――――それは忌まわしき過去の、少し前の記憶。

 物心つく前の、本来なら頭の中に残る事すら許されない、存在しない筈の記憶。


『心配するな、リーフェ。お前は必ず俺が治してやる。俺が薬草士で良かったって、必ず思わせてやるからな』


 毎日、譫言のように繰り返される言葉。

 リーフェと呼ぶその女性の為に向けた言葉ではなく、己を奮起させる為の言葉。

 同時に、焦燥の証でもあった。


 若くして薬草学の権威となったビューグラス=シュロスベリーは、長い間家を空けていた。
 薬草学の研究に没頭し、魔術国家デ・ラ・ペーニャの教皇ゼロス=ホーリーを治す為。
 膨大な金を手に入れて、更なる研究に没頭する為に、彼は夫である事、父親である事を放棄していた。

 シュロスベリー家に母親はいない。
 しかしそれは不在という意味で、彼女は存命だった。
 アニスを生んだ直後、著しい体力の低下によって意識を失い、そのままヴァレロン・サントラル医院にて延命処置が施されていた。

 フェイルがまだ物心つく前、ビューグラスは使用人に彼と、二つ年下の赤ん坊のアニスの世話を任せ、一人研究に没頭し続けていた。
 妻のリーフェを眠りから目覚めさせる為に。
 生物兵器の研究を請け負ったのは、リーフェの延命に役立つと思ったからだ。

 彼は、この世界のあらゆる薬草を研究してきた。
 自然の神秘に触れ、何度も奇跡的な場面を目撃してきた。
 薬草によって、死にかけていた人間が数日で全快した事も、一度や二度ではなかった。 

 ヴァレロン・サントラル医院と連携し、リーフェの容体は詳細まで把握していた。
 彼女が意識を失ったままなのは、脳の一部が機能を停止しているから。
 いわゆる『植物状態』と呼ばれる身体になっていた。

 なら、治せる。
 植物について造詣を深めていた自分なら、植物のようになった妻を元の状態に戻す事は決して不可能ではない。
 そんな自負がビューグラスにはあった。

 ただし現状の医学では不可能であり、新しい技術が必須。
 そこで生物兵器に目を付けた。
 人間の中に、他の生命を浸食させるこの技術を用いれば、リーフェの身体を活性化させる事に繋がるし、生物兵器の覚醒によって脳を刺激する事で、意識が回復する事も望めると判断した。

 しかし、それだけでは足りない。
 長年眠り続けているリーフェの身体は、既に衰弱しきっている。
 劇的な回復をしなければ、例え意識が目覚めても身体がもたない。
 
 植物のような生命力。
 それが生物兵器と合わされば、リーフェは元通りになる。
 ビューグラスが見る夢は、妻の元気な姿に他ならなかった。

 そんな折、アニスが生物兵器を取り込んでしまった。
 ずっとメトロ・ノームで研究していたビューグラスにとって、家に研究素材を持ち込んだのは痛恨の極みだった。
 己の弱さ――――家で娘の顔を見ながら研究を続けようとした甘さが、悲劇を生んでしまった。

 重責が積み上げられる。
 国家のプロジェクトたる生物兵器の制御と運用、妻リーフェの回復、薬草学の権威としての振るまい、そして娘アニスの変貌。
 数多の責任が、ビューグラスを追い詰めた。

 それでも彼は、妻も娘も救おうと必死になってもがいていた。
 全てを背負い、全てを自らの手で解決しようと奔走した。
 義務感、責任感、或いは懺悔――――それらはまるで亡霊のようにビューグラスを蝕み、生活の全ての時間を捧げた彼は、やがて己の限界に行き着いた。 

 彼がフェイルをジェラール村という小さな農村に預けたのは、取捨選択の末の事だった。
 同時に、リーフェの事を彼やアニスに話す事を禁じた。
 ビューグラスにとって、最早子供の存在は足枷にしかならず、フェイルやアニスに母親がいる事そのものが、彼にとって重荷となっていた。

