賢聖アウロス=エルガーデンの瞳に、値踏みするような意識は見られない。
 フェイルの目にはそう映っていた。

 本来なら、この目にはもう光は宿っていないのだから、見える筈もない。
 しかしその人物の発する声や息遣い、気配全般を感じ取る事でそう見える。
 世界の恥部を覗いた事による後遺症だとフェイルは理解していた。

 この世の中には、目を覆いたくなるような陰惨な出来事は幾らでもある。
 身を引き裂くような邪悪もある。
 各国の歴史の中には、例えば国家ぐるみで人間を売買するような時代もごく普通にあった。

 そういった人間の業を、フェイルは馬車に乗りながら眺める風景のように、長い時をかけて見つめてきた。
 当初は感情が波打ったが、次第に最前列で美術展の絵画を鑑賞するような心持ちになっていった。
 途方もない時間をかけ、見たくないものを見続けた事で、倫理観は完全に破壊されていた。

 それでも正気を保ち続け、一定の範囲内ではあるが道徳的観念を持ち合わせていられるのは――――自分が人間をやめてしまう訳にはいかないという強い使命感が残っているから。
 人の皮を被った別の何かになってしまったら、二度と会えない人達がいる。
 それだけが、今のフェイルの支えでもあった。

「深淵を覗くという表現があるが……それを真の意味で経験した事があるのは、世界で二人だけだろうな」

 そうアウロスが切り出したように、フェイルと同じく世界の恥部を覗いた人物はもう一人いる。
 流通の皇女スティレット=キュピリエ。
 彼女は今も行方不明で、目撃証言すらないという。

「単刀直入に問いたい。フェイル=ノート、あんたは『生物兵器の完全な除去の方法』を知っているか」

 駆け引きをせず、アウロスは自分の目的を端的に述べるも同然の質問をして来た。

「……その問いに答える前に、僕から質問をさせて貰っても良いですか?」

「ああ。構わない」

「理由を教えて下さい。どうして貴方は、その方法を知りたがっているんですか?」

 最も妥当な推測は――――対生物兵器の切り札とする事。
 生物兵器は元々、魔術に対抗する為に生み出された技術なのだから、賢聖の敵対勢力に生物兵器を使う連中がいるのは自然だ。
 寧ろ、生物兵器の開発を行った総元締めと戦争している可能性もある。

 本命視は出来ないものの、もう一つ有力な仮説がある。
 エチェベリアと同盟を結ぶ可能性の模索だ。

 世界の恥部を覗いた人間がいると各国に知られれば、このエチェベリアという国の立場は厳しくなる。
 いつその恥部を弱味として脅迫してくるかわからないような国を、そのままにしておく訳にはいかない。
 大陸中の国家が、共同戦線を張って潰しに来るだろう。

 しかしその情報が殆ど漏洩しておらず、今後もその可能性が極めて低い場合は、世界の恥部から得た知識を活用する事で、国力は寧ろ向上する。
 無論、活用し過ぎれば疑惑の目を向けられる為、各国への脅迫行為のような直接的行為は行えないが、各国が今後どのような分野に注力するか、どの国とどの国が裏で繋がっているかなどの予測は、各国の悪行から推察できる。
 また、秘密裏に行われた研究の知識を使って、生物兵器をはじめとした様々な技術の発展・応用も可能だ。

 そういう意味で、世界の恥部を覗いたフェイルを内に抱えるエチェベリアは現在、繁栄と衰退の両方の可能性を秘めている。
 ならば、どちらに向かうのかを事前に調べておきたいと考えるのは、隣国デ・ラ・ペーニャの有力者であれば当然考えるだろう。
 
 衰退に向かうのなら放置。
 しかし繁栄に向かう兆候があるのなら、ガーナッツ戦争の遺恨をなくし、共に手を取り合う事に意義を見出せる。
 例えデ・ラ・ペーニャの使者としてここに来た訳ではなくとも、それくらいの事を賢聖なら考えているだろうと、フェイルは目していた。

 あくまで、自国に迷惑が及ばない為の個人での訪問。
 私的な用事で来たと捉えるのは余りに早計――――

「親しい知人……友達が、生物兵器の後遺症で長年苦しい思いをしている。女性なんだが、傷痕として残っている上、いつ暴走するかわからない不安を抱えたままでいる。どうにか解放したやりたい」

