恥部。
 恥ずべき事。
 他者に知られたくない事実。

 それは誰の心の内にも常にあり、だからこそ人が人である証でもある。
 そして人間は、恥を掻く事を恐れ嘘をつき、時に犯罪を犯し、他人を攻撃する。

 恥とは、すなわち――――人の業。

 誰もが正しい道を進み、正しい的を射貫きたいと願う。
 けれど全ての事柄に対し、それが出来るのはほんの一握り。
 大抵は時に中心を射貫き、時に大きく外し、そしてその繰り返しの中で自分の程度を知っていく。


 フェイル=ノートは薬草学の権威の息子として生まれた。
 しかし彼にはその父親が歩んだものと同じ道は用意されなかった。
 代わりに進んだ道の上には、遠くまで良く視える目と、暗闇でも視える目があった。

 その二つが正しく合わさった時、彼には過去が何処までも視えた。
 遠い過去が、暗澹たる過去が、澄み渡るほど鮮明に視えた。

 そこに映し出された幾つもの恥部は、その数だけ人の業であり、この世界の歴史であり、そして――――人だった。

 フェイルは、運命というものがあるとは欠片も思っていない。
 あらかじめそこにあるものへ向かって行く事は、例えそれが偶然だとしても、必然ではあり得ない。
 辿り着くまでの道程に決して規則性などない。

 だから、自分がこの両目を得たのは運命ではなく、まして恩恵でも罰でもなく、勿論使命などでもなく、偶然の産物であり意味などないと結論付けていた。
 故に、自分が置かれている境遇に不満も後悔もない。
 無数に落ちてある路傍の石の中の一つを、何の気なしに蹴飛ばしてしまい、それを思わず手に取ってしまったようなもの。

 あるとすれば――――罪悪感くらいだった。


「……」


 その数多ある罪悪感の中の幾つかは、眼前の墓に眠っている。

 かつて"銀仮面"という、格好悪い異名を持っていた男――――デュランダル=カレイラが眠るその墓は、ヴァレロン新市街地の一般墓地の中にひっそりと佇んでいる。
 墓石も極めて平凡。
 次世代の剣聖、エチェベリアの希望とさえ言われた男の墓としては、余りに質素だった。

 けれど、彼はそういうものを好んだ。

【銀朱】副師団長の任命式の日、その見物に訪れていた少年が、デュランダルに対し『あの人、銀朱の偉い人になれるのにどうして無表情なの? 仮面被ってるみたい』と呟いた。
 それを聞いていた王宮内の誰かが、陰で『銀仮面』と彼を揶揄し、それが広まった事で付いた異名。
 しかしデュランダルは、その素朴さを気に入り、そのまま定着するのを黙認した。

 その話を本人から聞いたフェイルは、デュランダルという人物の生きた道を他の者より少しだけ見通せたように思えた。
 国の為に強くなって、自分の為に強さを求めて、そうやっていつか――――生き甲斐を見つけようとしていた、ごく普通の青年だったのだと。

 デュランダルは遺書の類は残していなかったが、辞表は用意していた。
 副師団長のみならず銀朱からも消える覚悟で、剣聖ガラディーンと一戦交えたのだと、フェイルはそう理解した。

 ガラディーンの自分への嫉妬を、デュランダルは把握していた。
 だから、いつか彼が破滅を覚悟して自分に挑んでくる事も予想していた。
 彼が剣聖としての人生を全うする為には、そして剣聖という称号が穢れない為には、自分が勝つしかなかった。


 どんな手を使ってでも。
 何を身体に取り込もうとも。


 そして、ガラディーンとの勝負が決した時、デュランダルは目的を果たした。
 次は後始末だ。

 銀朱の副師団長が、生物兵器に冒されている事実を万が一にも国民に知られてはならない。
 デュランダルは、自分の生きる道をそこで自ら閉ざす決意をしていた。
 辞表にそこまで克明に書いてはいなかったが、彼の性格と最後の言葉、そして彼が暗殺を含む特殊部隊を作ろうとしていた事実からも、自分の手で後始末を付けようとしていたのは明白だった。