 だから事実を伏せ、父である事をやめ、薬草学の権威としての仕事を全て捨て、ビューグラスは残りの人生を研究に全てを費やすと決めた。
 子供を見捨てる事に、なんら躊躇はなかった。
 彼にとって、薬草士としての自分を誇りたいのは子供達ではなく、教え子でもなく、薬草士である自分を愛した妻リーフェだった。

 それから、ビューグラスが人の道を踏み外すのに、大して時間はかからなかった。

 成果が出ない。
 どれだけ苦心しても、膨大な知識を投入しても、たった一人の人間すら治せない。
 その非情な現実が、『妻を治す』という初心すらも、いつしか煩わしいものにしていた。

 アイデンティティを見失ったビューグラスは、薬草士としての本分に救いを求めた。
 薬草学が、薬草が、或いは毒草も含めたあらゆる植物が、この世界に大きな貢献を果たしているという事実の証明。
 それだけが、自分に成功体験をもたらし、自己を肯定させてくれると盲信するようになった。

 いつしかビューグラスは、花葬計画の成就こそが、自分の生きる意味だと定義付けるようになった。
 その為なら、あらゆる人間の命を実験台に用いる事が肯定される。
 かつての花葬計画のメインテーマであり、自身もその必要性を認めた――――


 安楽死という概念を振りかざして。

 


「……取り敢えず傷は塞いだ。だが所詮は医者でもない人間の応急処置に過ぎん。早く医者に診せなければ長くは持たぬぞ」

 アルベロア王子の右胸部は、ファオによって貫かれていた。
 腕の部分まで深く突き刺していた為、傷口は相当大きく、通常なら手の施しようがないところだが――――

「まさか、魔力の回復がこんな形で役立つなんてね」

 薄い布を前と後ろの傷口に充て、ファルシオンの魔術で凍らせる事で、最低限の止血は行う事が出来た。
 ビューグラスのアイディアだった。

 とはいえ、誰でも出来る事ではない。
 氷が薄すぎると再度出血するし、厚すぎると体温を著しく奪い死期を早める。
 青魔術のエキスパートであるファルシオンでなければ、難しい処置だった。

「ハル、王子を治療室まで運んで貰える?」

「おうよ。駆けつけたは良いが全然見せ場がなかったからな。これくらいはしねーと」

 如何にも彼らしい表現を残し、ハルは王子を担いで部屋を出て行く。
 その背中を目で追っていたフェイルは、息絶えたまま動かないデュランダルに目を向けた。

「死者は生き返るべきではない。それが一般論だとすれば、お前はどうだ。フェイル」

「……母親をどうするべきか、僕に問いたいの?」

 フェイルは世界の恥部を覗く途中、掘り起こされた自分の記憶の中に母親の真相を見た。
 だから、ビューグラスの意図は直ぐに読めた。

 元々身体が弱く、アニスを生む前から病院にいる時の方が多かった為、フェイルには母親の記憶は殆どなかった。

 フェイルが母親の事を敢えて話題に出さなかったのは、記憶の片隅に残る微かな記憶の中にいた母が、いつも苦しそうにしていたからだった。
 恐らくもう、この世にはいないんだろうとタカを括っていた。
 実際、ジェラール村から戻った際にシュロスベリー家へと招かれた時も、王宮から戻って三度その屋敷に踏み入れた時も、母親らしき存在は影も形もなく、ビューグラスが話題に出す事もなかった。

 それでも、母親の存在は何度となく意識してきた。

 ファルシオンの母親が代書人という仕事をしていると聞いた時。
 リッツ=スコールズの母親がトリシュだと知った時。

 フェイルの耳に何度も入って来る『母』という言葉は、その数だけ記憶を刺激し、残っていない筈のその姿を想像させていた。

「お前の開発した痛み止め……あれは優れた発明だ。だが痛み止めは痛み止め。治療の補佐にはなっても、治療薬ではない」

「……そうだね」

「儂も、それが限界だった。儂の……薬草学の敗北だ。どれだけ人を殺しても、妻を生かす薬は作れなかった」

 余りに今更過ぎる空虚なビューグラスの宣言を、フェイルはまるで他人事のように聞いていた。












 

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