 そんなフェイルの頭の中で組み立てられていた推論が、一瞬で崩壊した。

「……本当に私的な理由なんですね」

「ああ。だから国家間での交渉をするつもりはない。それを期待していたのなら申し訳ない」

 情に訴えるような内容の割に、感情を一切表に出さないアウロスに対し、フェイルは少し親近感を覚えていた。
 自分の周りにも、そのような人物が数人いるからだ。

 そして彼ら――――今となっては彼女らだが、彼女らは総じて優しい心を持った人達だった。

「要するに、友人を助ける為にこやつの力を借りたい訳か」

「はい。仰る通りです。不躾ではありますが……」

「だ、そうだが。どうする? フェイル」

 特に介入する意味もないのに、アルベロアは場を回すかのように話を振ってきた。
 主導権を握れなかった事に対する、せめてもの抵抗。
 国王となった後も、彼はそういう小者らしい一面を捨てきれずにいる。

 けれど、フェイルはそれをネガティブには捉えていない。

 完璧な王は頼もしくはあるが愛されない。
 彼の父親は、完璧を求めながら愛される事も望んでいた。
 それがまず失敗だった。

「ここで賢聖に借りを作っておけば、外交に有利に働くと余は見た。どれだけ私的な用をアピールしたところで、人間は所詮、感情で動く生き物よ。『あの時の借りを返さなければ』といった気持ちが何処かで芽生える。それが役立つ日が来るかもしれぬぞ」
 
「そういう有言のプレッシャーはやめてください……」

 アルベロアは決して優しい人間ではない。
 自分の国の為なら、勇者候補の少年の命を奪う事も躊躇なく行う――――悪だ。
 だからフェイルは決して彼を許してはいない。

 アルベロアの方も、フェイルが自分に抱いている感情を正しく理解している。
 それでも、表面上は『数少ない心を許している人間』として、フェイルに接している。
 いつか必ず崩壊するとわかっていても。

 それを望んでいるかのように。

「あくまで個人の願望だ。用意できる条件も謝礼も個人のレベルに留まる。本音を言えば賢聖の称号を私物化して、その範囲を最大限に広げたいところだが……まあ、誤魔化せる範囲でそれも実践する用意はある」

 そして賢聖もまた、清廉潔白といった人間ではなかった。
 一応、国王が砕けた事を言った事に対する同調――――というか悪ノリに近いものであり、ある意味では人としての礼儀を示した格好だ。

 そういう人物を、フェイルは嫌いになれない。
 根は真面目で、本当は清く正しく生きていきたかった筈なのに、裏切りに手を染めて一生悔いる傷を負った女性を好きになってしまったから。

 目的に為に手段を選ばないのは非常に愚かな事だが、迷惑をかける相手、範囲、程度を脳が擦り切れるほど吟味し、その上で自分が償えるギリギリのラインを設け、強引に道を作る。
 例え世間が白い目でみようと、フェイルはそういう人達を愛しく思う。

 だから――――

「わかりました。僕に出来る事があれば協力します」

 フェイルはそう答えた自分を、心から肯定した。

「……ありがとう。恩に着る」

「その代わり、僕も賢聖の知識を借りたい案件が一つあります。それを条件って事でお願い出来ますか?」

「了解した。こっちから持ちかけておいて、先に条件を聞かせろは流石に傲慢だからな」

「でも、本音ではそうしたいんですよね」

 アウロスは笑わない。
 フェイルは笑う。

 でも二人が笑い合っているように、アルベロアには見えた。

「ところで、賢聖ほどの人がそこまでして助けたい友達って、どういう人なんですか? 大学時代の仲間とか?」

「近いといえば近い。大学に務めていた頃に雇っていた情報屋なんだ。正直煩くて仕方なかったが、情報収集能力は際立っていた」

「へえ。僕が懇意にしてた情報屋の女性と似てますね。その人も一度喋り出すと止まらなくて。しかも大半が中身ないんですよね」

「同じだ。しかも馴れ馴れしい。少し無視すると怒り出すし、発言の不備を指摘するとまた怒る。その割に本気で怒る事はまずない。騒々しいくせに情緒のコントロールは行き届いているんだろうな。変な奴だ」

「そうそう。凄い構ってちゃんなのに、一定の距離からは近付いて来ないっていうか……あとお酒好き」

「肉もな」

「よく食べてよく飲んでよく喋って、忙しい人ですよね」

「全くだ」

 そして、妙に会話が弾んでいるその二人に対し――――

「……余の耳が確かなら、貴様等が言っている情報屋は同一人物としか思えぬのだが」

 呆れたようにそう告げる。
 すると両者は同時に沈黙し、同時に目を見て、同時にお互い指を指し、同時に各々が頭に浮かべていた人物の名を告げた。

 


「「ラディアンス=ルマーニュ」」

 


 その日、フェイルとアウロスは日が傾くまで彼女の話で盛り上がったという。












 

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