 何度考えても、その結論にしか辿りつけなかった。
 フェイルはその度に苦悩し、自分の出した結論を悔いながら、それでも師匠の肉体を火葬し、土にその骨を埋めた。
 万が一にも、自我なき姿で生き返る事のないように。

 デュランダルという人間は、最後まで自分の望む人生を歩んだと、そう後世に継がれるように。
 フェイルは業を背負った。


「……本当、とんだ貧乏くじだよ」


 雨の滴る夜の墓地はひっそり静まりかえり、決して来訪者を歓迎しない。
 けれど、夜だけがフェイルの生きられる時間。
 雨の日ならば尚良い。

 直接的な指名手配こそないが、国王殺しと英雄殺しを兼ねている立場上、陽の当たる場所に出る事は出来ない。


「でも、なんとか受け止めてやっていくよ。僕がそうして貰ったように」


 それで良い。
 自分で歩んだ道だ。

 フェイルはそう納得し――――


「本当だったのか」


 踵を返そうとしたその時だった。
 あり得ない声がしたのは。

 夜間、雨、そして墓地。
 他人が訪れるなど、非現実的すぎる条件。
 つまり、自分を尾けて来たのは明白だ。

 今のフェイルは薬草士だった頃以上に気配の察知には長けているが、流石に雨の日にはその音に紛れ、近距離でもない限り能力そのままを発揮する事は出来ない。
 それを突かれたのだとしたら、油断以外の何物でもない。
 フェイルの視えない目が鋭利さを帯びる。


「ここに……あの方の墓があるのか」


 だがその目は、すぐに殺気と危機感を失う。
 余りにも懐かしく、余りにもあり得ない声だったから。

「シリ……カ……?」

 かつての盟友。
 少なくともフェイルはそう思っていたし、憧れていた女性でもあった。
 自分以上に困難な道を、それでも勇敢に突き進もうとする凛然とした姿に、内心惚れ惚れしていたが、つい憎まれ口ばかり叩いては後悔を積み重ねていた――――フェイルにとって青春の一片。


「貴様がやったんだな? フェイル=ノート」


 雨に濡れた前髪が、目にへばり付いて離れない。
 その容姿を正しく視認するのは難しい。
 それでもフェイルには関係なかった。
 
 聞いた声が、口調が、フェイルの脳内でその姿を映し出す。
 紛れもなく、そこにいるのはデュランダルの元部下、クトゥネシリカ=リングレンだった。

 デュランダルに憧れ、彼を目指し、しかし道を閉ざされ、王宮から去って行った、あの――――初恋の人。


「貴様が――――デュランダル様を殺めたんだな?」

 
 雨足が強まり、声が塗り潰されていく。
 まるで亡霊のような姿がフェイルには映っていた。
 そこにいるクトゥネシリカは実在しているというのに、フェイルはどうしても、自分の心の片隅に居座っていたクトゥネシリカへの臆念が作り出した幻聴に思えて仕方なかった。


「……そう。僕が師匠を殺した。僕がやったんだ」


 幻に向かって、そう告白する。
 長らく内在させ、圧縮させていた罪の意識が、雨の中にこぼれ落ちる。


「あんなに……優しくしてくれたのに。色々教えてくれたのに。目をかけてくれたのに。そんな人を……僕は、この手で殺した」


 ずっと認めていた。
 けれど、自分を責める訳にはいかなかった。
 そうする事を望んだデュランダルの為にも。

 それでも、消えてくれない。
 時間も、暗躍の日々も、夜も、雨も、決して消し去ってはくれない。
 自分の手で師匠に、慕った相手に止めを刺したあの瞬間が、どうしても。

 消えてはくれない。


「シリカ。師匠の仇を討ってくれるの?」


 だから、懇願するようにそう呟く。
 かつてデュランダルが自分に対してそうしたように。
 自分に引導を渡してくれる誰かがいるとしたら、それはデュランダルと縁の深い彼女――――クトゥネシリカしかいないと、そう思っていた。

