た。
 リーダーシップはともかく、身のこなしに関しては一流の部類だ。

「くそっ……! チトル……!」

 既に視界から完全に消えてしまった鎧娘の名を呟き、ユグドは顔をしかめる。
 このままでは溺死は確実。
 目の前に迫る仲間の死に対し何もできない。
 無力感に苛まれたユグドは、思わずハンドレールを両手で叩く。

 それが――――よくなかった。

「……あれ?」

 不運だったのは、その叩いた部分が相当に痛んでいたこと。
 たかが"交渉人"の八つ当たりで壊れてしまうほどに脆くなっていたこと。
 そして、怒りに任せた行動だったため、やたら体重を乗せていたこと。
 結果――――

「あーれー……」

 破壊されたハンドレールの向こう、つまりは海へとユグドは自ら飛び込む格好となった。
 泳げないユグドにとっては自殺行為。
 しかも今、助けを求めたところで応えてくれそうな人物はいない。
 仲間は全員、海賊の相手で手一杯という状況なのだから。

 あ、死んだ――――

 ユグドの頭は宙に舞う間、そんな単純すぎる思考のまま固まってしまった。
 だから、気付かなかった。
 着水する直前に、自分の身体の周囲に起こった『変調』に。
 
「――――――――――――――――!」

 誰かの声にならない声が、遠くから聞こえてくるなか。

 ユグドの意識は、そこで途絶えた。









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