 彼女を罪人には出来ない。
 けれど、こんな夜間の雨の日の墓地ならば決して誰も来ないし、ここへ来た足跡も残していない。
 ここで討たれれば、クトゥネシリカは誰からも咎められる事はない。


「僕を……解放してくれる?」


 既に、生きる目的の大半は叶えた。
 アニスの身体には長期にわたって異常は見られず、生活に支障もない。
 もう一つの目的も、協力してくれた者達のおかげで果たす事が出来た。


 だから、もう良い。
 終わらせてくれ。

 そういう願いを込め、フェイルは背負っていた弓と矢筒を地面に置いた。


「お願いだよ。僕を――――」


「これは重傷だね」


 ――――不意に。


 先程まで聞こえていた声が、全然違う人物の声にすり替わった。
 そう表現するしかなかった。


「……え?」


「私を元に戻してからずっと、生き甲斐をなくして罪の意識に苛まれてるって聞いてはいたんだよ。でも想像以上にダメになってるのかな」

「……はい。本当にもう、どうしようもなくダメになっています」


 声はもう一つ。
 しかし先程とは別人。
 フェイルの混乱は加速度的に進まざるを得ない。

「な、なんで……」

 その声が二つとも、とても聞き覚えがあって仕方がないものだったからだ。

「なんでじゃありません! 何言ってるんですか! もう!」

 その内の一つ――――ファルシオンの声に思わず身を怯ませ、彼女が近付いて来るのをただ呆然と待つしかなく、フェイルは狼狽する自分をただただ露呈していた。

「久し振りだね、フェイル君。此方はまだ約束を果たして貰ってないよ? 勝手にいなくなろうとしないでくれるかな」

 そしてもう一つの声は、無事に人の姿を取り戻したアルマ。
 再構築された彼女は、何一つ変わらないままだった。

「いや、今のはその……そんなつもりはなくて。ただ、偶に……そんな気持ちになるっていうか」

「だったら私達を頼って下さい!」

 至近距離まで来ていたファルシオンが、凄まじい剣幕で怒る。
 泣いているような声だった。

「え、えっと……なんでここが?」

「あの女に聞きました。今日、ヴァレロンの近くに向かう任務があるから、雨が降るようなら夜に墓地へ行くだろうって」

『あの女』に心当たりは一人しかいない為、フェイルの顔が思わず引きつる。
 尤も、任務内容など彼女には一切喋っていない。
 それを知っているのは、国王ヴァジーハ9世ただ一人だ。

「やっぱり、苦しんでいたんじゃないですか。全然大丈夫って、そんな素振りばっかり見せて……でも、傷付いてたんじゃないですか。どうしてそれを教えてくれないんですか」

「いや……その……」

 フェイル自身、そこまで追い詰められている自覚はなかった。
 今の日常にも、それなりに生き甲斐を感じてはいた。

 けれど心の何処かで、介錯を求めている自分がいたのも確かだった。

 そして、その相手に選んだのが――――


「やっぱり……昔の女が忘れられないんじゃないですか!」


 クトゥネシリカだった事を、ファルシオンは見逃してはくれなかった。

「いや違う誤解だって! そもそも昔の女とかじゃなくて! ただの僕の片想い――――」

「……え?」


 今度は、最初に聞こえた声が、先程までとはまるで違う感情と共に、そして先程より遥かにハッキリと聞こえた。
 いつの間にか、雨音が小さくなっていた。


「シリカも……いるの? 幻じゃないかったの?」

「勝手に幻影にするな。久々の再会だというのに、貴様という奴は……」

 呆れ気味に、そして何処か照れ臭そうに、クトゥネシリカは王宮時代と何ら変わらない声で溜息をついた。
 決して幻ではない。
 女性三人、夜の墓地でフェイルを取り囲んでいた。


「貴様の身に起こった事は、フランベルジュから全部聞いた。聞き出すのに随分手間と時間がかかったがな。最初は本当に、貴様を見つけ出して八つ裂きにしてやろうと思っていたが……」

「私が事情を詳しく説明して、アルマさんやハルさんやアニスさんがヴァレロンでの貴方の歩みを証言してくれて……それでも納得できないから、どうしても会わせろと」

 ようやく話が見えて来たものの、フェイルの困惑と緊張は解けない。
 思いも寄らなかった再会が、こんな形で果たされている事に、どうしても現実感を見出せずにいた。

 それでも――――


「……デュランダル様の死は受け入れ難い。だが、貴様のあの姿を見てしまっては、もう何も言えん」

 その口の悪さと奇妙な包容力に少しずつ、実感が湧いてくる。
 クトゥネシリカの姿が、先程より遥かに鮮明に見えてきた。

「随分、アッサリ引き下がるんだね」

「私があの方を崇拝していたのは、その強さとそこに至るまでの過程、人間性に対してだ。だが所詮、私では上辺だけしか見る事を許されなかった。あの方に目をかけられていた貴様とは違う」

「……」

「貴様とデュランダル様にしかわかり合えないものがある。ならば、部外者が口を出しても仕方ない」

 諦めたようにそう答えるクトゥネシリカに、フェイルは現実を悟った。
 自分を責めてくれる人は、もういないのだと。
 
「全く……どんな人生を送っているのかと思えば。やはりロクでなしだな貴様は」

「そういうシリカは今、何してるの?」

「自分は今、実家でパン屋を営んでいる。剣の腕は些かも衰えていないがな。フランベルジュにもまだまだ後れは取らん」

「……流行ってないんだね」

「時間が有り余っている訳ではない! 努力の賜物だバカ!」

 その懐かしいやり取りを、フェイルはしみじみと噛みしめる。
 生きていると実感したのは、随分久し振りだった。

「はぁ……」

 そして、そんな二人を交互に見ながら、ファルシオンは深く深く嘆息する。

 望んだ展開ではあった。
 アルマを元に戻すという目的を果たした事で、フェイルが燃え尽き思い詰めているという話はヴァールから聞いていたし、それを打破する最良の方法を思案した結果、クトゥネシリカに行き当たった。
 だから、狙い通りではあった。

「本当、面白くないですね……」

「それは仕方ないよ。フェイル君が元気になるのが一番だからね」

「アルマさん……貴女の立ち位置も、そろそろハッキリさせて欲しいんですが」

「此方はまだ約束を果たして貰ってないからね。全てはそこからだよ」

 雨に濡れた彼女は、地下にいた頃には決して見られなかった姿。
 その妖艶な美しさには、同性のファルシオンですら見れてしまう。

 本当に、受難ばかり。
 ファルシオンはそう嘆きながら、フェイルの手を強引に取った。

「え、ちょっとファル、何?」

「貴方は弱ってます。もう裏社会とか闇の世界とか言って、カッコ付けていても仕方ありません。暫く私……達と一緒にいて心を休めて下さい。国王には休暇を取るとヴァールから伝えて貰います」

「いやそんなの無理だよ! っていうか何処に連れて行く気!?」

「これから考えます。クトゥネシリカさんの実家には今フランもいますし、そこが最適でしょうか」

「逆に気疲れしない? それ」

「そうかもしれません。でも……」

 すっかり弱まった雨脚だが、決して止む事はない。
 いつまでも降り続け、道を雨水で浸す。


 水溜まりが映し出す空は、暗いまま。


「何処だって、貴方を心配している人達が、きっと集まってきます。今みたいに」


 雲間から覗く事のない光を、覆い隠し続ける。


「だから貴方は死ねません。そういうふうに、貴方は生きて来たんですよ」

「……そうかな」

「そうですよ。何より、私が貴方を死なせません」


 永遠ではなくとも。

 いつかその時が来るのだとしても。


「……今の僕の人生、結構面倒臭いよ?」

「構いません」


 天は暫く、隠し続けるのだろう。


「私にはどうせ、貴方だけなんですから」


 綺麗な空と――――

 


「なら仕方ないね」

 


 朝焼けのように真っ赤に染まった、人の業を。

 







 



                        "αμαρτια"





                          end









 

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